治右衛門様の目論見 <C2392>
■安永7年(1778年)7月26日(太陽暦8月18日) 憑依167日目
朝から佐倉藩での具体的な取り組みについての質疑が行われ、昨日一日を潰して名内村の様子を見に行ったのは効果があったようだ。
「義兵衛殿、佐倉藩で日産5万個を作る工房を準備するには、どうするのが良いか、何か具体的な策をお持ちか」
おそらく名内村・名主の秋谷修吾さんの儲け話を直に聞いたことが影響しているように思える。
そして、佐倉藩・勘定方の吉見治右衛門様は佐倉藩でどうやっていくのか、を考え始め質問してきたのだろう。
「いきなり5万個生産する工房を準備するのはいろいろな意味で難しいと考えます。
500個位であれば、どこでも作れるようになるとは思います。これが10倍規模の5000個ともなると、村総出でやっとという感じでしょう。実際、名内村で5000個生産と言っておりましたが、これには原料となる木炭を外で買い付けたり、出来上がった製品を他村の力で送り出したりするという他力本願な所があります。この他力本願を最大限に活用して2倍の1万個まで作ろうというのだから、その勢いは大したものですが、230石高の村を総動員してもその程度です。
まずは、日産5000個作る訓練用の工房を立ち上げませんか。それが上手くいくようになれば、違う場所・村に工房を作るのです。
佐倉藩内に工房を10箇所作れば、それで5万個になるでしょう」
義兵衛は手堅く行く方法を提案した。
「うむ、それもそうじゃな。名内村にあった規模の工房であれば、まずは近傍の村で試してみよ、ということか。
上手く行けば同じことを佐倉の中の離れた村に施すのか。
そして、試みが上手く行かない場合は、その村だけ救済すれば良いということになる。万一の場合、藩としては助かる方法か。木炭が豊富に得られるところで、この近くという条件でまずは考えてみよう」
提案の趣旨は理解してもらえたようだ。
しばらく勘案したあと、説明を始めた。
「なるほどなぁ。その方の献策はなかなか良いようだ。日産5000個、昨日見せてもらった名内村程度であれば丁度良さそうな村がある。
この武家屋敷から南を流れておる高崎川を越えたところに台地があり、そこにある寒村・木野子村が適切であろう。
この台地は、西側と南側を鹿島川がぐるっと廻りこみ、北側は高崎川で押さえ込まれておるのだ。印旛沼と川筋を海に例えると、突き出した岬・半島といった趣きの場所じゃ。川に面した村は、その平坦な場所を田にしてそれなりの収量があるが、一歩奥に入ると途端に米作りが難しくなる。
佐倉の一番近い村は六崎村の622石、そこから西の寺崎村804石、そこから鹿島川沿いに南下して太田村519石、大篠塚村432石、廻りこんで小篠塚村316石、神門村227石となっておる。
六崎村から反対廻りに高崎川の南岸を遡ると、まず石川村288石、そこから川が分かれて南へ流れる南部川があり、その西岸に城村264石と繋がっている。そして、この丘陵の上に木野子村118石、宮本村99石と連なっておる。
今日は、これから木野子村の視察をしたいのだが、同行してもらいたい。
木野子村は米こそ118石と周囲の村より少ないが、台地の上の雑木林を押さえており、薪・木炭を佐倉城下に売りにきておる。ここから1里(4km)ほどなので、それほど遠いということは無かろうゆえ、事業を試すにしても、差配するのが容易かろう」
城下に近く、木炭も豊富そうな村ということでは都合良い村かも知れない。
治右衛門様は早速に中間を村の名主の所に走らせ、案内を申し入れる手配をしている。
だが、懸念することもある。
「その村で動員できる村人はどの程度おりますでしょうか」
いろいろと道具を使ってはいるが、手工業の域なのだから、労働力=労働従事者をどれだけ確保できるかも重要な点なのだ。
