興業の事務方内の諍い <C2340>
午前中は、名内村の領主・杉原新右衛門様のお屋敷を訪問し、練炭の生産を委託することの話をしてきた。
但し、説明の大半は紳一郎様が行い、義兵衛は木炭加工の責任者で村に出向く者という紹介をされている。
代官の山崎様に案内されて向かうことになるのだが、今日の手紙に即応できたとして、早くても明日夕方に村から実父・百太郎と助太郎が到着するはずなので、実際に名内村に向けて出発できるようになるのは、明後日の24日になるに違いない。
義兵衛達がお屋敷に戻ると、萬屋さんからの使いが待っており『料理比べの件で至急萬屋へ来て貰いたい』とのことであった。
義兵衛は屋敷の門の所で使いの丁稚から話を聞き、紳一郎様と別れて萬屋の使いと一緒に足早に向った。
「それにしても義兵衛さんと一緒に居るだけで、普通ではないことが次々と起きます。
一介の陪臣である私が、あの御老中様へ直に意見を申し上げることが出来て、しかも褒められたのですよ。もっとも、義兵衛さん自身に起きていることからするとささやかなものでしょうけどね。
それで、椿井家の方々が退席された後、煉瓦の件でさんざん絞られましたよ。御殿様が仰るには『鉄の話で義兵衛が口ごもったであろう。そして農具に多く使われると言っておったが、当然別なことを考え、それを誤魔化したに違いない』と言われるのです。あの時、私は一番遠い場所に座っていたので直接その状況を見ていないのですが、『鉄』と言えば当然武具ですよね」
「いや、今朝も御殿様からお叱りを受けています。道々する話でもないので、また別途ということにしてもらえませんか」
確かに鉄を溶かす反射炉の材料としての耐火煉瓦を思い浮かべ、その鉄で大砲が作れると考えたのは確かだが、実際にどうするかはまた別のことだ。
銑鉄を作り出す高炉や、取り出した鉄からどのように大砲を作るのかの知識は、流石に持っていない。
原始的な蒸気機関なら、どこかの雑誌で見た知識はあるが、イメージを提供してもそこから実物を作り出すのは別な人だと思う。
今言い出せば、かの有名なジェームズ・ワットと時期的にはいい勝負なのだろうが、熱源としての石炭がどうなっているのかが鍵だろう。
石炭がないうちに蒸気機関で産業革命を起こすと、禿山だらけになって国土が荒廃するに違いない。
こんな考えが出て来ることは、まずは御殿様に話をしてからでないと、また叱られてしまう。
上の空で歩くうちに、萬屋さんの店の近くに来ると、使いの者が裏口から入るように促した。
「御武家様にこのようなことを言うのは失礼と存じますが、店の通用口からこっそり入って頂ければ助かります。
店の正面の入口は、昨日から結構な騒ぎとなっていて、余計な混乱は避けたいのです」
よくは判らないが、確かに日本橋通りから具足町に入るあたり、人の流れがいつものようではない。
使いの者の言に従い、裏口から店の奥へ入った。
「これは、義兵衛様。お待ちしておりました。今後の興業の方向について、話がまとまらず困っていたところなのです」
善四郎さんの声に座敷の中を見ると、瓦版屋の版元さんが真っ赤な顔をして真ん中で立っている。
それを、千次郎さんと幸龍寺の御坊様が見て茫然としている。
とりあえず版元さんには座って貰い、千次郎さんから経緯を聞いた。
「今日売り出す興業の結果を知らせる瓦版の下刷りを、事務方が手分けして関係者へ御礼方々昨夕の内に回ったのです。ああ、御武家様は面会できない方が多く、御家中の方に事前に手渡ししたということなのですがね。
それでも商家の方からは『次回はどうなるのか』という意見が多く寄せられたのです。とりあえず結果の速報ということで、今日売り出すことについては特に異論がなかったのですが……」
千次郎さんがここまで話すと、一旦元の顔色に戻っていた版元さんの顔がまた真っ赤に変わり吼えるように話を継いだ。
