加賀金沢藩江戸藩邸算用方・湯浅様 <C2306>
曲淵様と御殿様が小姓に案内されて御屋敷の奥へ消えてから1刻(夏場のこの時期は約2時間半)程経った頃、面談がやっと終わったようでお二方が控えの間に現れた。
「義兵衛、こちらへ来い」
御殿様は義兵衛を呼び出すと控えの次の間に連れ出した。
安兵衛さんも一緒に来るが、御殿様から特に制止されないのでそのまま付いてくる。
「能登の物産の扱いについて、この江戸屋敷に居る者で詳細な受け答えが出来る方を紹介して頂けることとなった。
今は挨拶だけということだが、次は椿井家の接待に応じるとのことじゃ。この部屋の下座に控えておれ」
義兵衛だけでなく安兵衛さんも部屋の一番端に座って待っていると、横側の襖が開き御武家様が入ってきた。
その場で平伏する義兵衛達に上座へ座った方が声をかけてきた。
「私は、加賀金沢藩士・江戸屋敷御算用方の湯浅友之助と申す。御家老より『旗本の椿井庚太郎殿へ挨拶せよ』との御指示がありここへ参った。
『能登の産物につき問合せしたきことがある者がおる故、今後対応せよ』とのことであったが、相違ないか」
なにやら随分上から目線なのだ。
義兵衛の前で平伏している御殿様が上体を戻して答える。
「先ほど御家老様に挨拶をさせて頂いた椿井庚太郎で御座います。おっしゃることに相違御座いません。
こたびは私共の調べに御協力頂ける方を紹介して頂けることとなり、誠に有り難いことと感謝し申し上げます。この調査の担当は、私の後ろに控えておる当家勘定方・細江義兵衛でございます」
義兵衛は上体を少し起こし上目使いで湯浅様を捉え、平伏する。
「椿井家家臣・細江義兵衛と申します。能登特産の『地の粉』のことについて色々と調べておりますが、判らぬことが多く、教えて頂ける方を探しておりました。何卒よろしくお願い申し上げます」
「そちらの方は、まだ随分と若いではないか。まだ元服したばかり、という感じかな。
御奉行様からの要望でもあり、御家老様からの御指図ゆえ私が対応致しますが、領内のことをあれこれ探索されるのはあまり感心できませぬぞ。
今は挨拶だけということなので、これまでということで退席させて頂きますぞ。
調べたいこととその意図を予め文で連絡下され。面談の場所・日時は追って伝えましょう」
「恐れながら、面談・接待の場所について、浅草・山谷の料亭・八百膳を提案させて頂きたいのですが、よろしいでしょうか。
懇意にさせて頂いておりますので、御満足頂ける御接待ができるかと思います」
上から目線に怯えることなく『最高級料亭の八百膳で接待できることを匂わせることで懐柔しよう』と義兵衛は考え、それを伝えた。
湯浅様はちょっと驚きの表情をしたが、それがゆっくり笑みに変わり、そして元の上から目線の顔になった。
「うむ、では明日の昼にでも、という無理は通るかな」
義兵衛の顔から冷や汗が噴出し、額からポタポタと袖にしずくが垂れた。
明日は御殿様のお供で里へ戻る手はずなのだ。
越中守様から購入した馬を今日引き取りに行っており、屋敷に着き次第4疋を引き連れて里へ行く準備にかかっているはずなのだ。
今の状況では、御殿様の同席無くして接待は成り立たず、御殿様の意向からすると、明日はもう無理なのだ。
湯浅様にしてみれば『懇意』の程度を知りたいだけなのかも知れないが、単に嫌がらせとも見える。
湯浅様の要望にこの場で答えることができない義兵衛に代わり、御殿様が返事をしてくれた。
「湯浅様、結構でございます。その代わり、文で事前に聞きたいことを記すのは難しく、おおよそのことは御家老様に申し上げておりますので、その場で直接お聞きしますので、そのままお返事頂ければと思います。
