五大力船 <C2465>
■安永7年(1778年)9月12日(太陽暦10月31日) 憑依241日目 曇天、烈風
萬屋千次郎さん、安兵衛さん、勝次郎さんと義兵衛の4人は、助太郎と佐助さん達に後を頼むため早朝に宮本村の名主・平作さんの屋敷へ向った。
平作さんの屋敷の門前で、丁度窯の状況を木野子村の工房へ報告する使いと出くわした。
てっきり木野子村からそれ相応の武家衆が聞き取りに行く物と思っていたが、平作さんの下男がその役を担うことになったようで、文箱を掲げて走って行ったのだ。
工房を管理する吉見治右衛門さんを含む武家衆は、現場を見ることもなく、報告書類だけ確かめているに違いない。
挨拶がてら言葉を交わした助太郎に確認すると、その通りだった。
「いや、今に始まったことではない。私が工房で指導していた時もそのような雰囲気だった。
流石に勘定奉行の金井様が来られる時には様子が違うのだが、金井新十郎さんを除き、現場のことは何事も奉公人に任せっぱなしになっている。報告をまとめるのが仕事と勘違いしている者が多いのは残念なことだ。ただ、佐倉藩の意向がこうであれば仕方あるまい。口を挟むことではなかろう。
おそらく、次に新しく工房を開くときには、金井新十郎さんが管理者となって上手くいくに違いないと思っているが、その次に工房は作れないだろう。なので、佐倉藩の工房は当面2ヶ所だけで、日産2万個が上限と見るのが妥当と思う。これが出来るようになるのは、早くても来春だろうな。
今日産5000個だが、今年一杯で日産1万個までは持って行けるだろう。そして、来年には新工房を立ち上げ4月から合計2万個を毎日作り出すようになる。それで生産は頭打ちとなる。そのあたりが妥当かな」
現場を良く知る助太郎の意見は、外れることはなかろう。
金程村・名内村・木野子村で作る練炭の総量は、どうやら年末時点で日産3万個を達成できそうだ。
そして来年4月からは、4万個となる。
千次郎さんが唸りながら声を上げた。
「佐倉藩からの練炭は、今の所平均すると毎日5千個届いています。これを基準に年末には1万個まで順次増えて届くという前提で、教えて頂いた練炭の搬入・販売計画を見直しましょう。七輪の売り出しを増やすことができそうです」
千次郎さんの力強い言葉が発せられて、宮本村を後にした。
「安兵衛さん、今回の佐倉行きは楽ができたのではないですか」
義兵衛の問いにニコニコしながら頷く安兵衛さんと、どこか不安気な勝次郎さんである。
帰路は南側の神門村から佐倉道を通り寒川湊まで徒歩、寒川湊からは千次郎さんの希望により、日本橋・炭町に沿う京橋川の竹河岸まで船を仕立てることとなった。
まずは船溜まりに近い厳島神社へお参りを済ませ、船宿を横目に船溜まりに向う。
「いずれ馬による輸送だけでなく、船を使って練炭を運ぶことになるのは間違いありません。60石積み(9t搭載可)の船だと、練炭は一度に7000個は運べます。この寒川湊と日本橋近辺で、そうですね、海に面した鉄砲洲築地の十軒河岸か明石河岸あたりに蔵を借りるのが良いようです。そして、ここで見かける百姓船・五大力船を2艘程度を毎日往復させれば良いのかな。
佐倉藩もここに練炭を集積させるつもりでしょう。ここで受け取りをする代わりに、運賃相当を値引きさせれば充分元を取れるでしょう」
今は佐倉藩が江戸まで運んでいるが、それをここ寒川湊で受け取るようにするというのは先のことを考えたに違いない。
五大力船は喫水が浅く船幅も狭いため、川でも使える和船である。
大きさにはいろいろあるが、60石積みは小さい方で、大きいものだと長さ65尺(約20m)で500石積み(貨物75t)のものもある。
海上では帆走を行い、川では棹を使って船を動かす。
木更津船という名前で、日本橋と木更津を往復した貨客輸送船も昭和初期まであったそうだ。
「なかなか先のことを考えておられますね」
義兵衛がそう返答すると、千次郎さんは微笑んだが、そこに安兵衛さんが突っ込んできた。
