浮桟橋の説明と商売順調な萬屋 <C2476>
桟橋という言葉自体がまだ無いこの江戸時代、船場・河岸という表現で船が接岸する場所を示している。
海に突き出した堤防や海岸に作った防波堤に船を繋ぎ止め、そこで積荷を降ろしたり載せたりする。
ただ、川船と違い大坂などから回漕してくる喫水が深い海船がこの河岸に直接接岸できず、沖に停泊して廻船に荷を移し、廻船が河岸に接岸して荷降ろしするという面倒な方法になっている。
ちなみに、五大力船は海船でありながら、喫水が浅く直接河岸に接岸できる所に特徴がある。
それゆえに搭載重量に上限があり、一番大型のものでも200石(30t積み)位までとなっている。
しかし、この『浮桟橋』という内容をどう説明したら良いものか。
「勝次郎様、舟からの荷の積み下ろしで、場所が川と海の場合でどういった点が違うかは御存じですよね」
わざと質問することで、義兵衛は考える時間を稼いだ。
「はい。海の場合は朝夕で潮の満ち引きがあり、水面の高さが異なりますが、川の場合は比較的同じ高さです」
勝次郎さんは即答し、なかなか時間を得られない。
「その潮汐差ですが、品川沖では、そうですね、4尺~5尺(1.2m~1.5m)位でしょう。
川ではこのようなことを気にせずに済みますから、船の縁から降ろしやすい高さに固定した台を設ければ良いのです。ただ、大きさや型が違う色々な船がありますので、相応の高さにしておく必要はありますがね。
ところが海に面した岸は川とは違い、朝夕の時刻によって船を浮かせる水面が違うので、どのような高さにも対応できる仕組みが必要なのです。それで、雁木の形をした石段を干潮の所まで作っておくことになります。船が接岸すると縁にあわせた高さの石段と船縁に板を渡し、これを伝って荷の運び出しや搬入を行うのです。
もっとも、雁木だけでなく、岸から離れた海中に何本も杭を立て、その杭を伝って下へ下る板を渡した、そうですね、掛け出しというような船着き場もあります。潮の高さに応じて板の使う場所を変えるのです。この杭の形を障子の桟に見立て、ある意味桟橋という名称か、とは思います」
少し間を取り、義兵衛は考えをまとめる。
いや、実際には義兵衛が話している間にも、中にいる竹森氏が必死にまとめた考えを義兵衛に伝えているのだ。
「それで、河岸の高さを固定すると潮の干満に合わせるのが難しい、というところは飲み込めて頂けたでしょうか」
義兵衛はここでいくつかの図を書くことにした。
「では、この桟橋の板の先に大きな浮をつけ、その浮に船が繋がるという形にするとどうでしょうか。
船からの出し入れは、潮位を気にせずいつも同じ高さで行えます。また、浮から岸への傾斜は多少変わることもありますが、潮位を見ながら架け替える必要がありません。
更に、岸から浮きの先端までの長さは作りにもよりますが、干潮の時でも大型船が底を擦らずに済むところまで延伸できれば、廻船に積み替えする必要も無くなるのです」
安兵衛さんは義兵衛の書いた図を穴が開くほど見つめている。
勝次郎さんが切り出した。
「舟屋から延びた浮桟橋だと考えようはあるが、維持費が嵩むというのは、どのような見通しなのでしょう」
鋭いところを突いてきた。
「一番の問題は、木材の使用です。浮・桟橋の杭・板といったものは、軽くて水に浮かぶ木材を使います。これが海水につかり、空気に晒され波に揉まれるという状態を繰り返すのです。石垣のような耐久性はなく、部材毎に一定期間で取替えをしていく必要があります。また、水の流れや荒れた海、強い風にきわめて弱く、野分(台風の古称)で容易に流されます。普通の橋であれば両端が地面で固定されているので、ある程度は耐えることもできますが、浮桟橋は構造上一方が水に浮いているだけの構造なので、荒れた天気や海にとても弱いのです。そうすると、危ない場合は毎度浮橋を回収し、気候が安定したら設置する、という面倒な作業を強いられることになります。
