萬屋本宅で政策の説明 <C2452>
萬屋本宅の座敷で、お婆様と華さん、安兵衛さんと義兵衛が向き合って座っている。
「昨夜、安兵衛さんが御奉行様から聞いた話の中に、お婆様が進めている江戸市中での飢饉対策のことがあり、お耳にいれておいたほうが良いと判断して、ここに来た次第です。仔細は、安兵衛さんから言ってもらいます」
義兵衛が語ると、つい余計な話を織り込む心配があるため、説明を安兵衛さんに任せた。
安兵衛さんは、市中に飢饉時のお救い米を貯蔵する米蔵を造り運用することと、そのため『七分積金』に似た仕組みを起こすことを説明した。
「それで、御奉行様は『先に話を進めておられた萬屋の円様に話を聞きたい』と言われました。近々、北町奉行所からの呼び出しがございましょうが、御懸念されることなくお出で下さい。あと、この話はまだ表に出せることではございませんので、他言無用に願います」
「安兵衛様。確認させて頂きたいのですが、その席には町年寄様の同席はありますでしょうか。願わくば、この企てでお婆が懇意にさせて頂いておる町年寄・樽屋三右衛門様を同席させて頂きたいのです」
樽屋は町年寄格だが、代々土地管理を所轄しており、江戸市中の地割には必須の家となっている。
「その件は、御奉行様に確認して返事致します。恐らくですが、お婆様に懸念することが無ければ、樽屋様の同席は構わぬはずです」
お婆様としては、説明に齟齬を来たさないようにすることと、これを機に一気に飢饉対策を推し進めようという気配が濃厚に漂ってきた。
確か『火避け地に防火壁代わりの土蔵を作り、そこへ飢饉に向け長期保存ができる籾米を蓄える』という案だった。
火避け地はそれなりにあるはずなのだが、実際には屋台から始まり出店・小屋ができ、いつのまにか利権が発生しているようで、ここに土蔵を作るという話がすんなり通る状況ではないようだ。
町民の間では決着が着くはずもなく、町年寄りを交えて利権者との折衝が続いていた。
ここに、お上が介入してくれるのであれば、という思惑が働くのも無理はない。
あまりのんびりもしていられない、とばかりに急かす安兵衛さんの視線を受け、早々に本宅を辞すこととなった。
「華さん、今は忙しない用件が沢山ありますが、冬場までに一段落します。その折には必ずやここでゆっくり過ごしに来ましょう。
いや、私の生まれた村に行って、実父母に会って頂けませんか。何もない山間の寒村ですが、私の生まれ育った地を是非一度見ておいて頂きたいのです。大人で一日がかりの距離ですから、登戸村の支店で一泊されても良いかも知れません。いかがでしょうか」
義兵衛の申し出に華さんは笑顔で頷き、萬屋本宅から送り出してくれた。
小雨の中、安兵衛さんと一緒に北町奉行所へ急いだ。
「義兵衛さん、あのようなことを言ってよろしいのでしょうか。
私の見るところ、用件は片付く所か、これからまだまだ積みあがっていきますよ。
お上の飢饉対策で、未知の状況が起きた場合に頼る先は義兵衛さんしか思いつきません。椿井家の庚太郎様も甲三郎様も、新しい知識の源泉は義兵衛さんでしょう。御老中の田沼様は今は手綱を緩めているように見えますが、お上の立場が厳しい状況になれば、手にしている駒は潰れるまで全て使い倒すお方と見ております。これから新しい施策を矢継ぎ早に打ち出すことになりましょうが、困難に突き当たった場合は椿井家に御下問になりましょう。御殿様から知恵を求められても、結局は方策を作ることが出来るのは義兵衛さんだけですよ。
私としても、何かの偶然が幸いして外れることを祈ってはいますが、多分御老中様の屋敷で寝泊りすることになる予感しかしません」
義兵衛は言葉に詰まった。
