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今の武家では商家に勝てない <C2468>

 萬屋本宅での豪華な昼膳も、純粋に食事を楽しむのではなく、雑然とした話が千次郎さんとお婆様の間ではずむ。

 一方的に聞かされるだけであった主客の勝次郎さんと安兵衛さんは、徐々に話しに巻き込まれていった。


「千次郎、ここでのんびり茶など啜る暇があれば、とっとと寒川湊へ行く算段を済ませてはいかがか。ここは萬屋の当主が率先して動かねばならない事態であろう」


「いえ、お婆様。鉄砲洲に早舟を確保すべく、すでに人をやっております。もともと旅から戻ったばかりで装束もまだそのまま。案内が来れば、必要な金子を持って直ぐにでも出ます。図は頭の中で練れておりますので、問題もありません。

 用意と言えば、義兵衛様、寒川湊で佐倉からの練炭を卸すという件について、一筆頂けませんでしょうか。湊で蔵と舟の契約ができれば、その契約と義兵衛様の一筆を以て木野子村の治右衛門様と談判致します。湊で練炭を卸して頂くにあたっては1個100文としたい所ですが、場合によっては、根岸の蔵で卸す値と変わらぬ1個130文で引き取ることも考えましょう。間をとって115文、多少負けても120文で決着できれば充分引き合いましょう。

 そこまでの覚悟はできております」


 お婆様の言葉に負けていない千次郎さんの言に、お婆様は目を細めた。


「千次郎、たくましくなったなぁ。以前であれば、わたくしの顔色ばかりうかがっておったものを。

 横におられる義兵衛様から良い影響を受けましたな。お婆はうれしゅうございます。

 華も大恩ある義兵衛様の良き妻として勤めるのですよ」


 安兵衛さんは勝次郎さんに『華さんは先日義兵衛様と婚約されて……』と小声で経緯を話している。

『千次郎が義父ということで義兵衛殿はこちらに並ばず横向きに座っていたのか』と改めて認識したようだ。

『勝次郎残念。華は俺の嫁!』と、義兵衛の頭の中で久々に、そして面白げに竹森氏が喚いた。


「寒川湊と鉄砲洲に練炭の一時置き用に蔵を借りようと考えております。重要なのは寒川湊で、ここで根岸村同様に受け入れ検査し、買取証を出します。手代から誰か一人小頭として登用せねばなりませんが、はて、誰を任じれば良いものか。ゆくゆくは登戸の番頭・中田のように支店扱いにすることになりますからなぁ。

 どうも、これという人材が思い浮かびません」


 千次郎さんは色々な思いが巡っているようだ。

 急激な店の拡大はあるものと考え、夏前から人の手当をしてきた積りだったのだが、このように拠点が増えることまでは想定外だったようだ。

 店の手足となる丁稚や手代まではなんとかなるとして、組織を支える中間管理職や責任を担える内部重役は急増できないのだ。


「根岸の蔵を任せている小頭の久蔵さんを寒川湊の責任者にして、岸根の蔵にはきちんと買取証を管理できる手代と受入れ検査の心得がある者を組み合わせて送り込んではどうでしょうか。

 買取を管理する手代については、旬日毎に面子を入れ替えすることを予め伝えて任命すれば、帳面の管理能力の良し悪しを比べる良い機会となりましょう。手代も立場が変われば思わぬ能力を発揮するかも知れません。

 根岸には受入検査を行う者が複数人居りましたので、それと組み合わせて人物を測るモノサシとして使ってみてはいかがでしょう」


 萬屋内部の人事に関与するのはいかがかと思ったが、今は『拙速せっそく巧遅こうちに勝る』なのだ。


「その手があったか。誰ぞ足の速い者に根岸に至急使いし、久蔵を呼び寄せよ」


 千次郎さんは大声を上げ、丁稚を呼びつけると、使いの趣旨を告げると走らせた。

 一通りの騒ぎが落ち着く頃には皆昼食も終わり、お婆様の独壇場となっていた。


「一昨日、奉行所に町年寄・樽屋三右衛門様と一緒に呼び出され『七分積金』という策について検討を依頼されました」


 その後は、義兵衛が佐倉へ行く前日に奉行所で話した内容、そのものであった。

 結局、江戸市中の町民は町民の組織をもって対応すべき、という原則から、『町会所』という組織を立ち上げ、ここで飢饉対策用の米の備蓄、非常時のための資金管理をし、基金を商家などで運用する利益をもって組織を運営することなどの骨子説明をされたそうだ。