「先のこととは何ですか。寒川湊で佐倉藩から練炭を受け取ると、運搬中の事故損分は萬屋さんが被ることになります。今のように江戸で受け取る方が有利だと思うのですが」
「安兵衛様、江戸で練炭が不足する事態を見越しているのですよ。どういうことか、勝次郎様と一緒に考えてみてはいかがですか。船旅は座っているだけなので、丁度良い気晴らしになるでしょう。江戸についたら答え合わせしましょう。
義兵衛様は恐らく私の考えと同じではないかと考えておりますが、こういった思索をすると考察が鋭くなり、義兵衛様の様に知恵者になれると思います」
千次郎さんは答えを口にせず二人に問いを出すあたり『この両名は単に義兵衛の護衛だけでない』と気づいた節がある。
北町奉行・曲淵様が直々に『義兵衛の働きを秘すように』と申し渡しがあったことなども勘案し、『似たような年のものを複数加え、考え方を学ばせ影武者として使う』という策略を読んだのではないか、と思ったに相違ない。
このあたりは、答え合わせの後にでも安兵衛さんに隠れて聞いてみるしかなかろう。
寒川湊から竹河岸まで、直線距離にして24km程度であり、海上を帆走する五大力船だと風の具合では1刻もかからずに江戸に着くそうだ。
風の具合が悪い場合は、刻むように沿岸を進むしかなく、櫓を備えた船もあるようだ。
千次郎さんは、湊に並ぶ船から櫓付五大力船を見つけ船頭と交渉を始めた。
「今丁度風の具合、風向きが良いので、直ぐ船に乗ってください。鉄砲洲まで直ぐ行くとのことです」
船頭と話がついたのか、義兵衛等を呼んだ。
100石積みの五大力船には既に荷が積まれており、義兵衛等が乗ると座る間もなく河岸を離れた。
都川河口の右手に出来た鼻をくるりと右へ廻り込んで江戸湾に出ると、船頭は船幅が8尺(2.5m)しかない中でバランスを取りながら慣れた手つきで帆を立てた。
一本しかない帆柱に取り付けた帆桁を上手く動かして東南東の風を捕らえると、かなりの速度で船は滑り出した。
そして、飛ぶような勢いで進み、半刻を少し過ぎた程度の時間(40分ほど)で深川沖を通り石川島の見える所まで来たのだ。
そこで帆を畳み、惰性で佃島の南側を廻りこんだ。
船足が遅くなると棹ではなく櫓に取り付いてこぎ始め、間もなく船松河岸に横付けした。
ここからであれば、八丁掘の本宅は目と鼻の先だ。
寒川湊から八丁掘まで、徒歩であれば約9里半・4刻(8時間)ほどもかかる距離であるが、それが僅か1刻(2時間)もかからずに来れる上、体力は全く消耗していない。
安兵衛さんと勝次郎さんは昼前に八丁堀に着いたことを驚いている。
義兵衛も水運の町・江戸での船便の便利さについて知識として知ってはいたものの、実際に使ってみて、その有効性・経済的効果には目を見張るばかりであった。
「それで、千次郎さん。船賃は幾らだったのですか」
「それは言い出した私持ちということで良いですよ。まあ、参考ですが、丁度出す船で後少し荷を欲しがっていた船ということもあり、4人で銀4匁(400文、1万円)と高めに言うと直ぐに承知してくれました。鉄砲洲までとの条件を飲んだ、ということもありますがね。米俵だと100俵運ぶと2俵は運賃分という格好だそうで、荷と同じ扱いなら4人の重さを米で換算して4俵、運賃は2分(2%)の128文(3200円)というところでしょうな。昼飯代位なので、断然お得です。当初の目論見通り寒川湊から築地川を登り竹河岸までだと、おそらく倍の運賃になったと思いますよ。それでも、馬で運ぶより大分安く済みます。
それにしても、丁度良い風でした。聞いたところ、条件が悪ければ2刻半(5時間)はかかる航路になることもあるそうで、良い風向きを逃したくない思いだったのでしょう。これは吉兆ですよ。
時間も浮いたことでしょう。このまま本宅においで下さい」
帰宅にあたっての船旅が順調だったことを素直に喜んでいる。
そして、義兵衛等は千次郎さんの誘いに乗り、本宅へ上がることにした。
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