確かに、寛政の改革で何が起きるかを知っているのは巫女の富美(中に居る阿部)と義兵衛(中に居る竹森)しかいない。
そして、富美が協力的な姿勢を示さなければ義兵衛に御鉢が回ってくることになるのは間違いない。
「まあ、なるようにしかならないでしょう。今はただただ最善を尽くすだけのことです。全力で取り組まなかったために後悔することだけはしたくありませんからね。その結果起きることについては、華さんもきっと判ってくれます」
「しかし、結果を出せば出すほど、取り込まれて重い責任を負う立場になりますよ。見返りとして見合うものは得られませんよ」
「安兵衛さん。今度来る飢饉で死ぬかもしれない人が助かるのです。自分の力で歴史が変わるのですよ。充分釣り合います」
安兵衛さんは不思議なものを見るような表情を見せた。
義兵衛はどこかで設定を踏み外したことを悟った。
「まるで何かを知っているかのように話されますね。それは巫女に代わって、神様の依り代となった時の知識ですか」
「まあ、そのようなものです。ともかく、私は人が死ぬというのが嫌いなのです。寿命により天寿を全うするのであれば納得ですが、餓死や戦死ということだけは、どうしても容認できません。今度来る飢饉は、御告げによれば未曾有の災厄です。ほっておけば何十万という人達が餓死すると告げられています。これを知ってしまった以上、自分のできる所からなんとかしようと奮闘せざるを得ません」
本音らしく語った内容に、安兵衛さんは納得してくれたようだ。
呉服橋を渡って北町奉行所へ行く前に、具足町の萬屋の日本橋店に立ち寄る。
ここでは店先で大番頭の忠吉さんから本日の売れ行き情報を仕入れた。
「今日は好調で、36組・72個の七輪が売れております。誠に昨日売り出した瓦版の影響は大きいですな。この具合でどんどん売れれば言うことなし、といったところでしょうか」
雨天にもかかわらず売れたのは、やはり寒さを覚えたから、ということもあるに違いない。
昼間晴れて気温が高い時でも売れてこそ、と思うのだが、これは天候次第なのでもう少し様子を見るしかないようだ。
義兵衛は販売数量の情報だけ仕入れてから、安兵衛さんに促されて萬屋を後にした。
北町奉行所の私邸では、いつもの座敷に通され曲淵様を待つ。
急いだ様子の御奉行様が座敷に現れた。
「安兵衛、主計助様(椿井庚太郎様)と萬屋円(お婆様)の反応はいかがであった。ことは急がねばならぬ。祐筆に腹案を渡す時期はまだ決まってはおらぬが、沙汰が下れば早々に手渡しできるよう、下準備が必要なのだ」
老中が腹案の原案を示し、各担当へ割り付けを済ませた後、担当者は腹案に沿った企画書を作りこれを老中へ提出。
その後、老中はこれを祐筆に下げ渡して審議を進め、ここを通過した後に奉行を含めた合議を行い、認められたものを将軍に認可を得て公布する、というのがおおまかな施策の進行なのだ。
基本となる企画書で、今回『七分積金』を原資とした町会所開設・救荒米備蓄を柱とする草案を曲淵様がまとめる必要があるのだ。
大筋は、老中・田沼様が巫女から聞き出した内容なのだが、後世に伝わっている制度と現状では当然齟齬がある。
これを調べてきちんとしたものに改めねば、審査は通らないのだ。
「はっ、萬屋円様にことの次第は伝え、呼び出しに問題は御座いません。ただ、町年寄・樽屋三右衛門様の同席を求められております。殿の御都合がよろしければ、明日にでも両名を呼び出すことに致します。
また、主計助様と義兵衛様については、同席不要の確認を求めておりました」
「うむ、まずはそれで良い。だが、聞き取り後に案をまとめる段で勘定方の力を借りたい。そこには義兵衛も参加してもらいたい」
やはりこうなってしまった。
なぜか話が長くなってきてしまいました。




