田安家屋敷で米会所の相談 <C2455>
江戸城田安御門内の田安家御屋敷の座敷で、当主の定信様、勘定奉行の桑原能登守様を前に囲まれる中、いよいよ話合いという名前の尋問が始まった。
定信様に促された勘定奉行・桑原能登守様が横に座る関川様をつついて口火を開かせた。
「先月奉行所の土蔵で需給曲線のお話を聞かせて頂いた関川です。米価について、江戸市中に多量の米を蓄える仕組みを作り、価格に応じて買い入れ・放出を行い、供給量に合わせた需要量を調整することで価格を安定させる、という理解をしました。今回のお上の施策はこれに準ずるものと理解しており、飢饉対策のみならず、米価の安定に大きく寄与するものと考えておりますが、この理解で良いでしょうか。
また、江戸でも堂島と同様の米相場を立ち上げたいと考えておりますが、ここの所について助言を頂きたいと考えておりました」
義兵衛の顔をまじまじと見ながら質問をしてくる。
義兵衛は御殿様の顔をチラっと見てから応じた。
「私は堂島の米会所の知識がなく、お教えする前にこれを学ばねばならないと考えております。昨夕このことを北町奉行の曲淵様へ相談しました所『勘定組頭の関川様に尋ねられたら良い』との助言を頂いたばかりでございます。このような場で御指導頂くのも如何かと思いますので、明日にでも、という訳にはいかないでしょうか」
この場に居る人達がどのような方なのかを忘れたかのように関川様は前ににじり出た。
それに合わせて御殿様はずり下がり、義兵衛がポツンと対峙する様相になる。
「いえ、需給曲線をお教え頂いた時、田沼大和守(意知)様がそれ以上の質問を場にそぐわぬと制止されたので止めましたが、義兵衛様は『先物取引』『空売り』と言う言葉をおっしゃいました。御教え頂いた需給曲線の論理が誠に道理に叶っていることからしても、米価格が思った以上に上下する理由について、また、それをさせぬ方法についても、漏らした言葉から推測するに、きっと何か知っておられるはずです。甲三郎さんも『里には経済の道理に詳しい知恵袋が居り今は兄が握っておる』と言っておりましたが、義兵衛様のことで御座いましょう。あの日から話を聞く機会をうかがっておりましたが、桑原能登守様から昨日この打ち合わせのことを知らされ、どう聞こうか逸る気持ちを抑えることができませなんだ。
江戸で米会所を立ち上げ、それを何かの方法で勘定方が差配することができるのであれば、御城下に米を集めることも容易となります。そうすれば飢饉対策は成ったも同然でございましょう」
さらにグッと迫ってきた。
御殿様はある意味で同じ立場なので、容易に要請もできたはずなのだが、と思いながら横を見ると、嫌そうな顔をしている。
「いや、義兵衛は椿井家の要となって、この秋口に大きな勝負を賭けて居る。今抜けられる訳には行かぬので、こういった仕儀になってしまった」
少しグダグダの釈明をする御殿様を抑えて、定信様が皆に問いかけてきた。
「先ほどより『北町奉行所の土蔵で行われた需給曲線の説明』と何度か言っておるが、それが一つの鍵なのであろう。能登守、ひとつ説明してくれぬか。お主も理解した故、横車を押してこの場を使おうとしたのは判っておる」
「はっ、私もこの理屈を関川から聞いた時には驚いたものです」
桑原様は懐から需給曲線が描かれた半紙を取り出し、定信様の前に並べた。
そして、土蔵の説明会の概要と、そこで説明された物価が上下する論理を説明した。
説明を聞き終えると、そこには茫然とした定信様がいた。
「これは見事。物の値がこのように決まることを理路整然と解いた話を聞くのは初めてじゃ。関川の姿勢も納得した。
それで、主計助。能登守の要望にどう応える」
「はっ、今知る範囲で答えねばならぬ、と認識しました。
義兵衛、先に知っておかねばならぬことはあるのか」
困惑する御殿様を見て、義兵衛は腹を固めた。
「関川様、堂島米会所の取引について一つお教えください。現物の米を扱わない取引ですが、決済日はどのような取り決めとなっておりますでしょうか」
