佐倉藩への道 <C2381>
■安永7年(1778年)7月17日(太陽暦8月8日) 憑依158日目
2日前の15日に、萬屋・本宅で癒されたことに味を占めて、昨日も萬屋・本宅通いをした。
勿論、安兵衛さんもしっかり横に居て、萬屋で出される茶菓を楽しんでいたのだ。
そして、今朝も出かけようとした時に、紳一郎様から呼び出しが入り、御殿様の前に引き出されたのだ。
当然のように、安兵衛さんも一緒なのだ。
「義兵衛、名内村での生産分を加えたところで、やはり練炭が足りぬと申しておったではないか。その後の段取りはどうなっておる」
御殿様から厳しいお言葉が飛んできた。
「名内村近傍の場所で適切な場所がないか思案中でございます。
名内村に行って、お上が持っている牧が、木炭を作るための材木の供給場所として最適と思いました。ここで木炭を生産し、その木炭を使って大量に練炭を作ることができる、とまでは考えついております。しかし、小金牧などがお上の管理であることを勘案すると、どこから話をつけて良いか考えあぐねている所です」
ぼんやりとそう考えているだけで、詳細を煮詰めている訳ではない。
本来であれば、年末時点での練炭の日産量が七輪の販売量と同じだけないと、先細りになりかねない事態なのだ。
萬屋・本宅でゆったりと過ごしている時ではなかったのだ。
「うむ、そうであれば、佐倉藩11万石の堀田正順様を頼ってみてはどうかな。
それから、牧のことであれば、御林奉行の田嶋清三郎殿に話をしてみるか」
これは、大名・旗本相手にいろいろと交渉せねばならない。
堀田相模守正順様は、堀田家佐倉藩の2代目藩主で、先代は御老中首座まで務められた堀田正亮様だ。
確か34歳で現在奏者番をなされている。
田沼意知様も奏者番をされているので、甲三郎様から意知様を経由して話を通す経路がある。
もっとも、御殿様は得体の知れない経路を知っておられる可能性もあるので、迂闊に話はできない。
そう考え込んでいるうちに、御殿様は何か思いついたのか、ポツンと漏らした。
「牧、材木ということであれば、一層のことワシを御林奉行に加えてくれ、と言ってみるのも手かも知れんなぁ。
義兵衛に乗せられているようで、乗り気はあまりせんのだが、御林奉行からの手代として義兵衛を使うというのもあるか。
500石という身代ではちょっと釣り合わぬゆえ、まだ油漆奉行のほうが良いかとも思っていたのだが、両奉行の見習いといった風で勘定方の一角に入り込むのも面白いかも知れぬ」
義兵衛は少し混乱したが、御殿様の狙いに気づいて感激した。
『そうか、御殿様はどうせ御役を頂くのであれば、今行っている事業をやりやすくするための役職を望んでみては、とまでお考えなのか。
御林奉行であれば、木材の運搬や薪炭の手当てが担当になっており、援護がしやすい。
油漆奉行は、油に限ってみれば、灯明用の油を城内に切れ目なくきちんと配分するのが職務なのだ。そうすると、暖をとるための器具や燃料の手配・配布もお役目の範疇となるに違いない。
そして、御奉行様の配慮で一旦城内に七輪が配備されてしまうと、燃料の練炭は大量に発生することは当然なのだ。
特に、大奥で練炭不足が問題となるのは明確だろう。
そこまで読みきって、練炭の増産を強いているに違いない。
「練炭の生産については、事情を甲三郎様に相談し、大和守(田沼意知)様から堀田相模守様にお話を聞いて頂ける方を紹介して貰うように働きかけしてはどうか、と考えております」
御殿様は義兵衛の案を聞き、しばらく間を置いてから安兵衛さんに向かい話を切り出した。
「安兵衛殿、今までの練炭生産に関する経緯は北町奉行・曲淵様へ報告しておろう。
