お館の爺と米の話 <C2322>
細山村のお館に着くと、慣れた様子で安兵衛さんが出迎えてくれた。
ほんの少し前までは、細山村・名主の白井家を通し裏庭から入るように言われていたが、今は門脇の番小屋に詰めている小姓に一声かければ問題なく表から入ることができる。
とは言え、門脇の通用門からの出入りになる。
正門は、御殿様御一家の専用で、お供の時にだけ使うことが許されているのだ。
「安兵衛さん、寺子屋はどうでしたか」
「はい。工房の様子と瓜二つの様相に驚きました。
朝一番に全員を集めての素読、それからは師範代が年長を指導、年長の人が年下の子供を指導していました。誰がどの子供を指導するのかは、ある程度決まっていると福太郎くんが教えてくれました。時々、指導する子供の交換や入れ替えをするようですがね。
結局、工房の組長をしている姉さん方は、寺子屋で指導していた覚えのある子供等で、その子が見る子供を引き入れた孫のような格好で仲間を集めて列を作っているのですね」
「そうです。御殿様が言うには、結構いろいろなことがあって今の形になったそうです。『試行錯誤で60年かかった』と言っておられました。小さい村・御領地だからこそ、あのような形でまとまったのでしょう」
こういった話をお館入り口の脇部屋でする内に、お館の爺様が部屋へ入ってきて、義兵衛に質問をしてきた。
「義兵衛、馬の運用についての確認をしたい。
今朝は馴れのため、江戸行きの馬1疋と、登戸村と往復する馬3疋を送り出した。それぞれの地への道筋で支障が無ければ、予定通り順次入れ替えながら休ませることにしたい。
登戸は6日の内、4日は2往復・1日は午前中だけの往復・1日休み、という順を隔日に行う。この結果、6日間で延べ27往復することになる。口引き1人と馬1疋で50貫(約190kg、薄厚練炭2000個)ゆえ、1日辺りおおむね1万個を運ぶことになる。ああ、小荷駄を率いる者にも多少は練炭を担がせる。工房の方はこの準備で良いかな。
江戸は基本として江戸屋敷に1疋常駐の体制とし、4日間で2往復させて江戸で2日休ませることとする。江戸へは飼葉を送り込み、江戸からは毎回七輪25個を引き上げて登戸村で借りた蔵に置く。登戸村からは木炭を載せてくる段取りじゃ。
あとは、馬の調子を見て、12日毎に江戸行きと登戸行きの馬を入れ替えることも考えよう。
厩舎や飼葉などは、細山村と金程村の名主に丸投げしたが、年貢米との差し引きで合意したので問題は無かろう。
この手配で良いかな」
先に説明して要望した通りになっている。
ただ、今朝は4疋で出立しているので、どこかで調整が必要だろう。
つもりでは、毎朝3疋で出て、午後は2疋というパターンになるはずなのだ。
「はい、9月まではそれで充分ですが、籾米を買い付け終えたら見直す必要があります。
まだどれ位の量が実際に買い付けできるか判りませんが、今は500石、約1800俵を見込んでいます。
大丸村の円照寺を引き渡し場所としていますが、蔵の借り賃がかかりますので、年末までに持ってくるようにせねばなりません。
あと、この籾米1800俵をどう分配するかが問題で、今からよく考えて置かねばなりません。私としては、御領地のどこにあっても同じなのですが、どこの蔵に入るかを気にする村も多いと思います。4年後の不作で食べるものが無くなってから開ける訳ですから、実際にどこにあっても同じなのですが、他の村より早く自分の所の蔵に入るという安心感は村人を納得させます。
工房のある金程村、お館のある細山村は、それが在るだけで充分納得できると思いますので、できれば万福村と下菅村を優先させた方が良いかと考えています。御殿様へ言上して頂ければありがたいです」
義兵衛の意見にお館の爺は厳しい顔を見せた。
「お前が言わんとすることは判った。ただ、万福寺村と下菅村は年貢が相給となっておろう。
