丸投げと一度は言ってみたが <C2484>
社務所を出たところで安兵衛さんからの問合せがあった。
「義兵衛様、この後はどちらへ向かいましょうか」
先に養父・紳一郎様から『興業撤収完了までは殿の側にはおらぬ方が良い』と示唆されていたこともあり、料理比べ興業の場には近づかぬ方が良いと考えていたに違いない。
「うむ、いっそ屋敷まで戻って殿の帰りを待つのが良いかな。何か大事があれば、必ずや連絡が屋敷にもあるに違いない」
そこで安兵衛さんは社務所に詰めている小僧を借り出し、円福寺にいる御奉行様と椿井家の殿様に『義兵衛様と勝次郎様、安兵衛は椿井家の屋敷で控えている』旨を伝えるように頼み、それから揃って椿井家の屋敷に向かったのだった。
「勝次郎様、ようございますか。義兵衛様がどこにいるのか、いつでも殿(北町奉行・曲淵甲斐守様)からの連絡が取れるように手配をしておくことはとても重要なお役目ですよ。特に江戸市中ではいつ何時呼び出されるかも知れぬので、ご注意ください。
奉行所では門番小屋に殿の行き先控えと並んで『ぎ』としか書かれていない行き先控え帳がございましょう。この控帳が義兵衛様の行き先控えでございます。義兵衛様が江戸市中に居られる時に、殿が緊急に連絡を必要とする際は、この控えに書かれた場所と椿井家の屋敷、それから萬屋に急使が走る手はずとなっております。そして、そこから先の行き先で捕まらない場合は、その責を負うのは私か勝次郎様になるのですよ」
安兵衛さんは小声で勝次郎様に教えているのだが、丸聞こえである。
いつの間にか、そのような体制が仕組みとして出来ていることに初めて気づき仰天した。
「これは参りました。一体いつからそのような仕儀になっていたのでしょうか」
「これは義兵衛様が知らなくても良いことですが、我らの事情もあり、江戸市中では勝手気ままに出歩くことは御控えください。
最初は覚え書き程度だったのですが、萬屋で物の値段が決まる仕組みを漏らし、後日奉行所の土蔵で説明をなされたことが御座いましたでしょう。確か8月の頭頃のことでしたね。そのことで、義兵衛様をできる限り隠蔽する方針が上のほうで決まった時に確定したのですよ。まだ2ヶ月も経っていないのに、なにやらずっと昔から、私が義兵衛様に会った時からこうだったような気がします。
当時は私も知らずに『大人の庇護が当然』と言っていた自分が恥ずかしくなります。今はもう、できるだけ決まった場所だけ行くようにして頂ければ、私としては助かります」
そう言えば、御奉行様が直々に萬屋と八百膳に訪れ『義兵衛のことや得た知恵を喧伝するな』と釘をさして回っていたことがあった。
おそらく、義兵衛をどこかに監禁しないで済む方法として編み出されたルールに違いない。
こうした話を聞く内に屋敷の長屋に3人して転がり込んだ。
特段の御用もないので長屋の義兵衛の部屋でまったりとしていると、屋敷が俄かに騒然となり、殿様が帰宅されたことが判った。
そして早速にも義兵衛に呼び出しがかかった。
「今日の興業は無事終わり、殿のお役目、一橋様とのお目見えも恙なく終わらせることができた。壬次郎は来月から城内の一橋屋敷内に一部屋を貰い用人として勤めることになった。喜ばしい限りである」
上座真ん中に御殿様、左右に壬次郎様、甲三郎と並ぶ中、左横に座した養父・紳一郎様がそう告げると義兵衛は頭を畳に着く程下げ、お祝いの言葉を言上しようとした。
「その場で言われたのだがな」
壬次郎様が性急にも紳一郎様の言葉に被せて言い始めた。
「次回、10月20日に浅草・幸龍寺で行われる料理比べの興業には、武家筆頭に西丸様(家基様)を据えるように、と一橋様が御要望とのことじゃ。そして、いずれは清水家の重好様も招かねばなるまい、とも仰られた。一橋様(徳川治済様)の八代様(徳川吉宗様)のお孫様とその叔父・従弟で仲良く、というのは判るのだが、たかが料理ごときで、こうもお上の興味をそそるとは思いもせなんだ。
この分では、御公儀の一門の中でも、何やらもてはやされていくであろうことは見えておる。