寒川神社の前は海とは言え都川河口から直接海に出た所でしょうから、海水・淡水とまざり、絶えず流れにさらされる場所でしょう。浮きとして適切なものを揃え・維持するのは結構な努力が必要です。
なので、一度作るだけで済まず、維持するのに費用がかかる、と申し上げました」
「どれも納得できる話しです。船橋という物の構造と良く似ていますね。目的とする船まで小船を連ねて板を渡していくのですか。面白い発想です。沖の船から直接荷下ろしできる方法、これは是非御殿様に報告せねばなりません。大層喜ばれるでしょう。
千次郎さん、勝手に話に割り込んで結構長い時間を使い、申し訳ありませんでした」
割り込んでから、絵図を何枚も描き結構長い時間を使って冷や汗をかきながら説明を続けたが『これでこの場で桟橋の件は終わりに違いない』と少しほっとした。
そして、義兵衛が描いた絵図は、そのまま安兵衛さんの懐に収まった。
「安兵衛様、どうぞ疑念があれば手前の話などいつでもぶった切ってください。私からする寒川湊・佐倉での話は、もう終わりです。その上、義兵衛様からも興味深い話が聞け、今後この浮桟橋の話がどのようになるのかも楽しみです。
それよりも、義兵衛様がせねばならぬ、と思っているのは愛宕神社・円福寺で行われる興業のことでございましょう。4日ほど留守にしている間に驚くような興業となったようで、昨夕に愛宕神社の禰宜様がこちらに見えられ、全て話されていきましたぞ。
禰宜様が義兵衛様のことを余りにもあれこれと話すものですから、町奉行様直々に秘すべき者という命が下っていること、喧伝すると義兵衛様だけでなく関係する者も捕らわれる羽目になるかも知れないことなど説明すると、青い顔になり『神童である者を世間から隠さねばならぬとは』と絶句しておりました。
しかし、義兵衛様が愛宕神社にもたらした功績は、もう口にはできないものの計り知れぬものがあると愛宕神社の禰宜様はご存知ですぞ。義理とは言え息子となる者が褒められるのを聞いて喜ばぬ親はおりませぬ。
それで、実の所、料理比べ興業の事務方の様子はあらかた禰宜様から聞いております。今回私が不在であったにもかかわらず、特に私の意見を必要とする事態は起きておりません。むしろ『義兵衛様が早くから会合に参加しておれば余興のことをもう少し余裕を持って取り組めたものを、と残念がる空気ばかりであった』との話ばかりとなっていたと聞きました」
どうやら本当に必要な話は、千次郎さんの語りの所で終わってしまったようだ。
そして、この萬屋が興業を支援する必要性がもう無いことが見えてしまった。
これは仕出し膳の座と萬屋との関係にも言えることで、むしろ萬屋は仕出し膳の座を構成する料亭から利益を吸い上げる存在となる段階になっている、と言っても過言ではない状態なのだ。
義兵衛はそこに控えていた大番頭の忠吉さんに七輪の売れ行きの確認をすると、これまた『順調・想定通り』との返事だった。
佐倉での練炭生産量見直しに伴い、9月の七輪の売り出し計画数量を増やしたのだが、概ね、それに沿った数量が売れているようだ。
更に今の時点では『店先現金売り』に徹底しているため、最初の計画段階に比べ手元にかなりの余剰金が発生しており、店で金子をため込むと危ないとの判断から、大部分を2個所の両替商に毎日預けることにした、とのことだった。
そう聞かされると、この本店ですべきことはもう無いと判断した義兵衛は、萬屋・本宅の華さんの所へ足を伸ばし、夕方までのんびり過ごしたのだった。
今回あわてて桟橋についての歴史的な資料を探したのですが、これがとても少なくて困り果てました。唯一見つけたのが、辻啓介先生の「がんぎ考」(大島商船高専学校紀要39号2003)で、ここから得たキーワードを元に色々と調べながらやっと書けたのがこの回です。
華さん、お婆様とのひとときの様子は、今回残念ながらありません(ご容赦ください)




