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下菅村の飢饉対策 <C2323>

 ■安永7年(1778年)6月17日(太陽暦7月11日) 憑依129日目


 昨夜は安兵衛さんと爺の家に一緒に泊り、この御領地での所感を聞いたが、おおむね好意的であった。

 印象が強かったのは、やはり工房の運営で、作業をしている面々の意識が高い点に大層驚いたとのことだ。


「どの子に聞いても、工房へ奉公できることを喜んでいるのです。その理由は色々ありましたが、家族が後押ししてくれている、というのが大きいようですね。

『御殿様やその弟・甲三郎様が視察に来られてお声掛け頂いた』ということがあり、名主でもない百姓家の子供には有り得ないことだと言われたのが大きく効いているようです。他には『名主様からこの工房でのお勤めがとても重要』と親が聞いていて、毎朝送り出される時には一声あるそうで、こういったことも効果があるようです。

 中には『ここの働きが年貢の代わりになり、家の暮らしが楽になる』という信念で働いている者もおるかと思えば、『工房で組長をすると家の雑事から解放される』という率直に話す娘もおりました。

 工房で毎日する訓話も効いてます。こういった仕組みは勉強になりました」


 安兵衛さんはこれを一体どう活かすつもりなのだろうか、と不思議に思ったのも確かである。

 そして、一夜明けた今日は、御殿様が下菅村名主と飢饉対応の話をする予定となっている。

 下菅村は相給の村で、その約半分が代官地分となっているだけに、万福寺村と違って扱いが難しいことは昨日爺から聞いた通りだ。

 組織が中に入ると責任の所在が見えなくなり、時間だけが空費されてしまうのだ。

 そして、飢饉まで時間がないというのが、のんびりと対策を打って効果を見ている暇がないというのが、今かかえている難点なのだ。

 御殿様はこのことを知ってか知らずかは定かではないが、里を飢饉の被害から守るために打たねばならない処置を迅速にしてくれているのだった。

 やがて、下菅村から名主と有力な百姓家の主が2名が到着し座敷で待っている状況となった。

 安兵衛さんと義兵衛は、座敷の横に並び控える。

 御殿様と爺が入室し、上座に座ると簡単な挨拶に続いて話が始まった。


「先に高石神社の巫女から未曾有の大飢饉の神託があり、椿井家の領ではそれに備えるべくそれぞれの村での対策を急ぐように、との御殿様から御下命がありこれを伝えておる。

 此度は下菅村での状況と今後の方向を確かめるべく、有難いことに御殿様直々に話をしたいと仰せになっておる。

 まずは、各名主の家には『新たに飢饉用の米蔵を準備せよ』との指図であるが、この状況から申し上げよ」


 爺が重々しくこう述べると、下菅村の名主が説明し始めた。


「私共の下菅村は大きく3つの集落から成り立っております。私の居る集落は宮下と申しまして、府中街道から少し西側に位置しております。本日一緒に参っておりますのは、宮下集落より東側で府中街道にあります塚戸集落をまとめておる家の者と、宮下集落より西側の山間の谷戸のある馬場集落の家の者でございます。

 御殿様より指図された飢饉用の米蔵は、宮下集落の私の家の庭に立てる予定で準備を進めております」


 小規模な集落では村が成り立たないため、近い集落をまとめているという状況は細山村でも同じ事情だ。

 ちなみに細山村では、中心となる細山集落の周囲にある向原・北谷・大久保という3集落を束ねて村を構成している。それに比べると金程村は集落=村であり、小さな集落ではあるが細山村に飲み込まれていないというのは、概ね地形と年貢米を単独で納めることができるかに依存するところが大きい。


「ただ、この3つの集落では年貢の取れ高に大きな差があり、馬場集落は細山村の大久保集落と同じくほとんど米を作れておりません。40人居る集落で30石がやっとでございます。ただ、この馬場集落は一番細山村に近いため、工房へ奉公する者を一番多く出しております。

