富塚村の川上右仲さん <C2364>
名内村から富塚村まで1里の道のりだが、係争地の森の横を抜け開拓村を通り、見覚えのある鮮魚街道を通る。
まだ太陽が沈むには充分時間のある内に富塚村へ着くと、名主の川上家を訪ね、門前から中に向かい呼びかけた。
「名内村の秋谷です。お願いがあって参りました」
武家とは違い、百姓家の門は始終開いているため声が通る。
本宅の玄関から中老と思われる人が現れると、これが名主・川上右衛門さんであった。
「名内村の修吾さんが直々に御出でとは、これまた大仰なことですな。
名内村では御殿様の声掛りで、なにやら新しいことを始めるとか。昼過ぎに『修吾さんが江戸からなにやら大勢の客人を連れて、本家・分家の若衆が通った』と小童共が騒いでおった。
それで、さっそくこちらに来られたというのは、なにかお困り事ですかな。そういえば、若い御武家様のお客人を2人お連れのようで。まだ御挨拶もしておりませなんだ。とんだ失礼をば致しました。
私は、この富塚村で名主をしております右衛門と申します。門の所で立ち話も何ですから、狭い家ですがお上がりください」
3人は右衛門に案内されて縁側のある座敷に通された。
向かいあってから、義兵衛と安兵衛さんは名乗り、要件を話し始めた。
「旗本・杉原様の知行地である名内村で、木炭加工による殖産興業を御殿様より申し付かっております。
それで、我が里・武蔵国・橘樹郡・金程村の工房より職人を送りこんで体制を整えようとしておりましたが、肝心の木炭が準備できておらず困っております。
名主の秋谷様に、いかほどの価格であれば木炭を入手できるか問いましたが『村の外へ売ったこともないため良く判らない』とのことで、このあたりのことを知っている方として川上様を紹介して頂いた次第です。
これはお土産として、このような物を作ろうとしている見本として持参しました」
義兵衛は七輪一個と普通練炭一個を手渡し、用途を説明した。
「ほう、木炭を加工してこのような形のものを作るのか。手をかける割りには、効能はあまり大したものではなさそうじゃな。何も加工せずとも、木炭をくべて暖を取るほうが良いようにも思える。専用の道具である七輪も、これでは囲炉裏のほうが勝手が良かろう。
まあ、御殿様の命とあっては従わぬ訳にもいかぬのじゃろう。
それで、ここで木炭を売っているのは、ワシではなく息子の右仲じゃ。そち達と似たような歳廻りではあるが、面白いことをいろいろと試しては小銭を稼いでおる。聞きたいことは、息子が知っておるので引き合わせよう」
奥へ引き込むと、間もなく若者を伴って座敷へ戻って来、席に着くと丁寧に挨拶をしてきた。
以降は、右仲さんと義兵衛が話し込むことになった。
「右仲と申します。富塚村は僅か130石の村で、しかも代官も含めて3箇所の相給となっておるため、年貢には毎年苦労しております。幸いなことに、中野牧と接しているため、そこでの御用を務めることでどうにか村を維持しているというのが現状です。
そこで、何か売れるものはないかと見ましたところ、牧の整備をする過程で切り出される間伐材や枝などが使えそうと考えたのが始まりです。ただ、薪では嵩の割りには実入りが少なく、いや、労賃を考えると人足以下でした。
その結果、薪ではなく木炭にする、ということに辿りついたのですよ」
そこで、義兵衛はこの近辺で購入できる木炭のこと、特に値段について尋ねた。
「ここいらでは、木炭4貫(15kg)を俵に詰めて売る単位としています。4俵(60kg)を担いで、いろいろな店に売りにも行きました。
江戸市中では1俵300文(7500円)前後で引き取ってもらえましたが、出来の悪いものだと200文(5000円)に買い叩かれもしました。江戸までの日帰りは難しいので、そう何度も行った訳ではないのですが、延べ2日で1000文の売り上げならそう悪くはない、と思っていました。しかし、一人で運ぶ手間やらなにやらを考えると、何をしているのか判らないのです。
