興行準備の武蔵屋再び <C2414>
北町奉行所から向島の武蔵屋までは1里半(6km)と、さほど遠い距離ではない。
呉服橋御門を出てから日本橋を渡り、両国橋で大川(隅田川)を渡り、そのまま東岸に沿って本所・中野郷を経て向島に至る。
半刻(約1時間)程度なのだが、その間、安兵衛さんは口には出さないが『先ほどの話の背景を知りたい』の気配を発している。
『一橋家が将軍家や田安家、清水家に養子を出して血筋を簒奪する』という家系図は、曲淵様であればこそと甲三郎様は差し出し、曲淵様は目にもしたのだが、流石にその中身は説明できない。
最初に曲淵様にお目にかかった時(227話)に町奉行配下の戸塚様が同席しており、この話を聞いている可能性はあるが、内容が内容だけに安兵衛さんに申し送りしているハズはない。
しかし、とうとう耐え切れなかったのか、質問ではなく感想という形で話しかけてきた。
「椿井家の方々には驚かされます。婿養子に出られた壬次郎様、ですか。わざわざ知行地に赴いて新田開発の陣頭指揮を取る旗本なんて、初耳です。どういった方なのか、御存じなら教えて頂けませんか」
安次郎さんも士分なので、てっきり今裏で繰り広げられているであろう権力闘争に興味があるとばかり思っていたが、どうやら大きな勘違いをしていたようだ。
よく考えれば、こういった地位などに興味を持つのは出世がからむ旗本の殿様であり、配下の家臣は決まった禄さえ支給されれば、勿論それは加増されれば嬉しいには決まっているが、極論を言えば安定した生活さえ送れれば良いのである。
「寺子屋でも歳の差がありすぎて、噂さえ全く知らないのです。20も歳の差があれば、かかわりを持つこともありません。ただ、御殿様一家とそれを支える家臣は概ね細山村に住み、半農生活をしているので、百姓仕事にはあまり抵抗がないのかも知れません。知行地を持つ普通の旗本は、代々江戸住まいを繰り返した結果、里のことを単に便利な財布と勘違いしてしまっているのかも知れません。その点、椿井家の代々の御殿様は、知行地を中心に館を設け、上手く領民を手なずけて領地を運営していると思います。なので、松平定信様も御殿様の話しを聞いて感心されたのではないでしょうか。
壬次郎様は、椿井家の風をよく知っていて、自分の中では当然と思って行動されておられるのでしょう。
知行地に拠点を置くというのは、武蔵国だから、江戸まで1日で行ける距離だからというのが、意外に大きいと思います。
それと、椿井家の知行地では寺子屋の制が始まってから随分になります。こういった背景から、他領では一朝一夕には真似できないでしょうね。ましてや、お上の代官が治める村々は、最初の教育環境を整えるのも難しいでしょう」
この手の質問の受け答えで済むのであれば、話をするのは吝かではない。
話をしながらの道行きになると、気持ちとしてはあっという間に目的地である武蔵屋に到着した。
武蔵屋の暖簾を潜るなり、二人は最上客とばかりの扱いで足洗いをされ、一番上等な奥座敷へ案内された。
「ここでしばらくお待ちください。今、丁度八百膳の善四郎さんも来られております。関係する皆も、これから声をかけます。お昼は済まされましたか。もしよろしければ、こちらで御出しします。いえ、義兵衛様であれば、お代を頂くなどとんでもございません」
女将はことも無げに言うが、アポなしの飛び込みで最上客の特別扱いとは余程なのだろう。
「昨日、善四郎さんを伴って満願寺と掛け合いまして、こちらの要望を通すことが出来ました。これで、興行収支の目途がつき、ほっとしております。誠に義兵衛様のお知恵で危ない所を救って頂き、感謝の念に堪えません。詳しい話は、多分直ぐ来るとは思いますが、善四郎さんからお聞きください。沢山言いたいことがおありの御様子ですよ」
女将はこう言うと下がり、昼膳が運ばれてきた。
