興行直前に怒鳴る女将 <C2418>
■安永7年(1778年)閏7月20日(太陽暦9月10日) 憑依190日目
秋葉神社別当満願寺では、朝早い時刻より、興行次第の瓦版が売り出された。
そして、それを目にした人々は武家側行司筆頭に御三家の水戸中納言様があることに気付き、騒めいた。
実は昨夕、今回の興行に水戸の御殿様が出る、という噂が流れていたのだ。
いや、その噂は興行を煽るために一部の仕出し膳の料亭で話すようにと善四郎さんが仕組んだものであった。
満願寺で買った興行次第の瓦版は、向島から言問橋を通って浅草へ流れ、そして日本橋でも持ち歩く者が出た。
それを悟った日本橋の瓦版屋・當世堂の動きは速かった。
「しめた、読みが当たった。興行が始まる昼までが勝負だ。今まだ置いてあるやつを読売にかけろ。そして今から昼前までだ。刷れ、刷りまくれ。そして売るのだ」
事務方では1000人規模と踏んでいたが、念のため瓦版は2000部と結構多めに刷っていたのが効いた。
500部程だが手元に残っていた瓦版を手に、日本橋に読売が立ち、人々が群がった。
「これは秋葉神社に参拝すれば、水戸様のお姿を拝見できるかも知れんぞ」
この新たな噂を知り、版元は興行の大成功を確信したのだった。
一方、秋葉神社別当満願寺境内の社務所では、11月末に行われる例祭でも見ないような人の集まり具合に驚き、緊急の対策を取ることを決めた。
要点は、瓦版に記載されていない運用部分の変更である。
まず、100文払って客殿内で興行を見ることができる人数を100名から120名へ若干増やし、先着順での案内を停止することにした。
そして、幸龍寺で行われた第一回の興行を参考に、引き札による抽選としたのだ。
更に、400文の支払いで、特別観覧席を20席設けることにした。
1個80文で1000個仕入れる幕の内弁当は100文で売りつける予定だったが、これを160文に引き上げる方針にした。
こういった値上げによる需要の抑制を狙ったものだが、客殿内で陣頭指揮を取る女将には事前に相談もせず、単に連絡という形で伝えられたのだ。
「そのような興行にかかわる取り決めを、この土壇場になって一方的に変更なさるとは、あまりにも酷いではございませんか。
客殿内の観覧者上限100名は、こちらで幕の内弁当を提供する対象者です。一方的に40名も増やされては、対応できません。
それに『20名は特別扱いをせよ』とは何事ですか。『座敷内に席を設けよ』とは一体何ですか。
このような仕打ちをするのであれば、武蔵屋は幕の内弁当1000個の注文を、この場で一方的に破棄させて頂きますよ。ええ、構いません。その代わり弁当は全てこの客殿内で売ります。売り切ってみせます。
そうさせたくないのであれば、せめて客殿の使用料など一切合切を半額にでもなさい」
欲の突っ張った満願寺からの伝言を持って来た喜六郎さんに、女将は顔を真っ赤にして大声で怒鳴りつけた。
客殿への案内に満願寺は10文の木戸銭を取っている。
武蔵屋は90文の口銭を取るが、幸龍寺の時のように握り飯ではなく、80文で卸す『幕の内弁当』を出すことで、観客を喜ばせる算段をしていたのだ。
客殿の真ん中で立ち往生している青い顔をした喜六郎さんと、その前で憤怒の表情をした女将に皆の目が集まった。
「客殿の中は武蔵屋さん、境内のことは、例の弁当箱回収場所以外はこちらという取り決め……」
「黙らっしゃい。その客殿に入れる客を勝手に増やすというのは、明らかにそちらの都合。
俄かに評判になって参拝客が増えたからと言って、間際になって相談も無しに決めて押し込もうというのは、土台無理」
善四郎さんと義兵衛・安兵衛さんは女将の元へ駆け寄り、喜六郎さんから事情を聞き取った。
「それは女将が怒るのも道理ですよ。今から40席増やすのは無理で、取り決め通り客殿に案内して頂くのは100人までですよ」
善四郎さんはそう諭したのだが、喜六郎さんは中々承知しない。