近くの木下街道沿いの白井宿への売りに行きましたが、こちらは出来の良いものでも1俵150文でしか引き取ってもらえません。結局は、自分の使う分は自分で作るということでしょうね。
ならば、と考えているのが、大量に作って江戸へ持ち込むという策です。引き馬に乗せ、自分が引いて、かつ自分も背負えば12俵(180kg)位は運べましょう。小さい野焼きですが、丁度炭焼き1回分ですよ。それで、江戸で卸せばだいたい3000文になりましょう。炭の出来さえよければ、1回の炭焼きをして全部売って1両位になるかも知れないのです。
今は木炭が高く売れる時期ではないですが、この冬はこの手で行こうと思って、木炭の材料となる木や枝を伐採しては乾燥させているところです。また、炭を焼く燃料の薪や枯れ草もそれなりに蓄えかけているのです」
義兵衛はあまりにも都合の良い話に唖然としたが、これはある意味絶好の機会なのだ。
「それでは、その木炭をこちらへ、まず100俵(400貫、1500kg)作って売ってくれませんか。価格はそうですね、1俵200文ということで、即金で買い取ります。
しかも前金として現金を小判で今お渡ししましょう。全部で5両(50万円)、ここにあります。
私の申し出に応じると今約束して頂ければ、そのままお持ちください。
それから、100俵は木炭が出来次第、順次名内村へ運んでください。御殿様の命に従うためには、背に腹は代えられないのです」
こう言い切ると、義兵衛は懐の財布からピカピカの小判を5枚取り出し懐紙の上に載せ、川上右衛門さんと右仲さんの間に差し出した。
義兵衛が出した小判を見て、川上親子だけでなく秋谷さんも口をあんぐりと開け、手も出さずに懐紙の上の小判を見つめている。
しばらくすると呪縛が解けたようで、右仲さんがうなり声を出した。
「うむ~。1度に5枚もの小判をこのように近くで見るのは初めてだ。
それで、義兵衛様からの申し出をそのまま受ければ、これを丸ごと今頂けるのですか」
「そうです。ここで駄目なら、木炭を買えそうなところを紹介してもらって、そこをあたることになります。ただ、仲介が入ると、必ず上前を撥ねる者が出ます。労せずして口利きだけで儲けさせる訳にはいきません。
私としては、創意工夫を重ねている川上さんの所と取引をしたいのです。
それから、木炭の買い取りはこの100俵で終わりではなく、しばらく続きます。前金で払うという訳にはいかぬでしょうが、引き続き木炭を掛売りしてもらいたい、と思っております」
話をしていた右仲さんではなく、名主・川上右衛門さんが応えた。
「その話、謹んでお受けします。喜んでお役に立ちましょう。
右仲、それで良いな。お前の道楽も大した収入になるわい。これは見違えたかな。
早速明日から木炭100俵を作って名内村へ運べ。
今、作り置きしている木炭を納屋のどこかに積んであっただろう。それも、ありったけ運んでしまえ」
小判の力は大したもので、富塚村の名主・川上右衛門さんをすっかり取り込んでしまったのだった。
お礼を言い、3人は川上右衛門さんの屋敷を辞したのだった。
さあ、これで最初の練炭1000個分の原料の確保はできた。
そして、これから村に戻ってから生産計画・見込みの精査を数日かけて助太郎とせねばならないのだった。
冨塚村の名主・川上右仲さん登場です。史実では、この少し後の時代の寛政年間に近辺の小金牧の御林の管理を任され、これを木炭にして出荷することを始めた偉人です。この小説では、炭焼きを相模の職人からではなく、細山村の樵から学び、天明年間に卸すことを始めるという設定にしています。佐倉炭は結構有名になりますが、その始まりはこの冨塚村の川上右仲さんということのようです。
なお、小説では村の名前を富塚と表記を変えています。




