名内村へ <C2347>
■安永7年(1778年)6月24日(太陽暦7月18日) 憑依136日目
日の出直前に、紳一郎様に見送られて一行は門を出た。
しかし、その門前につながる30間(約50m)の小道を急いでくる安兵衛さんに出会い、一行はその場で止った。
「これは出遅れました。お忙しい所でございますが、荷を振り分けましょう。
列も直しましょう。杉原様の御屋敷の場所は私が一番存じております」
米さんと弥生さんの荷から重いものをさっさと引き取ると、義兵衛の後ろ、弥生さんとの間に入り、ゆるい2列5段となった。
先頭に百太郎・義兵衛、それから、安兵衛、米・弥生、助太郎・近蔵、佐助となった。
列は進むうちに5段の構成がずれ4段に変わり、百太郎・義兵衛、米・安兵衛、助太郎・弥生、佐助・近蔵と並んで歩くように変わった。
「荷を持って頂きありがとうございます。あんなに重い物を持って1日中歩くと思うと、心配になっておりました」
「今日は長丁場ですから、体力勝負です。体力・気力を温存していくこと、できるだけ無理せず同じ調子で歩くことが重要ですね」
小さな声で話すのが背中越しに聞こえてくる。
『なんか、少し強引だが、米さんは上手いことやっておるなぁ。どんな感じなのかを、その内に安兵衛さんに聞いてみようか』
そう考えるうちに3番町の杉原様の屋敷前に到着し、門番に声を掛けると、すでに出立準備を終えた山崎力蔵様と挟箱を持った中間が顔を出した。
「今時分での出立であれば、夕刻までに着くのには充分である。さて道案内致そう」
ここで列の組み換えを行い、前4人を武家、女人2人を挟んで助太郎、近蔵、佐助、百太郎の3段になる。
横4人だが、適宜横2人2段になれるようにして進む。
3番町から千住大橋を通り、水戸街道を松戸に向けて歩む。
てっきり行徳から船橋に出て木下街道を進むと思っていたのだが、違う道を進むとのことだ。
「往来の便が良い木下街道を使わないのはどうしてですか」
義兵衛は山崎様に尋ねた。
「木下街道は昔から利根川から荷を引き上げ陸路で江戸へ物を運ぶ道として使われておった。そのため、宿駅が6箇所も設けられている。江戸から順に、行徳・八幡・鎌ヶ谷・白井・大森・木下である。そして名内村に行くには、白井宿から木下街道を外れて北上するのが一つの順路となっておる。
ただ、この木下街道は香取神宮や鹿島神宮へ続く古くからの参道・街道ゆえに、便利な反面制約が多い。たとえば、馬による荷は宿毎に載せ替えを強要するようなこともある。いわば、関所じゃな。物見遊山の旅人には便利であっても、客引きが多いことなど、これを毎度使う立場の者には華美で過剰なところが目につくのよ。
それで、松戸宿を起点として手賀沼と利根川が交わる布佐へ向かう鮮魚街道を重用しておるのよ。こちらは松戸から布佐まで宿駅もなく、一気に荷を運び込めることから、新鮮なうちに魚を江戸に送り込むためには丁度良いため、最近よく使われるようになった道なのだ」
一行は丁度中間地点である松戸の渡しで江戸川を越え、松戸の宿で早めの昼飯を取る。
この松戸の渡しの直ぐ下流に『矢切の渡し』があると聞いて、頭の中にとある演歌が流れるが、これはご愛嬌。
「この松戸宿で水戸街道から外れ、鮮魚街道に入る。経由するのは金ヶ作・佐津間・藤ヶ谷・冨塚となり、その先で街道を外れて名内村に至る。冨塚から名内までの間は、昔の牧で中と呼ばれ、お上の命で周辺の村の協力を得ながら新田を切り開いておる。開墾が終われば村となるのであろうから、さしずめ中村新田となってお上から代官を差し向けることになるのであろうな。
もともと、このあたりの土地で米作りに適さなんだ場所は、御公儀の牧(軍馬の確保を目的に設けられた牧場)に指定されており、小金牧と呼びならわされておる。もっとも小金牧というのは、ここいら5箇所の牧をまとめて呼ぶ時の名前で、高田台牧・上野牧・中野牧・下野牧・印西牧に分かれておる。名内村は印西牧の北西側になっておる。中野牧とも近いぞ。開発しておる新田は中野牧から切り離された場所ゆえ、中と呼び慣わしておる。
