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急いては事を仕損じる <C2371>

 ■安永7年(1778年)7月9日(太陽暦8月1日) 憑依150日目


 御屋敷の中は、傍目にも判るほどざわついている。

 明日の婚約・結納の式を前に普段とは違う空気が流れているのだ。

 たかが一介の家臣の養子が、商家の娘を娶る約束をするだけのことであるのに、この様子というのは明らかにおかしい。


「気に病むほどではありませんよ。義兵衛さんの動向が椿井家の浮沈に直結しているのです。

 持参金は私の言った通りでしょう。御殿様と紳一郎様は、それぞれ25両(250万円)が無償で手に入り、おまけに宴会の酒・肴は料理番付の大関・料亭坂本が仕切ってもらえるのです。お目出度いことなので、どなたも苦情を言うはずもなく、皆おこぼれに与っているのです。浮かれて当然でしょう」


 今でこそ25両が大金とは思えなくなっているが、つい半年前だと村の年貢米の半分以上の価値なのだ。

 ピカピカの小判5枚に大興奮していた富塚村の川上親子、名内村の秋谷さんの表情が浮かぶ。

 宴会会場となるのは、御屋敷に併設して建てられている細江家の座敷であり、家臣総出で家の掃除を行っており、みるみる磨かれていく。

 御屋敷と家臣の住む長屋の間に建つ細江家の家は、いつも常駐する10名ほどの家臣が暮らす中心的な役目をしており、ここでまとめて食事をしたりする風になっており、いわば集会所・食堂と化していた場所なのだから、協力してことに当たるのは当然なのだ。

 もちろん、明日の式には同席しないが、皆にもそれ相応の振る舞いがあるので張り切っているのだ。

 椿井家が里を重視・主体とする方針が出されており、家臣達の実家は里のお館周囲にあって、江戸の御屋敷に務めるのは単身赴任に近い格好となっているため、こういった世話は細江家の奥様が仕切っているのである。

 もちろん、御殿様も細江家も江戸での奉公人を何人も雇い、それで普段の家のことを回しているのは当然のことであるが、御殿様のかかわる行事には全家臣が一丸となってあたるのが普通なのだ。

 一時は家族揃って赴任する者もいたのだが、何事にも倹約の風が身に付いており、里に居るのを好む家族が増えてしまい、ここに家族で居るのは御殿様の所と細江一家だけで、後は単身赴任なのだ。


 さて、今日は式前日ということもあり、萬屋さんに伺う訳にもいかず、当事者であるが故に何もすることがないため長屋でのんびりと過ごしていると、昼過ぎに里からの連絡便・行列が着いた。

 一行の中に、実父・百太郎が居た。


「義兵衛、嫁取りの結納と言うことで、御殿様より『百太郎だけは参列せよ』とのお言葉がありこちらへ参った。

 最初は誰の結納のことか、少しも判らんかったが、お前のことと判って皆大層驚いたぞ。お相手が、いつも付き合っている薪炭問屋の娘と聞いて合点はいったが、道行きで寄った登戸村の炭屋の番頭さんは驚愕の表情をしておった。『あの義兵衛さんが若旦那様になられるのか』と言っておったが、婿に迎えるのではなく嫁に出すほうと聞いて『これはお婆様の深謀遠慮かな』などと溢しておった。

 いずれにせよ、このことは皆初耳で、村では大騒ぎになっておる。工房は助太郎が居らぬが、江戸の事情を少しでも知っておる米さんが仕切ってくれたおかげで、幸いにも練炭生産への影響は抑えられておる。

 それにしても、どういった経緯なのか教えてくれんか」


 義兵衛はことの顛末をどこから説明して良いか迷っているうちに、安兵衛さんが口を出した。


「当事者の義兵衛さんも驚くような展開でした。まだ義兵衛さん自身もピンときていないと思いますので、私から説明させてください。

 そもそも秋から売り出す七輪・練炭を沢山準備しようとしていたのですが、この資金としての現金が手元になかったことに端を発します。10日ほど前のことになりますが、七輪の原料となる土を購入するのに約400両(4000万円)が必要になり、この工面をするため萬屋さんに頼ったところ、縁続きになることを条件に必要な現金を提供してもらえることになりました。

 それで萬屋の華さんがお相手です。ただ、まだ華さんは8歳ですし、義兵衛さんが今事業を軌道に乗せることに必死の状況ですから、今は婚約に留め結納だけ交わしておくということで折り合いをつけたというのが実情です。

