木炭窯の場所 <C2463>
宮本村の名主・平作さんの屋敷を出ると南側に佐倉七牧の中で最大の面積を誇る柳沢牧(3340町=3340ha、半径3.3kmの円の面積に近い)の端に接している。
注:ディズニーランド・ディズニーシーの面積の約33倍と言えば、現代での理解は早いに違いない。
その七牧の内、佐倉藩に面する柳沢牧・内野牧・高野牧は、佐倉藩が御公儀から管理を委託されており、実質は隣接する村々が雑木林の手入れや馬場の整備、野馬取りのための施設管理を手伝っていたのだ。
柳沢牧は、今の千葉県八街市の北側を中心に佐倉市、酒々井町を含む広大な牧場で、多い時には1000疋もの馬が放牧されていたと聞く。
この中で、現代では佐倉第三工業団地(114ha、114町)に相当する場所の大部分が宮本村の仕切りとなっていた。
これから約1ヶ月かけ、宮本村内の雑木林の斜面を切り開き、そこへ木炭窯を4基作り教えるのが助太郎と佐助さん達の仕事だが、そこで使う木炭の原木・燃料は、この広大な柳沢牧の雑木林を手入れする過程で手に入れたものとなる。
おおよその当たりをつけてはいるが、実際に案内してもらうまで、様子は分からない。
平作さんにまず連れられて来たのは、名主家から少し北にある宮本村の山王神社(別当は村北側に隣接する高崎村の真言宗・正乗院)であった。
「この山王神社は古くから村の中心であり、新しいことを始めるにあたり客人にも参拝して頂ければ嬉しいのです。
この丘から南に向けて一直線に5町歩・300間(約500m)の参道がついています。村の家々はその参道の両側に建てられており、皆そこの氏子となっております。参道の突き当たりから先は、お上の牧野となっております。牧野に沿って道ができており、左手に半里ほど行くと直弥、右手に3町(約300m)程行くと佐倉道(成田と千葉・寒川港を結ぶ現国道51号線)と交わります。木野子村から来たのであれば、皆様はもうすでに通られた道でしたな。
それで窯は佐倉道との交差に近い斜面に作る予定です。そして、原木や燃料は柳沢牧野から運び込む予定です」
平作さんは腕を伸ばし、窯を作る予定の方向を指し示した。
村の中の雑木林に遮られて見えはしないが、おおよその地理は理解できた。
そして、参道の両側にある家の戸数から、里の金程村程度の戸数しかないことも見て取れた。
そして実際に場所へ案内されたが、斜面と聞いたものの思ったほど傾斜ではない。
「これは、名内村や木野子村と同じように斜面を掘って壁面を作る訳には行きませんな。一層のこと、佐倉道の向こう側にある斜面を使いませんか」
佐助さんはこう言うが、佐倉道から先の西側は高崎村のものとなっており、宮本村の勝手にはできないとの説明があった。
佐倉道から東側が宮本村の領地であり、そうなると村の東側にある谷戸へ降りる斜面しかない。
ただ、東側の沢に面した土地は唯一の水田地帯であり潰せないこと、原木や木炭の運搬に手がかかることなど、別な問題が起きる。
結局のところ村で牧と街道に一番近い場所が妥当で、それがこの場所になるのだ。
名主からの説明に、佐助さんは事情を理解した。
「それならば、最初にここに4窯分の築山をこさえて、それを掘り下げて窯に仕立てましょう」
助太郎が作るべき築山の大きさを説明すると、平作さんは渋面を浮かべたが、それでも一応納得してくれたようだ。
村と牧の境となる道を東に向かい参道口まで戻ると、今度は牧の中に続く道に案内された。
両脇が盛土されている雑木林の中を1町歩(約100m)程進んだ所に開けた場所があり、そこに薪が山のように積みあがっている。
しかも、木炭用の原木と、燃料として使う柴・小枝がきっちり分けられている。
「この話をお役人様から聞かされた時、直ぐにも木野子村の窯を見せてもらい、その準備を進めておりました。原木や燃料はいくらあっても足りないそうで、ここから木野子村に回した分もあります。
