第二回興業前日 <C2327>
■安永7年(1778年)6月19日(太陽暦7月13日) 憑依131日目
いつものように萬屋さんに寝泊まりさせてもらった義兵衛は、奥の小部屋で丁稚姿に変わり、久々振りの越中守様(松平定信様)のお屋敷への御用聞きへ出かけた。
ただ普段と違うのは、このところ影のように一緒にいた安兵衛さんが不在なのだ。
用心棒のように常に一緒にいたため、一人で動き回ることになにか不思議と新鮮な感じを覚えた。
門番の所で声をかけ「特に御用はない」という返事を待っていたら、番小屋に通された。
「昨夕の伝言はしかと伝えておる。その折、殿から『直々に話がしたい』との声掛かりがあり、この御用聞きの時にそちを捕まえることとした。いつも決まった時刻であるゆえ、こちらも何かと都合が良い。さあ、用意した服に着替えて目通り致せ」
窓口になっている留守居役代理の宮久保様が直々に対応して下さる。
本当にたまたま寝泊まりしたから御用聞きに来たが、もし不在で萬屋さんの丁稚が来ていたらと肝を冷やした。
おおきな屋敷の中に案内され座敷でしばらく待っていると越中守様が一人で入ってきた。
その場で平伏する義兵衛に声を掛ける。
「うむ、挨拶は良い。こちらへ参れ。それで、明日の幸龍寺での興業、御老中もお出ましになると聞いたが、どのような存念か知っておるか」
「実は、御老中・田沼主殿頭様(田沼意次様)が直々にお出ましになることが興業事務方に知らされたのは昨日の昼過ぎであり、まだどこにも知られておりません。ああ、我が殿・椿井庚太郎様だけには伝えております。今の時点で知っておるのは、殿以外では興業事務方の数名だけでございます。
昨日の瓦版で空席で示された目付席は、当初主殿頭様預かりで、主殿頭様の御家中の方が参加されると聞いておりましたが、どういった意図で直接参加されるように心変わりされたのかは推測するしかございません」
「人払いをしておる。義兵衛の推測を申してみよ」
「目付役に椿井家に代わり越中守様が参加されることになったのは、つい先日のことでございます。主殿頭様はそれを知り、直々に伝えるには良い機会と考えたのではないでしょうか。
主殿頭様は、田安家御当主の件につき、奥向きに色々と手を回す旨、うっかり漏らされたことがございます。もし、直接お話になりたいとすれば、この首尾のこと以外は考えられません。また、直々にということであれば、吉報でございましょう。
幸い、興業の席次について、武家席は石高順ですぐ横通しに並ぶように設けられております。越中守様が最上位、次いで主殿頭様の順であり、お話されるのに何の不便もございません。
また、事務方取り締まりとして斜め前側に我が殿の椿井庚太郎が控える予定であり、私も広間を巡回しております。何か不測のことがあれば、何を置いても駆けつけます。同席される面々は、主殿頭様の息がかかった者ばかりでございますが、我が殿は『越中守様に常より恩義を受けており、我も志を一にするお味方である』と申しておりました。越中守様のお側で見守っており、万一の場合は間に入る覚悟で御座いますれば、御安心なされて良いかと思います」
義兵衛の言葉に越中守様は笑みを浮かべた。
これでお目通りは終わり、義兵衛はお屋敷から退出した。
萬屋さんに戻ると、そこには膨れ顔の安兵衛さんが待っていた。
「私が側に居ない間に、何かとんでもないことをしていたのではないでしょうか」
詰め寄る安兵衛さんに、昨夜と今朝の事を説明した。
「仲が悪いと噂されておる主殿頭様と越中守様が興業で同席し何やら話をされるであろうことは、主殿頭様のことを伝えてきた御奉行様(曲淵様)はご承知でございましょう。それよりも、驚くのは入札の結果252両もの収益があったことです。商家に割り付けた行司席・目付席は、近頃なにかと噂にあがる通人が全部買い占めたような恰好になっております。事務方が収益としたのは4席ですが、それ以外の3席は譲渡されており、それなりの金が動いたに違いないと考えます。善四郎さんがしっかりして入札席を絞らなければ、全部で400両近い収益になったことも容易に推測される状態です。