それは当然で、喜六郎さんには決定権がないからだ。
「事前に相談しなかった点はお詫びしますが、何分にも寺側が言い出したことですから……」
「ここで立ち話をしていても埒があきません。決定した責任を持つ方と話をしないと時間だけが無駄になります。さあ、喜六郎様、案内を。
女将さん、後は善四郎さんと私が引き取りますが、良いですか。ここの後の段取りを続けてください。
ええ、100人までというのは、大丈夫です」
女将の確認をとり、4人は寺の社務所へ向かった。
社務所では、増え続ける参拝者への対応でどこかオタオタし始めてはいたが、ともかく客間で座主と向き合った。
「すでに以前から出している瓦版はご覧になっておりましょうが『100文出せば客殿内での興行を直接見ることができる』と喧伝しております。『ただし、客殿に案内できるのは限られた人数となるので御容赦』とも書いております。人数は伏せていますがね。寺との取り決めで100人まで、というのを勝手に増やすのは越権行為ですぞ」
「いや、ここまで参拝客が増えるとは思わなんだ。なので、興行の目玉の観覧者数を少し増やした方が良いと思ってな。瓦版には案内できる人数を書いておらんじゃろ。それに、客殿の席の配置を見させてもらったが、ほれ、この脇なんぞ、ちょっと空いておろう……」
座主は言い訳をしたが、義兵衛はこれを遮った。
「最初の参拝者数想定は1000人で、1割程度なら妥当としてお互い納得して決めた数でしょう。あぶれる人数は900人。この人達は皆100文を握りしめて来ていますが、諦めてもらうことになります。仕方のないことです。
それで、今参拝者数の予想が倍の2000人だとして、だからそこに40席増やしても、あぶれる人数は1860人。これで参拝客の不満が多少なりとも改善するとお思いですか。はっきり言って焼石に水でしょう。急な変更は現場に負担をかけるだけです。
こちらが聞いているのは、客殿に案内する人数を増やしたい、という要望だけですが、それ以外に何を変えようとなさっているのですか」
ここまで言った時に、同席していた喜六郎さんが口を挟んだ。
「義兵衛さんでしたよね。座主に対して失礼ですぞ。それに、なぜ貴殿が口を挟むのですかな。確か、七輪や焜炉の押印の関係なら判りますが、料理の興行はお角違いでしょうに」
善四郎さんが喜六郎さんを睨みながら言った。
「あまり表には出ぬのですが、義兵衛様こそがこの興行の発案者なのですぞ。新しい卓上焜炉料理に始まり、仕出し膳の座の立ち上げや運営、今回目玉の『幕の内弁当』の発案。どれも知る人しか知りませぬが、仕出し膳の座の知恵袋ですぞ。今回の興行も、幸龍寺ではなく満願寺で開催しては、と最初に示唆されたのも義兵衛様です。ただの若造ではない、そこはしっかり判ってもらいたい。本当に困った時に、私共料理人は何度助けられたことか」
「善四郎さん、そんなことより今は時間が貴重です。
座主様、ついぞんざいな言い方になってしまった件は一重にお詫びいたします。
推測するに、水戸様が臨席なされる噂で人が集まっていると思います。御老中が参加された幸龍寺での興行に匹敵する人が集まっても不思議ではありません。御三家当主様でございますから。
事前の段取りをいきなり変えるのではなく、今から5000人もの参拝客を上手くさばくことに注力されたほうが良いのでは、と愚考致します。特に興行開催直前の昼前には、身動きが取れない程の人が集まると思います。案内する人を抽選で選ぶのは良いですが、参拝客の足を止めないよう、流れを作ってください」
「義兵衛様の言うことは確かです。昨夕から水戸中納言様が臨席なされる噂は、流れておりました。前回の幸龍寺での興行では6000人の人出でしたから、5000人は間違いないでしょう。私共の言いたいことは、事前の段取りを変えず、今は人を捌くことだけに注力して欲しい、です。座主様、よろしいですかな」
善四郎さんの強い迫力のある言葉に押されたのか座主は頷き、この場は終わった。