ならば、このまま年末になると練炭不足で大変なことになるやも知れぬ。特に城中の女人達が騒ぐこと必須、と曲淵様経由で御老中・田沼様へ伝えてもらいたい。そして、この苦境を脱するには、今直ぐにでも佐倉藩主・堀田様の協力が必要なこと、この義兵衛が担当に仔細を伝え、製造方法も伝授することができることも伝えて頂きたい。御老中様からの紹介であれば、表猿楽町(現:千代田区神田神保町)の上屋敷へワシが参上致すことも易かろう」
同じ奏者番から話を聞くのと、御老中から示唆されるのとでは、受け取る側の意識が大きく違うことは想像に難くない。
おまけに、予め想定される来春前の練炭不足の危機が、それとなく御老中・田沼様に伝わっている状態となっている。
御殿様の言を聞き、義兵衛は己の考慮不足を再認識した。
「それで、義兵衛。今名内村へ製造方法を伝授している最中であろうが、これが終わり次第佐倉藩へ製造方法を伝授する支度を致せ。
製造移管には助太郎の助言が必要なのであろう。あれから半月経っておる。名内村の様子を見ると同時に、相談して来い。出立は明日で良い。期間は3日やろう。往復で2日、相談で1日じゃ。その間に必要な音頭はとっておいてやる。
相模守(佐倉藩主・堀田正順)様やその配下の者を交えて話し合いするのは、お前が名内村から戻ってからじゃ」
御殿様に抜かりはない。
横に座っている安兵衛さんは、この的確な指示に驚きながらも頷いた。
「越中守(松平定信)様から頂いた申し出のことも、あの日の内に報告はしておりますが、御林奉行と油漆奉行の両方の見習いに就きたいという希望があることも同時に伝えて良いでしょうか」
ぼそっと漏らした内容をそのまま伝えるのには、若干の抵抗があったものと思える。
「独り言を漏らしてしもうたかな。
どうすれば良いかを、あれからずっと考えておったのよ。思わず言ってしまった中身については否定せんが、越中守様が田安家の当主となられ、横車を押し始めたときの緊急避難処置じゃ。
ワシには御三卿の家老は務まらぬ。そのため、最終的には越中守様の側用人程度で収めてくれれば良いが、その前1年間位はこういった役職について、冷めるまで時間稼ぎをするしかなかろうと思っておった。
なので、しばらくは伏せておいて頂きたい」
「では、その件は抜きにして報告致します」
おそらく、相模守様への伝言は直ぐ御老中まで届き、明日以降の登城日には本人へ伝えられることに間違いない。
そこから、江戸屋敷に居る中から相応しい者を立てて、御殿様と一緒に義兵衛が訪問するのが、今から4日後。
この時代においては正しく最短日程を見越している御殿様に、あらためて深く頭を下げた。
御殿様との話が終わると、義兵衛は萬屋へ向った。
勿論、佐倉藩へ練炭の委託生産をすることについて、薪炭問屋の中で了解を得るためである。
「これは義兵衛様、今日は本宅に直行せずともようございませんか」
大番頭の忠吉さんではなく、主人の千次郎さんがいた。
仕出し膳の寄り合いの件を説明しようとした千次郎さんを押し留め、義兵衛は先ほど御殿様とした話の一部を伝えた。
「このような訳で、佐倉藩に練炭の委託生産をする方向で話が進んでおります。
佐倉に有望な木炭があると見つけ、唾を付けたのは、確か奈良屋重太郎さんですよね。
お手数ですが、佐倉藩の藩主を通して話をする格好になること、木炭の生産量は上がるだろうが、結構な量が練炭作りに使われるようになること、練炭作りで木炭が消費されると、佐倉藩内での木炭価格は高くなる可能性が大きいこと。
こういったことなど、事前にお知らせしておくほうが良いと思うのです。伝言になると上手く伝えるのは難しいので、あまり使いたくはないのですが、実はあまり時間がないのです。私に代わって説明だけしておいてください。
私は御殿様の指示で、明日からまた名内村行きです。なので、申し訳ないでのすが、仕出し膳の座のことは全面的にお任せするしかありません」
一応『これで最低限必要な事前処置はとれた』と安堵したものの、宮仕えの身である義兵衛は、昨日までの癒しの日々が続くことを静かに諦めたのだった。