おそらく、ここが違うだろうと睨んでの質問だった。
「取引には米の受け渡しを行う正米取引と、現物の米を動かさない帳合米取引があります。帳合米取引は、新米が積みあがる10月の末日が最終決済日となり、そこで満期決済となって打ち切られます。満期である10月末日の現物の米で決済することになります。
ただ満期を待たず、米を運んで決済する『受渡決済』も行われますし、現物の引渡しをせずに損益の差分を金銭で行う『差金決済』ということも行われます。帳合米取引で、最終決済日まで来た場合、おおかたの商人は『差金決済』を選ぶようです。
いささか乱暴な説明で、混乱するかも知れませんが、決済についてはおおむねこのようなものです」
先物の決済期限は極めて重要な日であり、義兵衛の中の竹森氏が居た元の世界の株式先物でも厳密に設定・運用されていた。
少し考える間を置いた後、義兵衛は話した。
「米だと年1回の決済になりますか。価格が過度に上下するのは、米を真に必要としていない相場で利を得ようとする帳合米取引の影響と思われます。現物米を所持していない方の『売り』を制限されてはいかがでしょうか。『空売り』を禁止するだけで多少の効果はあるかと思います。
それと、米会所のことは、やはり米に詳しい商家・札差に聞くのが良いと思います。札差の主人からお上のために忠義を尽したいと思う方を何人か選び出し、勘定奉行所の御用達として召抱え、お上に献上する資本金の多寡などに応じて大名・旗本待遇を与えるというのはどうでしょうか。こういった方を核にして米会所を運営して運上金を納めさせ、勘定方は吟味役として差配すれば良いかと考えます。
私が今説明できるのはここまででございます」
昨夜、曲淵様に『市中の飢饉対策は町年寄に丸投げ』と示唆したのと同様に、『米会所は札差の御用達衆に丸投げ』と示唆したのだった。
もっとも、丸投げというものの、その仕組みの中に吟味役・目付といった監察部署を置き、そこを武家が握るというのは、実に都合が良いのだ。
「うむ、面白い提案じゃ。餅は餅屋に任せ吟味役を握ることで差配するのじゃな。商家の御用達と武家の吟味役、これの人選が肝という訳か。能登守、勘定方の詮議はこの程度で良かろう。あとは、ワシが聞きたいことの出番じゃ。主計助、油奉行になって忙しかろうが、時々はワシの相手もしてほしい。呼び出してから来るのではなく、定期的に報告に上がるよう工夫致せ。この屋敷に移ってから、なかなか話をする相手にも不自由しておる」
義兵衛は役目が終わったと見て後ろへ下がり、代わって御殿様が前に摺り出た。
見ると、関川様も後ろへ下がっており、義兵衛の方を見て『判った』というように頷いた。
その後は、定信様と御殿様の間で、領主としての心構えについて、雑談のようなとりとめもない話が続き、やがて御開きとなった。
行列を立てて屋敷に戻ると、紳一郎様を入れて今日の整理をする。
「今日は御苦労じゃ。特段の宿題もなく無事終われた。ああ、田安御殿へ定期的に上がる件があったが、まあこれは大事ない。
江戸の米会所については、義兵衛、見事に捌いたな。組織や人選などは勘定奉行・桑原能登守様が引き受けるであろう故、当家とはかかわりがない。安兵衛殿、曲淵様にも今日の仕儀をしっかり伝えおいて頂きたい。
あとは、町奉行所から義兵衛への要請じゃが、これもなんとかなろう。
問題は、旗本知行地の『囲い米』をどうするか、じゃが、練炭利益の半分を献上して充てたところで焼石に水じゃろう。献上金で当家を見逃してくれれば良いのじゃが、こればかりは苦しいに違いない。心得だけでは済まぬゆえ、いずれ定信様に入れ知恵しておくしかないだろう」
義兵衛はとっさに寛政の改革の失敗策として有名な『棄捐令』のことを思い浮かべ、深いため息をついた。
2020年最後の投稿となりました。なかなか進まない状況に筆者もさすがに焦っております。
2020年はいろいろな災難にみまわれましたが、どうにか暮らすことができました。2021年は平穏な日々となることを願っております。




