勧進元・武蔵屋の苦悩 <C2408>
■安永7年(1778年)閏7月14日(太陽暦9月4日) 憑依184日目
馬4疋を引き連れ、椿井家の紋である菊紋章の旗をかかげた煌びやかな家臣群+荷駄の一行は、江戸屋敷の正門をくぐり出るといつもの道を郷里・お館のある細江村に向かってゆるゆると歩み始めた。
義兵衛はこの一行を見送ると、いつものように安兵衛さんと一緒に向島の料亭・武蔵屋へ急いだ。
武蔵屋では江戸に名高い浅草・山谷町の料亭・八百膳の主人・善四郎さんが待っていた。
武蔵屋からみると、秋葉神社別当満願寺は目と鼻の先にある。
今日は本所・深川・向島地区の料理比べの会場確認ということで満願寺の客殿を借り、子細な点検を行った。
設備や配置には特段問題はないように義兵衛の目には映った。
「義兵衛様、急なことにもかかわらず御対応を頂き誠にありがとうございます」
会場を見回り終わり、武蔵屋の女将と主人はそろって頭を下げてきた。
今回の興行の仕切りは勧進元である武蔵屋がその収支を含め責任を取ることになっている。
つまり、興行で赤字が出ると武蔵屋は仕出し膳の座から借金することになるのだ。
にもかかわらず、点検後に話を聞くと、興行に伴い満願寺が得られるテラ銭の一部を還元してもらう目途がまだ着いていなかったのだ。
もっとも幸龍寺で行ったクイズ形式のイベントなどは、予選ということもあり導入予定とはなっていない。
満願寺としては、こういった点も不審なのだろう。
「最初に興行を行う場所として申し入れした時の方法がまずかったのかも知れませんのぉ」
武蔵屋の座敷で善四郎さんはそう言うと腕組みをし、長く息を吐き出した。
話を持ち込んだ時に、今や仕出し膳に付き物となっている卓上焜炉なのだが、この焜炉に秋葉神社の御印があることを示した。
そうすると、興行は秋葉神社別当である満願寺以外で行うことは論外、という調子に代わってしまったのだ。
こうなってしまった以降、主導権が満願寺側に移ってしまい、客殿の使用料などの値引き交渉もままならなくなったまま今に至ったのだった。
「こうなると膠着状態ですね。枠を決めすぎて一緒に興行をする、盛り上げようとする機運が全く止まっているように見えます」
満願寺の施策をひととおり聞いた後、義兵衛はこう述べた。
「こうなると、仕出し膳側で儲かるように見える施策を出し、満願寺がさらに欲をかいたあげく参拝者数に応じた金銭的割引の条件を呑んでもらうしかなさそうです。
料理比べの対象となっている料亭はどうなっていますか。また、行司・目付の席割りも教えてください」
武蔵屋からの報告では、今回4料亭の料理が対象で、武家側行司3人、町方行司3人、料亭方行司3人となっていることが知らされた。
前回の幸龍寺で開催された興行の規模に比べ、結構小さく、善四郎さんの読みでも参拝客は1000人規模という感触なのだ。
そして、観客をどう喜ばさせるか、という発想がそもそもないのが残念な所なのだ。
今回はともかく、長く継続して行う興行に育てるにはまだ工夫が足りない。
「武蔵屋さん、興行を見に来る観客に向けて幕の内弁当を売り出しませんか」
思い起こせば、この時代で幕の内弁当という代物を目にすることが無かった。
善四郎さんと武蔵屋の女将は声を揃えて聞いてきた。
「『幕の内弁当』とは何でしょうか」
「使い捨てができる折箱に、一口で食べれる白米の俵型握り飯を何個か入れ、仕切った脇に副菜として卵焼き・焼き魚・蒲鉾・揚げ物・煮物・香の物などを詰めたものです。持参先でそのまま食べられるように箸も添えておきます」
※幕の内弁当は江戸末期(天保年間:1830年代)に芳町(現:日本橋人形町周辺)の万久という料亭が最初に売り出したもののようです。
なお『幕の内』という命名については諸説あるようです。
義兵衛は絵をかいて説明し始めたが、どうせなら見本を作ったほうが良いと考えた。
そこで店にある折箱を出してもらったが、どうもしっくりくるものがない。
どうやら折り詰めができる箱というもの自体が無いらしい。
いや、折箱自体はあるのかも知れないが、弁当容器ということが想定されていないようだ。
「実物を作るのは後回しにして、この弁当を武器に興行を見に来た客を取り込みます。実際に料理比べを見学された方は茶屋で食事されていたようですし、満願寺側で観客に対する準備が不足していてもそれを補うことができます。
勝負できるネタは、今はこれしか思いつきませんが、とりあえず満願寺側へ再度価格交渉を始めてはどうでしょうか」
義兵衛の提案に、武蔵屋さんは渋い顔をした。
「再交渉といっても、どこからどう始めてよいのか見当もつかないのです。その取っ掛かりについて御教授ください」
近所のよしみで協力関係にあるはずの満願寺に対する信頼がすっかりなくなってしまっていた。
義兵衛はカラクリの骨子を説明した。
「この『幕の内弁当』は全く新しい食事形態なので、間違いなく売れ評判になります。まずは武蔵屋さんがそう固く信じてください。そして、その信念をもって、興行の日に仕出し膳の座からの特別料理品として売り出すことを説明します。
そうすると、境内で売る物品について満願寺が見逃す訳はなく、利益を要求するでしょう。そこからが交渉で、販売は借用した客殿内のみと言い出せば、それを広く境内で売るほうが良い、と言い出すに違いありません。なにせ必ず売れますから。
それで、弁当の販売を一部満願寺さん側に譲る結果にはなりますが、そこから出た手札で客殿の費用の交渉に入ることができるはずです。
つまり、武蔵屋さんがこの弁当で新たに得る費用の一部をタネ銭に勝負をかけるのです。
まあ、本当は一緒に興行を盛り上げようという機運を作るのが重要なのですがね」
この説明に武蔵屋は頷いたが、横で聞いていた善四郎さんは考えこんでいた。
「弁当をどれだけ作るのか、幾らで売るのかなど、これでは判らんことだらけではないか。武蔵屋が作った所で、これが売れなければ借金は嵩むばかりではないか」
「その通りです。行司・目付の付き人に出す弁当は確実に出ますが、当日集まった観客がどれだけ買ってくれるかは未知数です。
しかし、1000人規模であれば半分の500位は見込んでも良いと思います。
万一売り切れで苦情が出るようなら『引き札』を使いましょう。
まだ物を作って見せていませんが、1個80文(2000円)で作ってはどうでしょう。そのあたりの相場は、八百膳さんの方が見る目は確かでしょう。
ああ、こういった興行でしか出ない特殊性も考慮してください。食べる場所も料金の一部ですからね」
こうして武蔵屋ではまず交渉のネタ作りから手を染めることになってしまった。
肝心の興行まであと6日しかないというギリギリのタイミングなのだ。