 塚戸はおおよそ100人の集落で府中街道が真中に通る平地にあり、平年通り用水が確保できれば村の石高350石中220石はこの集落で得ることができます。ただ、細山村から一番遠く離れており、そのため工房には人が出せず、代わりに多摩川に面した新田開発のほうを熱心にしております。こちらは、甲三郎様の御指導によるもので御座います。

 私の居る宮下は、おおむね60人で90石を作っております。

 全部で350石の石高でございますが、椿井家様には90石、御公儀代官様には80石、宝蔵寺様には5石分の年貢を毎年米で納めさせて頂いております。

 今回の飢饉対策として『米を蓄えよ』とのことでございますが、200名の百姓に175石の米しか残らない状況では、不足することはあっても、とても蓄えることはできません。せめて、工房へ奉公に上がっている者の給金を年貢米に代えて頂かないと、蓄えるどころの騒ぎではございません。しかも、秋口までに作れと言われております米蔵でございますが、その費用の半分は村持ちでございましょう。給金だけではとても足りないというのが実情でございます」


 細山村の北東にある丘陵の稜線が下菅村との境で、そこから多摩川までが下菅村になっている。

 山中が馬場集落、ふもとが宮下集落、府中街道沿いが塚戸集落と並んでいて、塚戸集落は開墾して水田を広げているようだ。

 それに反して、馬場・宮下集落は水利権の関係から開墾ができない状態になっている。

 更に、相給の一部にいつの間にか宝蔵寺が権利分として食い込んでいたのだ。


「苦境は理解しておる。しかし、不作が数年続いたら、年貢が無くとも食うものが無くなるであろう。椿井家の領地にある村はどこも同じ状況じゃ。

 それで、もし下菅村の年貢米分を宮下集落に作る蔵で預かれと申したらどうなる」


 御殿様は名主に直に話しかけた。


「それであれば、毎年90石分225俵を積むことはできましょう。3年かけて270石は貯めることができます。

 しかし、飢饉の年だとしても御代官様と宝蔵寺様の年貢は要求されます。すると、3年間かけて備えた米は、最初の年で食い潰すことになりましょう。そもそも無ければ取り立てできませんが、米蔵に米があることが知れれば、御殿様の物と言ったところで御公儀は徴発するに違いございません。

 それぞれの集落でも飢饉対策として備蓄を進める所存ではありますが、目立つところに米で蓄えるということは結局御公儀と宝蔵寺に奪われるために蓄えることになります」


 御公儀は先々代の将軍・吉宗様の折に制定された定免法なので、豊作・不作にかかわらず一定の年貢米を納めることを要求される。

 一粒の米も収穫できない水準の不作にまではならなくても、平年の半分ほどしか取れないことは充分あり得、それでも2年続くと同じことが起きる。


「もし、貯めた270石を年貢として供出しなくても、不作が3年も続けば蔵は空になります。御神託にあるように7年続く不作では飢饉状態を免れることはできません。お天道様と御公儀が相手では、私共の努力が及ぶところではございません」


 諦めた口調で名主様は話した。


「さてはて、相給というのは難儀なものじゃ。言わんとすることは判った。では下菅村に新しく米蔵を作らんでも良い。その分はこちらで備えよう。そして、年貢米は籾米にて90石分を当家に納めよ。

 不作の年廻りとなって米が不足し百姓が餓える場合には、下菅村には年110石を上限で貸し出しすることとしよう。年貢米を出せぬ場合は、都合200石の返済を約してもらうぞ。米問屋ではないから利息は付けぬし、銭による返済も認めよう。

 あと、粟・稗などの救荒作物も多少は植える準備もできておろうな。飢饉の様相が酷くなってきた場合は、街道沿いの塚戸集落で施粥などできるように考えておけ。よいな」


 各集落の有力者を連れてこねばならないことから、下菅村の統治の難しさは伺えるが、結局お館が差配するしかないようだ。

 下菅村の3人との話は、これで終わりとなった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 集落というのは「字(あざ)」と理解しました。 昔は字が番地の代わりみたいな感じだったとか。 私の住んでいる辺りも昔風に表すと 「『○○國○○郡○○村字○○』のだれそれさんち」 になると以前に…
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