最初は、お役人様から村で余っている木炭を買いたいと打診されたので、ちょっとは作ってみましたが、ちゃんとした窯が無いので出来栄えも悪く、それなら薪を木野子村に渡したほうが良いとなったのです。
この村に木炭窯が出来るなら、もう薪を木野子村に回す必要はないでしょう。窯が出来るまでの間に、牧の雑木林を整備する傍ら、もっと材料を集めますぞ」
平作さんは柳沢牧野で宮本村が管理を任されている内側を歩いて案内した。
周にしておおよそ1里ほどの大きさであった。
平坦な丘陵だが多少の起伏はあり、雑木林の深い所と草原然としているところがある。
また、野馬除土手、勢子土手、囲土手などの土盛が随所にあり、水飲み場なども整備され、放牧されている野馬を誘導する大きな仕組みの補修なども村の仕事となっていた。
「窯の築山を先ほどの場所に作ることは土手を作るのと同じで造作もありません。ただ、村内の丘はあまり削れないので、牧内の土手を補修する土、牧の入り口の盛土を持ってくることになります。それで出来た空き地も薪置き場にすればなんとかなりましょう」
案内をする内に構想がまとまったようだ。
助太郎と佐助さんは今日から平作さんの屋敷に泊まり、窯作りに専念することとなる。
ただし、木野子村の工房から武家衆が毎朝状況の聞き取りに平作さんの屋敷に来るとのことで、こちらは助太郎が対応することとなった。
「それでは、明日朝に伺いますので、しっかり固めておいてください」
金井新十郎さんは牧を出た所で助太郎にこう伝えると、助太郎・佐助さん達と別れ、義兵衛達は木野子村の工房へ戻った。
工房へ戻ると、千次郎さんも客人として客屋へ案内された。
「金井様、昨夜は大切な帳簿を見させて頂き大変ありがとうございました。
確認したいことがございまして、ここでお聞きしてもよろしいでしょうか」
出された茶で喉を潤すと、早速に萬屋千次郎さんは金井新十郎さんに問いかけ、新十郎さんが頷くと言葉を継いだ。
「千住の根岸村の蔵で、こちらで作った練炭を受け取っておりますが、帳簿の数字に不合格となったものが減じられておりません」
「ああ、それは売り上げにかかわること故、別の帳簿の扱いとなっておる。今回見せたのは、工房として原料の木炭搬入から練炭の搬出までの明細が判る、いわば工房の生産力にかかわる帳面ということで出したものだ。従い、木炭の購入費用や工房で提供する飯の費用など運営・費用関係は別枠扱いとしておる。こちらも必要ということであれば、工房を管理する吉見様に申し出て、新たに許可を得ねばならない」
「萬屋の蔵の検査で不合格、着荷不良となった練炭を持ち帰ることにされたように聞いております。工房での扱いはどうなっておりますでしょうか」
義兵衛の問いに新十郎さんは少したじろいだ。
「行程の途中や乾燥前製品検査、製品出荷前検査で不合格となったものは、不良品としてそれぞれの行程毎の不良品を置く棚に載せ、士分の者が検分しておる。検分が終わり10日程の保管期間が終われば、これを崩して粉炭とし原料に加えておる。江戸からの戻り品も同様にしておる。
江戸からの返品には、寸法・重量・形状のいずれにどのような不具合が認められたのかの説明を書いた付箋が付けられておるので、こちらとしても重宝しておる。輸送中の不備と判るものが多いので、荷姿を工夫することで不良を減らすよう努力をしておるぞ」
各種行程で発生する不良品については、助太郎に指導された通り、きちんと管理しているようだ。
「消費する木炭と搬出される練炭量がほぼ等しいのは、不良となった木炭を原材料にもどしているため、ということで納得しました」
千次郎さんは、昨夜感じた不審点が解消されたようだが、義兵衛は追及・助言が必要と感じた。
「不良品の検分はどのようにしておりますか。明日からの検分作業は私も一緒に作業させて頂きたい」
義兵衛は明日工房に陣取るつもりになっていた。
助太郎の指導で、だんだん高度になっているであろう製造作業・品質管理も、上面だけ真似ているのではないか、と気になっていたのだ。