金程村では子供を60人動員して日産2500個、名内村では大人を主軸に80人動員して日産5000個という数字からして、1万個生産するためには大人120人は動員する必要があると見込んでいるから、義兵衛としては当然の心配なのだ。
「うむ、普通は、村の人口は石高の半分と思えば良い。年貢を納めると、半分しか残らんのでな。すると118石の木野子村は60人位かの。もし、その村の百姓を皆駆り出したとしても、6~7割の40人がやっとであろうな。
おお、そうかこれは気付かんかった。説明を省いたが、百姓を動員するつもりは元よりない。
見せてもらった名内村と、聞かせてもらった金程村の状況とは、訳が違う。当家は旗本ではなく大名家なのだ。動かす仕組みも単純ではないし、殿が直接なにかなさる訳でもない。殿に認可を頂いて我ら家臣がこの地域を治めているのだ。
それに長い目で見れば国替えもあろう。藩の事業であれば、そうそう領地から直に吸い上げる訳にはいかんのだ。これは藩主導で事業を起すことゆえ仕方あるまい」
治右衛門様は、この事業のやり方として、武家が運営の中核となることを説明し始めた。
確かに、頻繁に御国替えをしてきている堀田家としては、儲け話を特定の村に固定してしまうのは難しいと思ってしまうのも無理はない。
せっかく興した産業が自分のものでなければ、御国替えされてしまうと持っていく訳にもいかず、利益を前に事業に投資した分だけ損を担がされる可能性だってあるのだ。
「佐倉の城下を見たであろう。この城下には約6000人もの人が集まっており家の戸数は1200にもなる。内920戸が武家屋敷じゃ。
直の家臣は1200名ほど居るが、300名は他の知行地へ出向いており、おおよそ900名がこの城下に住んでおるのだ。出羽国山形にも4万石の知行地が残っており、そちらに人をかなり残しておる。
それで、この佐倉に屋敷を構える920家の内、禄を知行石高で貰っている約200家について、そこの者をこの事業のあてにしてはどうかと思うておる。
そこで村から建屋を借り、そこで働く者として200家から中間や奉公人を出してもらう。もちろん、木野子村や近隣の百姓を奉公人として雇い、いや雇った格好にして工房で代わりに働いてもらうという手もあろう。実際に名内村で練炭を作っておったのは、百姓娘であろう。武家の娘にあの作業は過酷じゃ。あらかた奉公人を差し出して済ますに違いない。
昨日、名内村の名主から聞いた給金という考え方は実に良い。俸禄に上乗せするとしても良いし、別途都度払いするのも良かろう。どういった者を出すのかによって給金を変えることを予め告知しておけば済むことじゃ。同じ仕事をするにせよ、家臣であれば奉公人より基本的に高い給金を手当てすればよかろう。こうすると部屋住みの者や、それに付いておる家臣は出て来易いに違いない。
そして武家が直々に作った練炭を藩で管理し、これを薪炭問屋に卸して金を作る。作った金を給金として支給し、残り全部が藩の収入とする。
そうでもせぬと、藩が金を直接吸い上げる方法がないであろう」
難しい方法を選択しているようにも見えるが、佐倉藩・堀田家の方針であるのなら仕方がない。
杉原様の所のように、練炭を納める萬屋で卸し値から特定金額を徴収する方法に比べると、藩が卸して得た金額を分配するというのは、金の扱いに慣れない武家には厳しいように見えるのだ。
ただこうして堀田家の家臣が殖産に直接かかわっていれば、万一御国替えという事態になっても、練炭作りは行った先の土地でも展開できる。
物作りの技術を御家のものとするという狙いは、義兵衛の考えが及ばなかった所なのだ。
ただここで目論みを聞いているより、工房の予定地と考えている木野子村を早く見たいと申し入れると、説明を止め早速に村行きとなった。
次話の執筆が全く進んでおらず、1月31日の更新が出来ません。ご容赦ください。




