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忠吉さんの泣き言 <C2488>

 深川・六軒掘の井筒屋を出た所で、八丁堀・幸町の本宅ではなく日本橋・具足町の萬屋に向かうことになったのを気にしたのか、千次郎さんが話しかけてきた。


「ここからですと、永代橋を使わず薪大橋を使うことになります。路は私が良く知っておりますので、はぐれないようについて来てください。銀座(現:人形町一丁目)の横を通り江戸橋を渡ると日本橋なので、そこから楓川沿いに歩いて向いますよ。新大橋を渡ったところには大名の御屋敷がありますので、どちらの藩の御屋敷かは都度お教えします。ひょっとしたら、今後ご縁ができるかも知れません。知っておいて損はございません。

 それから、本店では証文の処理をするだけですので、時間はかかりませんので、ご心配には及びません。御確認頂けたら、すぐにも本宅へ参りましょう」


「いえ、そのことは気になさらずに。実のところ、店の大番頭・忠吉さんに愛宕神社の神主様からの言付けを伝言してもらっており、その首尾も気になっていたところで、丁度良かったのかな、とも思っております。

 しかし、伝兵衛さんに『興業の席を用意するよう興業の勧進元に働きかけをする』と安請け合いしてもよかったのでしょうか。八百膳さんが仕切っている手前、そう簡単にはいきませんでしょうし、何よりも『萬屋が席を斡旋できる』などという噂が広がると、とんでもないことになりますよ」


「実際に席を用意してしまうと、確かに面倒なことになるかも知れません。

 しかし、次回については『今までの興業とは違う』と義兵衛様がおっしゃったではないですか。次回は、興業を支える発起人にそれぞれ1名程度の推薦枠を設けるのもあるかな、と考えた次第です。

 高位の御武家様は同席されませんので、高い金額で入札された方は肩透かしを喰らった格好にはなりますが、必ず普段お目にかかれないような方に御挨拶する機会がある、ということはどこにも明言されておりませんでしょう。勝手に勘違いしただけのことでございます。御武家様をもてなす宴会席と、お忍びで参加される興業席に分けるのですから、出まかせを言っている訳ではありません。行司・目付といった分担すら見直しても良いかと思います。そういった案も示せば、善四郎さんも納得されるのではないかと思いますよ。

 それでもしこのような話が通ると、椿井家も推薦枠を持つことができましょう。ですが、推薦枠を八百膳経由で売り出して、収益を得ても良いのではないのでしょうか。ああ、座に払う手数料はいるのでしょうけど」


 確かに悪い案ではない。

 それぞれの地区の代表が単に競い合うだけであれば、順位を権威付ける厳格な審査は不要となることも考え得る。


「それは良い案だと思います。善四郎さんを是非説得してもらいたいですね」


「その推薦枠の件、当初よりかかわっているということであれば、当家(北町奉行曲淵甲斐守)も同じではないかと思うのですが、席を融通することについては対象になるのでしょうか」


 勝次郎様が聞いてきた。


「おやおや、気になりますか。まだ何も決まっていないのですが、善四郎さんにはその要望も併せて伝えましょう。一席と云えども、手札があると使いようがありますからね。不用なら換金できるところも魅力なのでしょう。

 実の所、御奉行様が武家側の出席者を決めるのが最初からの取り決めなので、武家席は全部御奉行様の推薦も同様なのですが、いつの間にか御奉行様は御老中様に伺いを立ててから出席者を決めるようになってしまいましたからなぁ。こうも高位の方が参加されると仕方ないことですがね」


 千次郎さんがそう答えると、安兵衛さんは勝次郎様の腕を引っ張った。


「今のやり方にはそれなりの経緯があります。疑問に思っても軽はずみに言うとあまりよろしくありません。奉行という立場では、推薦枠を金子で取引などして良い訳がありません」


「いえ、安兵衛さん。武家様が金子のことを口にするのは恥ずかしいという感覚は、抜けて行かなければまずいのですよ。勝次郎様は、その呪縛から抜け始めているのではないでしょうか。大儀を見失い金子に使われる、というのは見苦しいことですが、金子の本質をしっかり捉えてこれを活用するのは、けっして恥ずかしいことではないのですよ。

 現に、安兵衛さんももう金子の有効性については認識できているではありませんか。御奉行様が勝次郎様を私に同行させているのも、そういった感覚を身につけさせる狙いもあるのかと思いますよ。そういえば、安兵衛さんも以前に私が秋葉神社に納める金子100両(約1000万円相当の小判)を萬屋さんから持ち出す時に随分驚かれていたではありませんか。今日は、470両(約4700万円相当)の証文を預かることになります。もう平気ですよね」


 安兵衛さんはその時の感覚を思い出したのか、少し顔を赤らめている。

 このように言っている義兵衛も、登戸村で最初に小判を手にした時のことを思い出していた。


「それはその通りですが、言われたほうが気付きやすいでしょう。それを承知の上で、町奉行の子息であることも加味した発言はつつしまれた方が良いと思ったのです。勝次郎様もお分かりですよね」


 安兵衛さんはしどろもどろに答えているが、道中の軽口なのであまり気に留めないようにしている。

 深川・六軒掘の井筒屋から日本橋・具足町の萬屋まで、1里もない道行(約3.5km)であるため、半刻もかからず(40分程)萬屋へ到着した。


「義兵衛様、お戻り頂けて助かりました。御助言をお願いします」


 大番頭の忠吉さんが、千次郎さんと義兵衛達を店表の板の間に留め、泣きついてきた。


「義兵衛様からの伝言を丁稚から聞きましたが、愛宕神社からどのような申し出があるのか、それに応えることができるのか、応えてよいのか見当が全く付きません。幸い、愛宕神社様からまだ何も言ってきておらぬので助かってはおりますが、御戻りになるまでなんと長かったことか」


 義兵衛は忠吉さんに代わり、愛宕神社からの要望を千次郎さんに伝えた。

 その上で、解決策を口にした。


「杓子定規に先方の言われるようにする必要はないのですよ。愛宕神社の神主様は、七輪と練炭を準備したいだけなのです。

 言ってくるのを待っているから、無理難題を言われる可能性に怯えるのですよ。来るのを待つのではなく、萬屋ができる方法で七輪・練炭を届け、卓上焜炉の護符押印と費用が相殺できることを伝えればよいのです。年末までに作成を依頼している卓上焜炉の数量は抑えておりましょう。それを越える分について、購入して頂ければ良いのですよ。

 ただ、この先も頼ることがあるのであれば、その分多少値引きするのもあるかと思います。実際に、神主様は炭団との価格比を基に『練炭の値段は1個300文ではなく200文が妥当、広まるには150文が好ましい』と的確に見抜いておりました。ある程度生産に目処がつくようであれば、最初に想定していた200文に切り替える必要があるかも知れません。その意味では、需給状況を早々に見直して価格改定時期を見直す必要がありますね」


 需給状況見直しという言葉を聞いて、忠吉さんは半泣き顔から怯えた表情に替わりブルッと体を震わせた。

 見直しを行うために必要なExcelもどきの表計算作業は、かなり堪えたに違いない。


「今直ぐに見直しする必要はないと思いますがいかがでしょう。来月、10月に入って、七輪が本格的に求められるようになってから、ということでよいのかなと。佐倉からの生産と海上輸送が、まだ安定しておらぬ、でしょう。見直す条件が出揃ってない時に、あのような試算を何度も繰り返すのは、少し、あまりにも、どうかと……」


 とても歯切れの悪い忠吉さんだった。


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