愛宕神社での興業当日・開始前 <C2479>
■安永7年(1778年)9月20日(太陽暦11月8日) 憑依249日目 晴天
17日以降、御殿様は屋敷に居り、毎日壬次郎様が訪ねてきては話し込む、という3日が続いた。
この間義兵衛はいつ呼び出しがあっても良いように、屋敷内に留め置かれた。
義兵衛は、興業そのものよりも余興に群れる人をどう捌くかに基本的な関心があり、本来は現場で会話をしながら対応を考えるのだが、屋敷内での待機を命じられたことにより萬屋と愛宕神社との間での文のやり取りを頻繁に行う形となった。
それだけでなく、新たに料亭・坂本にも渡りをつけていた。
こうした文の遣り取りは門番として詰めている家中の者を使うことになるのだが、義兵衛は常に都度2匁程度の豆銀(200文、5000円相当)を渡しており、結構細かい出費となるが、気兼ねなく引き受けてくれる。
そして、更に出入りする先では返事を持たせる時に、おそらく同程度の手間賃を握らせているはずなので、良い小遣い稼ぎになっているはずだ。
そうでなければ、率先して手紙の有無を聞きに来ることもないだろう。
こうやって手に入れた小遣いは、馴染みの屋台など町屋で消費される、いや椿井家の場合は他家と比べて頻繁に出入りしているであろう貸本屋への支払いに使われているに違いない。
こういった銭が循環する仕組みがあるため、義兵衛のような新参者でも遠慮なく文を出すことが出来る。
そして、愛宕神社とのやり取りは余興に関する疑問点の問いや留意点に関する提案、問い合わせの回答で、本来は現場で会話をしながら対応を考えるのだが、一度しか見ていない現場の状況を思い浮かべながら文を書くのは結構難しい。
さらに、坂本を巻き込んだ策を練っているのだから複雑な思索を行っていた。
そして、文を頻繁に出すのは義兵衛だけでなく、御殿様も同様だった。
おそらく、不在となっている時の御用の対応と、おそらくは壬次郎様が一ツ橋様にお目見えする件の段取りもあるのだろう。
屋敷から壬次郎様が帰られてから、義兵衛に向かって御殿様が珍しくも愚痴をこぼした。
「壬次郎は昔からちっとも変っておらぬ。養子先で当主となり、人を指図する立場になれば、理由を求める者に対応するのがいかに難しいか判ろうというものだが、そのあたりが身に染みておらぬのかなあ。臨機応変とか、その場しのぎとか、それができぬと、またそれを許さぬと、手間ばかりかかって実入りが少ないと思うのだがな。
義兵衛がその場しのぎを繰り返した挙句、町奉行様や御老中様に強い繋がりが出来てしまったことを幾ら言っても信じようとはせぬのじゃ。多少の風呂敷を広げたところで、先のことはやってみねば判らぬことばかりであろうに。木を見て森を見ず、とは正しく今の壬次郎を指す言葉であろうな」
3日かけて感化しようとしたが、なかなか思うように捗らなかったようだ。
基本的な構想を飲み込ませるつもりが、『枝葉のひっかかり』や『原理原則に照らして如何か』ばかり問われていたに違いない。
「いえ、壬次郎様とて鋭い方でございましょう。自らのお役目がどこにあるかを察すれば、間違いはございませぬ」
一ツ橋様が仕える相手となった時に、指示待ちとならないためのシミュレーションをこの3日間でしていたに違いないと伝えると、御殿様は満足気に笑っていた。
それにしても、義兵衛の評価・評論は酷い言いようで『いつも火消しをして回ってくださる御殿様ならでは』と安兵衛さんが後から繕ってくれた。
磯野壬次郎様に本音を説明した16日は雨天であったが、それ以降は晴天が続き、心配していた天気の崩れもないまま愛宕神社・円福寺で開催する料理比べ興業の当日は見事に晴れた。
義兵衛は先行して興業の会場となる円福寺へ向い、御殿様は壬次郎様と一緒に刻限の半刻(1時間)前に会場に到着した。
義兵衛達はまずこの余興の企画を担当された権禰宜さんに挨拶をしてから人の流れを計画された担当を1名借り出した。