待遇が各段に良くなってしまっていることに、安兵衛さんは驚き、かつ喜んで昼膳を食べているが、義兵衛はおそらくこの後に来るであろう嵐を予感し、戸惑いながら箸を進めていた。
「義兵衛様、昨日の満願寺側の豹変ぶり、見せたかったですぞ。
おっと、お食事中でしたか。大変失礼しました。では、耳だけお貸しください」
予想通り、善四郎さんが箱やら何やら抱えながら座敷に飛び込んできた。
そして教えてくれた顛末は、先に女将が話した通りであった。
結果として、幕の内弁当を客殿ではなく満願寺の境内で売り出すこと、その販売権を渡すことで客殿の使用料を仕出し膳の会の言い値にまで引き下げること、幕の内弁当は武蔵屋が1個80文(2000円)で1000個作り全部を当日朝に満願寺へ卸すこと、小売値は満願寺側に任せることなどだ。
客殿内の控え室や観覧客に回す幕の内弁当は、満願寺には関与させないことにもなっている。
このため、武蔵屋が当日準備せねばならない幕の内弁当は、1400個にもなることが明らかになった。
昼膳を終え、茶を飲んで一息つく時分になって、善四郎さんは説明を終え、持ってきた弁当箱2つを前に押し出してきた。
「幕の内弁当の見本を10個ばかり持ち込みましてな、儲かりそうな種があると判ると、満願寺は頑なだった姿勢を急に変えたのですよ。担当されていた喜六郎さんの様子、お見せしたかったです。
それで今特急で弁当箱を作らせているのですが、どうしても必要となる1400個は、期限厳守という注文で1個16文(400円)にもなってしまいました。それが終われば、普通に作って1個8文(200円)だというので、追加分として2万個を発注しているのですよ。
それで、これが今出来たばかりの弁当箱です。いかがでしょうかな」
畳んだものと、中は詰めていないが組み立て終わったものだ。
組み立て終わったものの蓋を取り、中を見た。
内側にはちゃんと仕切りが立っていて、手前の所に仕切りがあり箸がおかれている。
左側がご飯の場所として高めに仕切られており、やや広い右側の区分の中に低い仕切でいくつかの場所に区分けされている。
仕切りや横枠は和紙で接着されており、押し倒して平たくすることもできる。
箸を抜いて仕切りを倒し、箱を平たい板に変えると、蓋のへこみにすべて収まり、重ねて収納するのには都合が良い。
義兵衛は組み立てた弁当箱を手に取ると、蓋を弁当箱の底に回して押さえ、膝の上に置いたり、手で高く持ち上げたりしてみた。
「これは大変いい具合です。大きさも手頃です。あとは中に何を詰めるか、ですね」
昼も終わった頃合いと見計らって、武蔵屋の主人と女将が揃って顔を出した。
「義兵衛様、わざわざ足をお運び頂きありがとうございます」
主人が丁寧に挨拶しようとするのを押し留めて義兵衛は発言した。
「今日は幕の内弁当のことで寄せてもらった訳ではありません。今朝、北町奉行・曲淵様から、今回興行の武家側行司の町奉行枠について直々にお出になると聞き、これを伝えにきました。出席予定であった与力の方には、御奉行様から変更を言い渡すとのことで、参列側については支障はありません。ギリギリのことで申し訳ないのですが、当日出席者や観客に渡す瓦版の変更をお願いします」
それを聞くなり女将は席を外し、どうやら丁稚を走らせたようだ。
前から感じてはいたが、女将は商売の機微という物を良く知っている。
こう考えると、満願寺との最初の失敗した交渉は、おそらく主人が表に立って動いたのではないか、と思えるのだ。
女将に確かめたら、主導権を取られ交渉が暗礁に乗り上げそうになった頃から主人に代わって女将が立ち回るようにしたが、その時点ではもう切り込めなかったという事情を後になって聞いた。
武蔵屋の主人がとても気の毒に思えたのは無理ないところだ。
多分、いやきっと主人は女将に罵倒され続けていたに違いないのだ。