万福寺村は全部で90石中の50石、下菅村は全部で350石中190石が当家の御領地分じゃ。この2つの村は、百姓や土地を分けておる訳ではない。年貢として取れた米をそれぞれ分けて取り込んでいるに過ぎん。
万福寺村の40石はまだ少ないので、当家で多少は賄うことを考えても良い。旗本の天野滝之助様は、この村以外に連光寺村250石・坂浜村360石を拝領しており、訳を話せば相応の援助もあろう。当家と歩調を合わせることも容易かろう。
しかし、下菅村の相方であった旗本・木作家は、先々代・七左衛門様の折に継嗣がおらず御家が断絶となって、知行地が御公儀に返上されておる。だからと言って、黙って160石分も余計に負担を抱え込むほど、当家としても愚かではない。相給の相手が、この近辺の代官になっておるが、歩調を合わせようと話をしたところで、無駄でしかないのは見えておろう。
だからと言って、長年付き合いがある下菅村の面々を見捨てるということも出来ん。
そういった事情は、もちろん御殿様は承知じゃ。
今日は、飢饉の備えの話をするために、連光寺村の名主・富澤家にわざわざ出向いて行っておるのだ。もちろん、旗本の天野様や万福寺村の名主殿にも声掛けしておる。このあたりに抜かりがある殿ではないぞ。
そして明日は、下菅村の名主を呼んでおる。その席には、義兵衛も控え居れ」
この暑い盛りに御殿様がわざわざ里へ戻った理由がやっと見えてきた。
義兵衛の与り知らぬ所で御殿様なりに手を打っていたのだ。
「しかし、御殿様が下菅村・名主にどのような方針で臨むのかを私は知りません。
同席は承知致しますが、御殿様の意図を知らぬまま、余計なことを言ってしまうことを気にしています。もし、下菅村に対する方針の一端でもご存知でしたら、お教えください」
「うむ、ワシとて良くは知らぬが、下菅村200人の百姓を按分した110人分について、4年後の時点で7年間分の籾米・770石を備蓄させるのが基本じゃ。但し、下菅村の蔵は2棟で350石・1260俵とし、残りの420石・1500俵はこの館で預かることにしたい、と聞いておる。
下手に村の中に米があると『代官が根こそぎ運び出すやも知れぬ』と見ており、当家が買い入れた米は下菅村には渡すつもりはない。年貢米を籾米のまま3年間で350石分そのまま蓄えよ、という次第じゃ。あとは、他の村との待遇の差をどう見るかだが、そこが明日の勝負所じゃろう」
おおよその事は理解できた。
下菅村の名主が御殿様のなさろうとすることをどこまで信じるか、にかかっているに違いない。
こういった話をする内に、御殿様が連光寺村から戻ってきた。
「おお、義兵衛が戻ってきておったか。爺から次第は聞いたかな。
天野様はあまり乗り気ではなかったが、名主・富澤殿は良く判ってくれた。『不作になる時期が判れば備えることに吝かではない』とのことで『天野様の御領地では向後3年をかけて米の備蓄を進めよう』との結論になった。
万福寺村の扱いについて、40石分の年貢米の扱いについて、4年間当家に任せるので、その間に当家主体の飢饉対策を進めてもらいたい、とのことであった。その代わり、飢饉の7年間のことも任せるという訳だ。不作明けの年は豊作であろうから、飢饉後の豊作になった年からは元の格好にして貰おう、という条件で天野様を説得できた。何やら都合が良いように扱われておるが、これで当家の周囲からの脅威は、多少弱まることになる。
ワシも少しは領主らしい仕事もせぬと、松平越中守様との話に困る」
御殿様はこう言うと、自嘲気味に小さく笑った。
自分にはとてもできない所の仕事をしてくれている御殿様に、義兵衛は深く平伏したのだった。
金程村近辺の村にまつわる話になってきており、結構混沌とした状態でわかりにくいとは思いますがご容赦ください。
あと、突然のことで申し訳ありませんが、少しの間、10日ほど休みます。8月には復帰予定です。ご理解よろしくお願いします。