それより、明日の昼に湯浅様はお供の方を何名お連れでございましょうか。当方は、私と義兵衛、それに義兵衛の側に控えておる御奉行様・御家来の浜野安兵衛の3名となります。
ああ、紹介し遅れましたが、義兵衛は勘定方で剣の方がからっきしできませんので、曲淵様が念のためにと腕の立つ方を義兵衛につけて下さって居るのです」
御殿様の言葉に安兵衛さんは顔を上げ、ハキハキと話した。
「曲淵家家臣・浜野安兵衛と申します。御殿様より『常時義兵衛さんの護衛をせよ』と申し付かっております。また『義兵衛さんの見聞きするものを一緒に見聞きせよ』とも申し付かっており、ここ8日ほど一緒に行動しております」
この発言で『奉行の命で義兵衛を特別に監視している』という風を匂わせ、義兵衛が重要人物という印象を与えることが出来た感じになっている。
湯浅様は安兵衛さんの方を向いて頷くと、義兵衛の方へ向いこう言い放った。
「では、こちらも供を2名連れていこう。計3名分じゃ。明日の昼丁度に出向くということで、八百膳での接待を期待しておるぞ」
そう言うと湯浅様は次の間から出て行った。
御殿様はゆっくりと立ち上がると『ここでは余計な話をするな』と合図をして控えの間に戻っていった。
控えの間で曲淵様と合流すると、それぞれの供と隊列を組み、来た時の道と逆順を辿って門を出た。
「義兵衛、明日の昼に八百膳で6人前の接待膳の準備を依頼しておけ。代金のことは気にせず、できるだけ丁重にもてなすように、と依頼せよ。ワシは奉行所で曲淵様と少し話をしておるので、手配が終わったら、北町奉行所へ来い。
紳一郎、明日の里への出立は1日延期じゃ。お前は先行して屋敷へ戻り、1日延期の周知・準備の延伸を行え。里へ持って帰る七輪を、まさか今から馬に乗せようとする馬鹿は居らんじゃろうが、そういった些細なことにも目を光らせておくのじゃ。よいな。
後の者は、奉行所に着いたら解散じゃ。屋敷に各自門限までに戻るが良い。ワシも御奉行様と少し話をしてから門限までには帰る」
紳一郎さんは、短く「はっ」と了解の合図をすると、脱兎の如く駆け出した。
義兵衛もそれに習って、まずは八百膳に行き、もし善四郎さんが出かけて不在であればそれを追いかけて、という順に周ろうと考えながら駆け出した。
すると、曲淵様の隊列から安兵衛さんが抜け出して、義兵衛を追って駆け出し、並んで八百膳まで走ってたどり着いた。
「こんにちは、義兵衛です。善四郎さんは居られますか。急ぎの用で義兵衛が来ておるとお伝えください」
昨日の今日で八百膳が事務方の集合場所になっており、毎日交互に寄り合いをしているようで、善四郎さんは丁度八百膳の中に居た。
そして、玄関前に出てきた善四郎さんに義兵衛は、明日の昼に椿井家が加賀前田様御家来を接待せねばならなくなった経緯を説明した。
「全部で6名分ですな。おっしゃることは良く判りました。
そうですな、膳は10脚分用意致しましょう。聞く限り、義兵衛さんを困らせようと企んでいることが見えておりますので、それ位の用心は必要です。座敷についても予約しておる客を色々と動かせば、最上の座敷をどうにか確保はできましょう。
椿井様だけの接待ではなんでしょうから、御奉行様が出張る可能性もありそうではないですか。
接待料理の中身はお任せください。義兵衛さんのお役に立つなら少々の無理は通しますぜ。加賀金沢藩の御家来衆・田舎侍供を仰天させてやりますぞ。
ははは、これはなかなか面白いことになりそうだ」
善四郎さんには二つ返事で引き受けて頂けた。
やはり普段からの付き合いでの信用が、ここぞという時に役立ってくれる。
それから義兵衛は安兵衛さんと並んで北町奉行所まで走ったのだった。




