次回興業への難問 <C2485>
■安永7年(1778年)9月21日(太陽暦11月9日) 憑依250日目 晴天
気持ち良い朝である。
奉行所から安兵衛さんと勝次郎様が来たのとほぼ同時に萬屋から丁稚が走りこんできた。
「義兵衛様、浅草・八百膳で興業にかかわる重要な寄り合いが行われますので、是非にも御出で頂きたく主人・千次郎から言い付かっております」
義兵衛は丁稚の口上に頷きながら話しかけた。
「昨日、愛宕神社の神主様から七輪・練炭の調達の件で相談を受けております」
昨日の顛末と、護符押印費用と七輪・練炭の相殺について検討する旨の内容を語り、萬屋の大番頭・忠吉さんへの伝言を頼んだ。
丁稚は怯えながら応えてきた。
「お伝えはしますが、そのような大それた内容であれば、直接言って頂けなければ困ります」
確かに、この伝言内容だけでは心元なく思う丁稚の心情は理解できる。
萬屋で扱っているのは、七輪と練炭を組み合わせた商品でバラ売りはせず、しかも一組金2両の現金引換え・店先渡しのみなのだ。
義兵衛からの伝言とは言え金2両(約20万円)もの商品の扱いを変える内容に、この丁稚がかかわるのは確かに酷とも思える。
「うむ。まあ、そんなに大きい話ではないので、大丈夫とは思いますがね。何か問題があれば、手に負えない話であれば忠吉さんは八百膳に使いを出すでしょうし、この程度なら大番頭さんの裁量でどうにかできると思いますよ。八百膳での寄り合いが終わり次第、千次郎さんと一緒に萬屋へ向かいますので、それも伝言しておいてください」
丁稚が承知して戻っていくのにあわせ、義兵衛は八百膳へ向かう用意をし、紳一郎様にその旨を伝えた。
当然のように安兵衛さんと勝次郎様は屋敷にいる下人を借り奉行所へ連絡する手はずを整えている。
昨日の話を聞いていなければ気にも留めなかったことなのだが、どうやら今までもこのようなひと手間をかけていたようだ。
「八百膳から萬屋に回り、屋敷に戻るのは暮れ六ツ時(午後5時半頃)かな。
そうそう、一昨日に井筒屋・伝兵衛から使いがあって話がしたいそうじゃ。『いつでも良いから寄ってもらいたい』とか申しておった。籾米の買い付けだけの話であればワシでもできるが、引き渡しの段取りや金銭の清算で萬屋がからむ所もあるようで、お前と直接話がしたいそうだ。時間があれば浅草・八百膳(現:台東区今戸2丁目付近)から六軒堀(現:江戸川区新大橋3丁目近辺)の井筒屋へ回り、用を済ませてから萬屋(現:中央区京橋3丁目付近)へ向かうとよかろう」
頭の中で地理を思い浮かべる。
浅草・山谷にある八百膳から吾妻橋を渡って本所・深川の六軒堀町の井筒屋へ向かい、用が片付き次第、永代橋を渡って霊岸島・八丁堀を通り日本橋の具足町の萬屋へ向かうルートとなるが、これは結構距離がある。
しかし、紳一郎様からの指示である。
「はっ、承知致しました。ただ、屋敷へ戻る刻限が暮れ六ツというのは、守るのは厳しいかも知れません」
「その場合は萬屋に泊まって明日戻ればよい。萬屋の本宅もあろう。なかなか暇もなく、許嫁にもあっておらぬのではないかな」
これは養父なりの気配りなのであろう。
こうしたちょっとしたやり取りの後、屋敷を出て八百膳に急行した。
いつものように八百膳の通用口に顔を出すと、待ちかねたように座敷へ案内された。
そこには、八百膳・善四郎さんと幸龍寺の和尚さん、萬屋千次郎さんなど、興業を支える面々が疲れた表情で座っていた。
ただ、その中で瓦版の當世堂主人だけは目をギラギラさせ、異様な雰囲気で座敷の隅っこに座っている。
「義兵衛様、興業で一橋様より『次回は西丸様(徳川家基様)をお招きせよ』との下知があり、皆頭を抱えております」
開口一番、千次郎さんがそう教えてくれたが、これは昨夜屋敷で聞いた話通りであった。
興業撤収後、料亭・百川で行われた慰労会で、愛宕神社・円福寺の面々ははしゃぐ一方、仕出し料亭の座の首脳陣は通夜にも似た面持ちであったそうだ。
「このようなことになりますと、仕出し料理の座が行う興業としては誠に誉ではございますが、斯くも大事になってしまいますと、とても手に負えるものではございません。特に、御武家様と町民が同席する、という格好ですが、これは御武家様が仮にもお忍びという体であればこそ、茶の湯の例に倣うということで興業が出来ておりました。しかし、一橋様の言いようでは、端から『西丸様を招くように』との御定でございますから、蓋を開けたらとんでもない御武家様が突然参加なされたという今までの建前では通らなくなりましょう。
なんとかせねばならないことは重々承知しておりますが、こういった事態に対する方策が全く思い浮かびませぬ」
なかなかの難題を抱えてしまっているようだ。
「いやぁ、そのような後ろ向きではなく、しれっと今まで通りの興業にはなりませんかな。
ほれ、神田祭りや山王祭りの巡行では御城の中を堂々と通っておるではありませんか。しかも、竹橋御門から入り、北桔梗御門前を通った北の丸に上覧所まで作って頂いておりましょう。田安様や清水様の御殿よりも(今は無いけど)天守に近い場所でございましょう。経緯はともかく、町民がここまで入れて、お上のお膝元で騒げるのです。その様子をご覧になられるのでしょう。
事前に『こうなります』と御老中様や御奉行様に説明して了解を得ておけばよいのですよ。幸い、主だった方はすでに興業に参加されておりましょう。言を多くせずとも様子は伝わりましょうし、理解を得るのもうってつけです。
祭礼巡行にも比肩する興業となりましょうから、皆こぞって瓦版に群がるのは間違いございませぬ。
義兵衛様もそう思われますよな」
最後の『瓦版』の一言が無ければ立派な意見ではあるが、當世堂主人の本音が駄々漏れである。
おそらく何度も主張していたのであろうが、それを聞いた一同は首を緩やかに横に振り、げんなりとした表情を深めた。
「祭礼と違い、全く身分が違う者が同席するなどあり得ぬ。ましてや、お上が食する様子を町民が目にするなど、逆はあっても、本来あってはならぬことじゃ。どう説明しても通る話ではない。御簾で隔てて済むということでもあるまい。
お主は、御老中様と御奉行様などが並ぶ席に一人置かれて、その方々から四方八方から見られた状況で、安穏と飯が食えるか。料理の味をしかと吟味できると言い張れるのか。
まあ、無理であろう。とても料理比べなど出来る状況ではあるまい。何度もそう申しているではないか」
幸龍寺の和尚さんが瓦版屋の當世堂主人を諌め、それから義兵衛に話かけた。
「こういった次第で、もう何度も皆で頭を捻っておるのですが解が見えませぬ。
西丸様を興業の賓客となることは上意でございますから、避けようがなく、かといって今の興業では迎える方策もありませぬ。どこから手を付ければよいのか、基本的な方向も全く見えておりません」
確かに、今までの興業の方針を揺るがす難問に違いない。