興業が評判なのは幸いなのだが、興業側にその心得と準備ができるのかが心配じゃが、どうか」
ちなみに、徳川家の状況は以下の通りである。
将軍家、10代将軍:徳川家治(42歳)
西丸・家治嫡男:徳川家基(17歳)(次期将軍)
清水家、将軍弟:徳川重好(34歳)
田安家、吉宗孫・宗武三男:徳川定信(20歳)(陸奥白河藩主だったが松平姓から徳川姓へ戻り田安家当主となっている)
一橋家、吉宗孫・宗尹三男:徳川治済(28歳)
それ以外に田安家、一橋家には他家に養子として出された男子が居るが、すでに大名としての扱いとなっている。
田安家からは、伊予松山藩・松平定国(22歳)
一橋家からは、越前福井藩・松平重富(31歳)と筑前福岡藩・黒田治之(27歳)
更には、徳川一門としては、尾張家(当主:徳川宗睦、46歳)・紀州家(当主:徳川治貞、50歳)・水戸家(当主:徳川治保、28歳)となっている。
壬次郎様の問いは、どうとでも取れ、流石に迂闊に返答できない難問であり、あっけにとられた空白の時間、愛宕神社の社務所にあった言いようのない空間が生まれた。
義兵衛の左右に控える安兵衛さんと勝次郎さんも息を飲んで固まっているのが判った。
義兵衛は思い切って切り出した。
「申し上げます。お上からのご要望ということであれば、どのようなことでも応じるのが筋で御座いましょう。
ただ、実際にことに当たるのは、仕出し料亭の座でその元締めとなる八百膳でございます。場所は浅草・幸龍寺で、ここの座主が場所の責任者です。この両者で存分に下準備なされると思います。たとえ、当代のお上が直々に列席なされても同じことで御座いましょう。この興業は、お上がかかわる正式な行事ではなく、いわば茶の湯の席のようなものでございます。寺の場所を借り、亭主が仕出し料亭の座となっております。武家の案内については、甲斐守様(北町奉行・曲淵様)が仕切るという分担でございます。
従って、興業については一旗本家が責任を負う話ではございません」
義兵衛は、次回の興業をその責任者達に丸投げする方針案を述べた。
「義兵衛、この興業は当初から武家側の目付として当家がかかわっておる。甲斐守様(北町奉行・曲淵様)も似たような立場とは言え、初期からかかわっておる当家が今更抜ける訳にはいかぬ。それぐらいは判っておろうに」
御殿様から叱責にも似た発言が出た。
確かに今まで周囲から発起人と思われている節もあり、それに丸投げと表で言ったものの、八百膳の善四郎様や萬屋の千次郎さんが困り果てて意見を求めて来るのは見えている。
そうなると、いやでも騒動に巻き込まれてしまう姿が目に浮かんできてしまう。
責任はともかく、実質的な所で逃げる訳にはいかないのだ。
「はっ、これから関係する仕出し料理の座の者達や次回の会場となる浅草・幸龍寺の者達と話合い、万全の体制を組んで対応致します。
また、状況については、逐次報告致します」
義兵衛は正面に座る3人が鷹揚に頷くのを見て安堵した。
この場で権力を持ち最上司でもある御殿様に指摘されると、あっさり前言を撤回してしまうあたり、ごく普通のサラリーマンとなんら変わりがないのだった。
それからは内容もない雑談となり、その後義兵衛達は解放され長屋に戻り、安兵衛さんと勝次郎様は奉行所へ帰っていった。
しかし、義兵衛は長屋の天井を見上げながら、徳川一門と接点を持つことによる『心得と準備』について、あまりにも大きい課題について思い悩んでいた。
『そう思い悩むことはない。この先の大飢饉で飢え苦しむ人のことを思えば興業の騒ぎは馬鹿々々しく思えるかも知れぬが、危機を回避するには為政者と食の面でつながりを持つことは重要であろう。どうなると失敗か、を洗い出し、その轍を踏まぬようにさえすれば良い。まあ、食の面で要人警護として気にするのは、服毒対策であろうな。そこさえ回避できることを示せば最低限は達成できよう』
頭の中に居る竹森氏からの声を聞き、それもそうかと思い直しながら寝入ってしまった。