そして、円福寺と愛宕神社境内で人の動線を示す案内がどうなっているかを、一緒に駆け足で確認して回る。
「あふれた人員を増上寺側に回す仕組みは大層良くできております。しかし東海道筋から回り込む所で上手く制限をかけ、直接円福寺の境内に向かえる所を抑え込めておらぬ所が問題ではないかと思えます。増上寺へ流れた人員が、街道筋を通って直接余興の所へ戻ってくると、その場合はおそらく一人が戻るのではなく数人引き連れて戻ってきましょう。
今更ですが増上寺の御成門前にある馬場を上手く使えませんか。ここで足止めできれば、街道への影響は小さくて済みましょう。
あと、東海道の街道筋ですが、金杉橋から芝口橋までの区間は、街道より一本東側寄りの筋を迂回路として、それぞれの橋の所で明示し案内するのが良いと考えます。余興や興行目当てでない方は、そちらを回って頂くことで混雑を防ぐことができましょう。
増上寺裏門から海手に向かう道と街道が交差する所(現:地下鉄大門駅近辺)は、人が立ち止まらぬように誘導することが重要です。人のぶつかりを抑えるために、道は進行方向に向かって各々左側を通るよう周知させましょう」
義兵衛の提案は形を整えて直ぐ対応する様に言い含められているようで、その場に担当する人を呼び出しては役向きを伝えている。
ともかく今日一日、いや余興が幕を閉じるまでなんとか凌げれば良いのだから、神社関係者と直ぐに判るタスキをかけた人員をそれなりに用意した、とのことだった。
臨時にその時だけの人足を雇えば良いと割り切っているあたり、大規模なイベントに慣れた者が愛宕神社の企画を任された者の背後にいることをうかがわせた。
一通りの事前確認が終わる頃には、瓦版を手にした人がそこここに集まり始めており、女坂へ誘導はするものの坂の下では滞留し始めていた。
その参道に面した円福寺の境内では、4料亭の応援団を構成する面々がそれぞれ指定された場所を陣地と見なす形に整え、そこに集まり気炎を上げている。
それに惹かれたのか、思ったより観客が集まり始めており、愛宕神社の担当者は浮足だってきている。
さらに、男坂の石段両端毎に設けた1席の観戦席当日販売分が、概ね1分(1000文、2万5千円)という高値で設定していたにもかかわらず、早くも完売してしまい、このことで混乱が起き始めている。
『これはなんとかしないといけない』と思うものの、単独で行動する訳には行かない。
義兵衛が円福寺の興業控えに行くと、御殿様と壬次郎様は既に決められた場所に着座していた。
それに、なぜか甲三郎様も田沼様の控えではなく椿井家の控えに座っていたのだ。
「少し遅れましたが、予想外に人の集まりが早いようです。経験がない事態に直面しているようなので、余興側の応援に行きたいと考えますが、よろしいでしょうか」
「義兵衛、その物言いはちと面妖じゃ。大勢集まった人を捌いた経験がある、とでも言うつもりか」
壬次郎様が鋭く聞き返してきた。
「ああ、義兵衛。答えんでも良い。今は急ぎなのであろう。壬次郎にはワシから説明しておくので、すぐ対処が必要な場所へ行け。こちらのことは心配せずとも良い。勝手は判っておる。
安兵衛殿、警護をよろしく頼む」
御殿様は壬次郎様を抑えると義兵衛を送り出した。
「義兵衛様、警護はきちんとしますが、この先椿井家の中でどのような話になるのかが大層気になります」
安兵衛さんの心配も判るが、それは後回しにせざるを得ない状況なのだ。
もっとあっさり終わらせるつもりだったのですが、長引いてしまったので複数話となってしまいました。
感想をお寄せくださっている皆様、返事は書けていないのですが、大変励まされております。ありがとうございます。
追加:2021年6月6日、色々と多忙になって、次話が全く書けておりません。申し訳ないですが2週間ほどSkipします。