 萬屋さんは御殿様にこのことを事前に申し入れていたようで、昼過ぎに借財のお願いをしてから、この婚約の儀をすると決まったのはその日の夕方と、流石の義兵衛さんも唖然とする速さでした」


「要は400両の借金に嫁がついてきた、という訳か。嫁が借財の目付では、これはたまらぬのぉ。それで、萬屋さんも大きな賭けをしたものよ。ゆくゆくは店に取り込んで、登戸の番頭にでもしようという腹積りやもしれぬな。村としては、それはそれで嬉しいのだがな。しかし、そのようなことになると、肝心の義兵衛に呆けられてしまい、あてが外れてしまうであろう。

 まあ、今回の件は御殿様も上手い立ち位置になって、御満悦なのも判る」


 実父が言う恐ろしい未来予想に、義兵衛の頭の中には登戸村の中田さんになった自分の姿を思い描いてブルっと体を震わせた。


「それにしても、長男の兄貴より先に嫁取りを確定させるなんて、孝太郎(兄)には何と言ってよいのやら。細山村の白井さん家の長男・喜之助さんもまだ独り身なので、これはまた嫉妬されるのだろうな。実際の婚姻はまだ先と聞いているので、先を越された訳ではないが、この騒動で本人より廻りがあせらされておるわい」


 里での騒動振りが良く判る話だった。

 夕方になると、料亭・坂本の主人と女将が御屋敷に来て、御殿様と紳一郎様に挨拶され、宴を行う会場の下見をしていく。

 実のところ、式自体は御殿様の面前で、向って右側に細江家一同+百太郎、左側に萬屋一同が並び、それぞれの目録を交換するだけのことなのだが、その後から家臣一同を交えた宴会となるのだ。

 実際には、まだ子供に類する義兵衛や華さんは、おそらく若君と一緒に別間で遊んでいるしかないようだ。

 安兵衛さんも付き合ってもらうしかない。


 ■安永7年(1778年)7月10日(太陽暦8月2日) 憑依151日目


 日差しの強い暑い日、萬屋さんから主人の千次郎さん、お婆様、奥様、華さん、大番頭の忠吉さんが御屋敷へやってきて、結納式が行われた。

 着飾った華さんは、雛人形のように可愛く、そして想像以上に美しかった。

 式は想定通りの進行となったが、その後行われた宴会で出された料亭・坂本の仕出し膳は逸品であり、普段食したことがない家臣達はその絶妙な味と上等な酒に大変満足していた様子だった。


「これで晴れて縁者となりましたことを、わたくしは随分うれしゅうございます。

 持参金を除いたあのお金は、義兵衛様が自由にお使いくだされ」


 お婆様は帰り際にそう話したが、実の所こうなった背景の山口屋さんからの要求については、辰二郎さんの所の栄吉さんの働きで繰り延べ状態となっていて、場合によってはもう使わなくても済んでしまいそうなのだ。

『急いては事を仕損じる』

 仕損じた訳ではないが、順序をきちんと踏んでいれば、ここまで急な縁談話にならずに済んだのに、と思うと内心忸怩たるものがある。

 いや、決して華さんを婚約者とするのを嫌がっている訳ではなく、自分の立場としてはむしろ好都合なだけなのだが、お婆様の策にまんまと嵌められた、というのがなんとなく悔しいのだ。

 皆からの祝福を受けても、もうひとつ気が晴れない。

 そして、義兵衛を見る華さんの目が、なんとなく冷ややかなのも気にはなるのだった。

 可愛らしいが凛として姿勢良く座り、余計なことは口にせず、それでいて言うべきことは自分の意見としてきちんと言う。

 とても8歳とは思えない態度には毎度驚かされる。

 将来、いくら未来の知識があってもこいつの亭主として操作される立場しか思い浮かばないのだ。

 それはそれでいいのだろうが、一体どうなんだろう。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 義兵衛さん、華さんとの初対面の挨拶でそれなりにいじわるな事をしましたからね…。華さんが冷ややかな視線を向けるのは仕方ないでしょう。 [一言] 義兵衛さんは旗本の陪臣ですから、「家老」や「家…
[一言] 時として、 人生二度目だろ? て、子供もおりますし…… キレッキレの頭の持ち主が、環境にてその才を発揮することも そう考えれば幼くとも才あるは有るでしょう
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