武蔵屋への役割説明 <C2344>
2ヶ月後の閏7月20日に、向島・本所・深川といった隅田川から東側地区の料亭84軒を対象とする料理比べ興業を、満願寺の講堂を借りて開催する方向でお寺さんと大筋の話がついた。
若干の条件はあるが、講堂の賃料は幸龍寺と同じ、つまり40両の支払いはあるものの同金額は興業に対する寄進という格好で相殺することになった。
大枠の了承が得られれば、あとは細かな所を担当となった喜六郎様と詰めていけば良い。
「焜炉供養祭りの企画や、料理比べ興業の企画など、目新しい話を持ち込んで頂きありがとうございます。
満願寺や秋葉神社が賑わうというのは、大変嬉しいことです。春の桜や秋の紅葉といった折には人出も多く賑わうのですが、夏場や何も行事がない時期は結構閑散としていたのですよ。ここいら一帯は寺も多く、檀家や氏子も少ないので、寂れ始めると屋台が一気に傾きます。なので、実のところ川向こうの幸龍寺の賑わいは垂涎の的でした。
今後とも、いろいろとお知恵を借りたいと思っておりますので、よろしく御願いしますよ」
お互いに礼をして、これで話は終わったと思った。
「これで、後はおいおい打ち合わせして行けばよいと思います。
ところで義兵衛さん。一昨日に深川の辰二郎さんが来られて、7月生産の七輪に押す押印分の寄進・25両(250万円)を持ってこられました。その時『義兵衛さんがとても忙しくてなかなか来てくれない』とぼやいていましたよ。今の時期に現金収入は大変ありがたいので、受け取りましたが、そのお金は辰二郎さんが立て替えていたようです。
こちらから申し出るのも何ですが、押印分の寄進は、もう後払いでもようございますよ。所詮辰二郎さんが持参してきた御印にお祓いするだけですから、特段の手間がかかる訳ではございません。辰二郎さんは至って真面目に仕事される職人さんですから、御賽銭してお祈りして、という順が外せないようです。なので、あらかじめ義兵衛さんから年内分の寄進は頂いている、と説明しても良いですよ。後8万個分ですから、年末に200両(2000万円)を一括して納めて頂ければ良いのです。いえ、寄進ですから利子は取りませんよ」
確かに七輪を継続して作っているなら、今はもう7月出荷分の仕込みに入る時期だ。
立て替えた25両は無理して捻出した可能性もある。
この分だと、土の代金も無理しているかもしれない。
ただ、今の義兵衛には先立つものがないのだ。
「ご提案、ありがとうございます。そのようにして頂ければ大変助かります」
これで必要な話は終わらせることが出来、後は事務方の千次郎さんと善四郎さんに丸投げしてよさそうだ。
満願寺を出ると、その真向かいにある武蔵屋にそのまま入り、主人と女将さんを呼んだ。
「これは、善四郎さん。わざわざお越し頂きありがとうございます。千次郎さんや義兵衛様もおられるということであれば、仕出し膳の座のことでございますな。さあさあ、奥の座敷へお上がりください」
女将さんの案内で一番上等な奥座敷へ向かい、主人も同席した。
「先日は料理比べの興業、誠に盛況で成功おめでとうございます。御老中様が直々にお越しになるとは、興業の格は本邦随一でございましょう。それで、本日はこの武蔵屋にどういった御用件でございましょう」
善四郎さんは、料理番付を本部・地区構成にすること、向島・本所・深川の現在84料亭で一括りにすること、地区のとりまとめを武蔵屋にしてもらいたいこと、地区で行う興業に大関・武蔵屋が勧進元として加わって欲しいことを説明した。
女将は感激して賛同の意を示した。
「要件は判りました。仕出し膳の座の発展のために、この武蔵屋が微力ながら務めさせて頂きます。
それで、一体何をすれば良いのでしょうか」
千次郎さんは、28日の膳の総会で賛同の意を示してもらいたいこと、なるべく早い内に地区84軒の料理番付を完成させるため善四郎さんを手伝ってもらいたいことを説明した。
「判りましたが、番付としてはひっかかるところがあります。
地区の勧進元が大関というのは結構難しい立場ですよ。八百膳のように、どこから見ても一流、並ぶものなしであれば文句なしでしょうが、武蔵屋は最近流行っているとは言え、元はみんな義兵衛さんから教わった料理です。無理やり教えてもらった『どじょう鍋』で当たりをとっただけの店で、それもたまたま萬屋さんに贔屓にしてもらっていた、という偶然の成せる業でしょう。実力があって大関と言う訳ではないのは、裏を知っている者からすれば当然。玉子綴じした柳川鍋も準備はできておりますが、板前はいつ恥を掻くかと怯えておる次第です」
ここの主人は到って正直者で、思うことを述べたのだが、女将は少し違って経営者だった。
「私は今の大関のままでかまいませんよ。興業につながるお役目も果たさせてください。
料理屋はいわば人気商売。費用に見合う満足を客が感じれば良いのです。
もちろん、味が良いのに越したことはありません。でも、料理の味にだけ依るという必要はないのです。番付で大関という地位にある料亭の料理を賞味した、ということで喜んで対価を払い、それで満足して頂ければ良いではないですか。それを求めて行列ができるのです。
同じ大関になっている京橋・坂本さんも、きっと同じ気持ちですよ」
これはこれで立派な意見だ。
「それで、少々伺いたいことがあります。
料理比べで坂本さんが出していた胡麻タレですが、それに足していたあのピリッと辛い赤い調味料は一体何ですか。
浮島・百川に辛勝して大泣きしていた女将さんが『萬屋さんには感謝しても仕切れません』と小声で言っていましたが、それが何なのかまでは教えてくれなかったのです。
ただ、察するに『胡麻タレ』同様に、赤い調味料を教えたなんてことはないですよね。もしそうなら、なんで坂本ばかりを贔屓になさるのです。」
女将さんは義兵衛をギロリと睨んできた。
あの場にいた善四郎さんがとりなすように事情を説明した。
「百川との勝負ということが判って、『このままでは勝負にならない』と坂本の女将が泣きついてきたのです。『このままでは勝負を放棄する』という覚悟もあったのでしょう。しかし、取り組みを無くす訳にもいかない、という事情もあり、あの赤い調味料のことを教えたのです。もちろん結構な対価は頂きました」
女将は主人に勝ち誇った声で言う。
「ほらごらんなさい。大関という地位を与えたのは善四郎さんで、それを守るための算段もきちんとされておるでしょう。料理比べで勝つために、勝たせるために、大関という地位を守らせるために、裏では動いているのです。武蔵屋が『どじょう鍋』を始めたのも同じです。きっかけは頂きました。それを商売にするのが料亭であり、板前の腕を生かすも殺すも主人と女将の腕です。
『大関の味ではない』とあきらめるのではなく、全力を尽くして大関の地位を守るのです。
ここは武蔵屋が更に発展する良い機会なので、仕出し膳の座の期待に応えなくてはなりません」
これまた真っ当な意見である。
「それで、義兵衛さん。この話を持ち込む武蔵屋には、何かそれなりのお土産はないのですか」
坂本の話が出た時から何かあると思っていたが、やはり唯では済まないようだ。
惜しむらくは、千次郎さんにも商売をする上でこの粘りが欲しい。