それから、鮮魚街道は金ヶ作・佐津間の間で中野牧のど真ん中を突っ切っておる。牧が今どうなっておるのかは、その折に見れば判るであろう」
これはかなりの予備知識になる。
牧場といえばそれなりの馬が育成されているに違いない。
「この道は馬による運搬が多いのですか」
「そうさ、この街道の基点となっておる利根川沿いの布佐には常時100疋、多いときには150疋も荷を待っておる。それでも不足するときは、近郷からも馬を借り集めるそうじゃ。
ただ、牧は、お上が軍馬を揃えることも少なくなって、荒れ放題の所もある。少し手入れすれば、水田にはならんでも、畑作くらいにはなろうに、勿体無いことよ」
ごちゃごちゃしているが、生情報とは元々このようなもので、後で整理が必要なのだ。
それから、行き先の名内村近辺の状況をいろいろと聞きだすうちに、名内村に入った。
一行は、名内村名主の秋谷修吾様の屋敷に入り、中庭で荷を降ろした。
そして、屋敷の一角に名主の本宅の右隣に並んで建つ代官宅、とは言っても濡れ縁が広い2間からなる東屋のような家だが、に足を洗ってから上がりこみ、一息ついていた。
代官・山崎様の中間は名主本宅に向かい、到着後の話をしているようで、間もなく戻ってきた。
「まずは皆様、当面この役宅を皆様の寝所とするとのことでござる。一服した後に、名主宅で挨拶を兼ねて歓迎の会を行う。まだ準備中とのことで、半刻(1時間)ほどあるゆえ、ここでゆるりとされるも良し、近辺を散策されるのも良かろう。隣にある寺は、名主・秋谷家が筆頭檀家となっておる東光院観音寺じゃ。また、少し戻った所に粟嶋神社・少名毘古那神という珍しい神を祭った神社があるぞ。
そこには、潜り抜け鳥居という少々珍しい鳥居がある。『病難苦難を潜り抜けて無病息災』としゃれておるが、見たら驚くこと間違いなしじゃ。明日からは忙しいゆえ、今見ておくのも良かろう」
名所案内をしてくれたが、義兵衛はこの村の地形を自分の目で確かめたいと考えた。
そこで、屋敷を抜け出すと、すかさず安兵衛さんが付いてきた。
「この村の周囲がどうなっているのか、少し周囲を見て廻りたいと考えまして」
言い訳のようにそう話し、村の北側へ向う道を辿った。
道はすぐ下り坂となりいきなり開けると、手賀沼から伸びる水路の近くまで田が広がっていた。
そこまで見取ると取って返し、屋敷前の十字路で今度は東側に折れる。
東側も、西側も直ぐ坂となり、水田の広がる入り江のような場所に出た。
こうした散歩によって、名内村は標高20~30mの下総台地が侵食され、その結果手賀沼に向って突き出された岬のようになっている場所にあること、南側に水の便が悪い台地が後背地となっており、牧につながる土地であるため開拓されずに手付かずの森・林となっていることを足で理解した。
屋敷の代官宅へ戻ると、置いてきぼりを食らった米さんが膨れていたが、歓迎の会が迫っていたので、そのまま名主の本宅へ向った。
それぞれの人の紹介があり、里からの土産である七輪や練炭が披露され、なごやかに宴会が始まる。
金程村・名主家ではできないほどの夕餉を出され、大人供は酒を振舞われていた。
そういった中で、百太郎は名主の秋谷様をつかまえ、この一行の目的を必死に何度も説明し続けていた。
勿論、義兵衛も助太郎もそれぞれ相手を探して説明しようとしたのだが、実の所相手にされなかったのだ。
そのため歓迎の夕餉が終わると、酒を飲む大人達に後を託して、安兵衛さんも含めた義兵衛たちは寝所である代官宅へ引き上げたのだった。
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