「何も決まっておらんではないですか。今丁度盛り上がっている料理比べ興業、次回の興業に合わせて何かしようと考えておるものばかりですぞ。御老中様が直々にお出ましになる興業に、どれだけ江戸中の注目が集まっているか、こちらの面々はご存知ない。判っているのですか。御老中様だけでなく、寺社奉行様もお二人、町奉行様に至っては南北揃い踏みですぞ。役職でなくても、御大名の御殿様が4人も直接お出ましになる行事など、本邦始まって以来のことでございます。
知っていれば、のんびりと茶など飲んでおられぬはず。さあ、どんな段取りで次回の興業を進めるのか、行司はどうなるのか、目付はどうするのか、いつ開くのか、こういった基本的な枠組みを決めてくだされ。善四郎さん、勧進元のつもりが判らねば、今日は引き下がれませんぞ」
「いや、版元さんの意見も良くは判っておる。だからこそ、こうやってここに集まっているのだ。我々だけでは決められぬこともあろうと思い、わざわざ義兵衛様にも来て頂いた。さあ落ち着いて話をしようではないか」
結局のところは、次に発行する瓦版で肝心の中身が決まっていないところが問題のようだ。
「版元さん。『次回の瓦版で、次の興業の予告をしたい』ということですね。それで、その中身が全然見えていないことを指摘されているということで宜しいでしょうか」
義兵衛があえてゆっくりはっきりと指摘した。
「そうなんですよ。店の前を見ましたか。興業勧進元の善四郎さん、幸龍寺の御坊様、それに版元の私が、興業事務方の萬屋さんの中に入っていくのを見たら、そりゃ何事かと様子を窺う者が集まりますよ。関心時はただ一つ、今回の結果はもう知れておりますので、次回はどうなるかです。皆、知りたがっていることでしょう。それをまだ何も決まっていないとは。
例の店の宣伝の枠ですが『次の瓦版には入れてくれ』という要望が殺到していますよ。盛り上がっている今なら、どれだけ刷っても売り切る自信はありますよ」
「評判になっているということでは、間違いない。仕出し膳の座へ加わらせてもらいたいという料亭からの要望が、昨日は引っ切り無しに八百膳に来ておった。主人が直接出向いてきた最初の2軒目までは、きちんと話をしておったが、その後はあまりにも来る人が多くて、もう何もできんかった。そこで、商売に差しさわりがあるから、と言って折角来た皆には帰ってもらった。
そこから後は、次回興業の行司席や目付席の問合せばかりで、今から譲れ・売れの大騒ぎになっている。
だが、版元さんが息巻くのも判るが、今はまずこの興業の後で起きている騒動を抑えるほうが先決ではないですかな」
版元さんの意見も、善四郎さんの言うことも判る。
「まず、仕出し膳の座へ加わりたい料亭についての扱いが先でしょう。先日の興業以前に申し込みがあった料亭の受付は終わっているものとして、こうしたらどうでしょうか」
義兵衛は、20日までに受け付けた料亭を含め、今回の興業結果と次回興業の提案についての報告会をすることを提案した。
そして、それに続いて座に新規参加希望の料亭に対してまとめての説明会を行い、そこで入会を受け付けるようにすれば、個々の対応はそこまでする必要が無くなること、そして、そのためには、報告会の日程を決めることと、報告会までに次回興業の予定案を決めることが必要と話した。
「そうすれば、一応折り合いがつくのではないでしょうか。幸龍寺の客殿で一番近くの日で半日程都合がつく日を教えてもらえれば、それを通知すれば良いのです。
あと、料亭の主人達が集合する場ですので、別棟へ各自の膳料理を持ち込んでもらい、他料亭の味を知ってもらう交流会を幸龍寺主催で開催するというのはどうでしょう。その場でそれぞれの主人に投票してもらい、番付の参考にするとか面白いと思います。そうすると、善四郎さんがこっそり出歩かなくてもかなりの下調べが一気にできますよ」
前半の説明に善四郎さんは納得し、後半の企画に幸龍寺の御坊様は身を乗り出した。
版元さんも、これは瓦版の記事になりそうだとばかりに矢立を取り出した。
そして隣に座っている安兵衛さんが、苦笑いしているのが判った。