 そして、その組織立ち上げのための調査をまず早急に行うこととなり、それに併せて各町に住む人口・構成・職業など、町を維持するために必要な基本的な調査を行う手はずを整えるという段取りが進み始めたことを説明してくれた。


「こういった内容・動きは、御老中・田沼様だけでなく御公儀の中で認識されておる、とのことでございました。

 特に、江戸市中の囲い米については、御公儀が蔵前に近い向柳原に囲米蔵12棟も設け、これを町会所に預ける方針と聞いてります。義兵衛様からは『籾で保存するほうが良い』と聞いておりましたが、勘定方の力で蔵前と同じ玄米を扱うべし、となったとのことで御座います」


 どうやら、長期保存に適した籾米ではなく、玄米を扱うということは、これを原資に江戸の米相場を本気で制御する心算つもりなのだろう。

 御公儀の作る米蔵は1棟でおよそ1万石、25000俵の米を収納できる。

 12棟全部で12万石という量があれば、そして蔵が満杯となっていれば、町民50万人が3ヶ月は食いつなぐことができる分量なのだから、大したものなのだ。

 ちなみに、御公儀が武家向けに浅草・蔵前に持つ蔵は約60棟あり、一度に集荷できる米は60万石程である。

 この蔵に集めた米を蔵米取りの旗本・御家人に給料として渡すのである。

 ちなみに、御公儀は蔵米取りの旗本・御家人に石高の4分の1を2月(春)と5月(夏)に、残りの半分を10月(冬)と3回に分けて下げ渡している。

 そのため、実際に蔵前で年間に動く米の量はおおよそ120万石となり、今回の町会所が担う蔵はその1割程度の量に過ぎない。

 町会所の資産であるお救い米を背景に、江戸の米相場を安定させることに踏み切ったものと思われた。


「どうやら米相場を立ち上げ、米価格が安定するように運用されるのでしょうが、懸念すべきことがあります。

 米価が安くなった時に買い入れ、高くなった時に売り出すつもりなのでしょうが、肝心の飢饉の時に『町会所の蔵がからっぽ』という状態になりかねません。今の所、所詮しょせん勘定方の武家方の知恵では、札差や米問屋にかなうはずもありません。

 実際に御武家様は米の産地によって価格が細かく違っていることに目をつぶっておりますからね。

 そうすると、勘定方が運用する米の上限を決めておくことと、御公儀に関与できない形で町会所所有の籾米備蓄蔵を持つ必要があります。勘定方への申し入れは早いほうが良いでしょうし、会所の蔵については町奉行様へ事前了解を得ておいたほうが良いでしょう」


 義兵衛の言にお婆様は大きく頷き、勝次郎さんは反発した。


「『武家の知恵が商家に及ばぬ』とまで言い切るのは、言い過ぎではございませんか」


「いえ、大方の御武家様はあきないにより儲けることを忌避しようとします。『銭を儲けることにあくせくすることは卑しい』と思っておられます。武家は銭勘定を度外視しても主家に忠義を尽すことを好しとしますが、実際に生きるためには銭は必須です。その点、商家は金子きんすを主人としてこれを有効に使うことに心を砕いております。

 究極的に、極端に言えば、武家の金銭に対する認識と、商家のおおやけに対する認識を、それぞれ変えていくことが必要なのです。そういった動きはもう始まっているのですよ。

 勝次郎様も、気付いてはおられないかと思いますが、認識を変えることをお父上より望まれているのではないでしょうか」


 こう指摘すると勝次郎様は困ったように安兵衛さんを見た。


「いや、そのあたりは今日の報告の折に、御殿様に確かめれば良い話です。

 この萬屋本宅は大層居心地が良いのですが、少し長居をしてしまったようです。我々には時間が足りないのですよ」


 安兵衛さんの一言で、八丁掘・萬屋本宅での昼のひと時は終わり、それぞれが目的の場所に向って散っていく。

 華さんは出掛けに義兵衛へ『折りを見つけて、またいらしてください』と小声で伝えるのがやっとだった。


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