その上で、もしこの興業で御老中様・寺社奉行様・町奉行様などに御目通りできる、ということが知れ渡ると、つなぎを求めてどのような輩が出てくるか、また入札金額がどうなったかは、想像するだに恐ろしい」
安兵衛さんは、昨日の瓦版を仔細に眺めながら説明を聞き、しきりに頷いていた。
「今日は興業前日の現場最終確認ということで、関係者は幸龍寺に集合することになっています。ちょっと忠吉さんに依頼することがあるので、それを済ませてから一緒に出かけましょう」
義兵衛は店の方へ向うと忠吉さんを捕まえた。
「遅くても今日の夕方に登戸村から加登屋さんがこちらに来られるはずです。早ければ、そうですね、昼前であれば幸龍寺に送り込んでください。いずれにせよ、今夜は萬屋さんに泊めて頂くことになりますので、準備をよろしくお願いします」
忠吉さんの快諾を得た後、安兵衛さんと一緒に浅草・幸龍寺に向った。
幸龍寺の大門を潜り中庭に向うと、庭の入り口手前に受付が設けられ、そこから5箇所の門に道が分かれて繋がっている。
各門には大きく「い」「ろ」「は」「に」と墨書された額が取り付けられている。
最初に出した問題の答えを4択から選ばせる仕組みに違いない。
そして、別棟で料理を有償提供する建屋へ向うであろう門に分かれていいる。
義兵衛はハタと気づいて受付を設営中のお坊様を見つけて懸念を説明した。
「4択設問解答に遅れて入ってこられた方はどうされますか」
お坊様は答えられずに、設営の仕切りをしている責任者を呼びに行った。
「ああ、これは義兵衛様。なにか不審な点がございましたか」
義兵衛は先の質問をぶつけ、更に説明をした。
「遅れてやってきた人は、最初の設問を選べないのでお堂の中での見学資格を得ることはできません。しかし、懐には100文持ってきていることは確実なので、せめて受付のお札を購入頂き、中庭で興業の様子を見させる位のことはさせても良いと思います。
具体的には、4択設問の門を潜らせるのではなく、別棟に向う道で待機してもらい、最初の4択設問の答え合わせが終わって中庭の真ん中に正解者が移動した後の場所へ誘導すれば良いのです。
今更ではありますが、変更はできますでしょうか」
「ええっ。…………判りました。これから手配します」
責任者のお坊様は驚いた表情で話を聞き終えると絶句して、そして本堂へ向って駆け出していった。
興業の中心となる客殿の中では、食器膳や座布団を並べて小坊主達が立ち回っていた。
4隅には大きな団扇を持ったお坊様が立ち、小坊主達へ合図を送っている。
前回の興業で右往左往していた準備段階に比べると、動きも格段になめらかになっており、特段の不安はない。
「ああ、義兵衛様。今回は暑い盛りで人出も多かろうことから、周り廊下に別棟の暗室から大団扇で風を送り込むこととしましたぞ。
深井戸からくみ出した水を桶に入れて並べ、少しでも涼を入れる工夫をしております。周り廊下の上座から吹き込む格好になっております。風の経路は屏風で仕切って、全体一様に流れるようにしております。ただ、卓上焜炉の風下は酷いことになりますな。「八字」型に並べて、できるだけ風下に人を配置しない様に工夫をしておりますが、確かめて頂けますかな」
企画担当のお坊様が一生懸命説明してくれ、準備万端となっている様子がうかがえる。
そして、先の遅れた人の扱いについて、見学席の勝ち抜き戦が終わったあとに、負けた人達を集めてこの知恵競い合いを何度か行う予定になっており、そこへの参加することにしたことを説明してくれた。
その後、控え室に集まった事務方面々と段取りを確認し、忙しい前日を終えたのであった。




