能登の土の話から <C2296>
先ほどまで話し合いをしていた座敷から隣の部屋へ移ると、10脚の膳が並んでいた。
「本日の寄り合いは、御奉行様が参加されるということもあり、ささやかなものでございますが八百膳で精進料理膳を用意させて頂きました。美味しいものを頂けば頭が回り、良い意見も出るというのが道理でございます」
善四郎さんの説明に太田様が問う。
「料理の座にかかわる寄り合いだけに、このようなものがあるとは。なかなか美味そうではないか。寄り合いではいつもこうなのか」
「いえ、今回だけ特別で御座います。普段はせいぜい握り飯を出せば良いほうで、何も出ないまま夜明かししたことも御座います。吝嗇なことを申し上げますれば、これも持ち出しで御座います」
微妙な雰囲気になってしまったが、卓上焜炉に火が入り豆乳が煮立つ頃には和やかな会話が戻ってきた。
食事も終わり、皆が茶をすする頃に曲淵様が話しかけてきた。
「義兵衛、大坂の調べについての件を安兵衛から聞いておるが、どのような魂胆か聞かせてくれんか」
「はい。七輪の原料となる『地の粉』という特殊な土のことでございます」
義兵衛は、石島町・山口屋で聞いた代金についての遣り取り内容の説明をした。
「私が思うに、能登から北前船で大坂に運び、そこから江戸まで菱垣廻船で運びまするが、この中間で価格がかなり上昇しているのではないか、と懸念しております。江戸で安い土を得る方法を考えたく調べをお願いした次第でございます」
「しかし、利益を得ておる大坂商家に聞いた所で素直には教えてはくれまい。江戸と違い、大坂という町は武家の権威が軽い場所じゃ。商家の手の内を聞き出すことは至難であろう。
ところで、その土は能登から持ってきておると言っておるが、能登のどこの産か、までは判っておるのか」
「山口屋によれば、場所は能登で福浦港から積み出しているという話。しかしながらあまり確かでは御座いません。ただし、必要となる土を入手するために声を掛けた先が『石崎村』ということだけは聞き出しております」
「能登はあらかたが加賀藩・前田様の御領地であろう。そうであれば、前田加賀守の所へ聞きに行くのが良いのではないかな。そこの村での扱いは加賀藩の者が調べておろう。ワシも興味がある故、加賀藩藩邸に問合せの上、付き添ってやってもよい。
ただ、この一時・七輪のためにだけ必要というだけであれば、山口屋に任せて言う値で購うのが良いと思うが、何故に能登の土に拘る」
加賀藩の方に聞くという発想は無かったので、驚かされた。
確かに、石崎村で作った珪藻土の俵が幾らで売られていくのか、ということは加賀藩の藩庁が抑えているはずだ。
大坂で商人の固い口を開かせるよりよほど簡単に違いない。
それよりも、珪藻土へのこだわりを釈明せねばならない。
「加賀藩の方へ問い合わせるということは思いもよりませんでした。御紹介をよろしくお願い致します。
それで、能登の『地の粉』は、今は七輪の材料としてしか見ておりませんが、この土には先に重要な用途が御座います。
その土で作った煉瓦を『耐火煉瓦』と呼びまするが、その特徴は軽いこと、高熱に強いこと、一面が高熱に晒されても反対面はさほど熱くならないこと、でございます。
耐火煉瓦は、実は大量に鉄を生産する炉を造るために必要な大切な素材なのでございます。大量の鉄を効率的に生み出すためには、大きな炉が必要で、大きな炉を作るためには、かなりの数の煉瓦が必要となります。そしてこの煉瓦は、それ以外の土で作る煉瓦より軽くて丈夫なため、大きな炉を作るにあたっては大変優位なのでございます。
話は飛躍致しますが、そのためには1文でも安い土を江戸でも調達できねばなりません。私は、そこまで見通して考えております」
義兵衛は、思わず幕末に製鉄のため作られた反射炉のことを脳裏に浮かべ、耐熱煉瓦のことを語ってしまった。
「それほどのものであるなら、同じような性質の土は能登にだけあるということも無かろう。関八州も広いゆえ、近郊にも同様の土があるか探させるという手もあるの。もっとも今から探し始めたのでは、秋に間に合わんから、まずは安くする算段ということか。
先方の都合もあろう故、ワシから申し入れしておこう。明日・明後日は都合が悪いと聞いておるので、その後で良いな。
安兵衛が伝えようほどに承知しておけ」
義兵衛はありがたく平伏して承諾の意を示した。
この一連のやりとりを太田様は不思議なものを見るような表情をしながらじっと聞いていて、突っ込んできた。
「義兵衛、『大量に鉄を作るのに必要』と申したが、そもそも大量に要るということがあるのか。そのようなことを見通すとは、どういったことなのか」
義兵衛はギクリとした。
曲淵様が切れ者というのは今までの遣り取りで理解していたが、太田様がこのように鋭く突っ込んでくるというのは想定外だったのだ。
※筆者注:史実では、太田資愛様は遠江掛川藩・太田家2代目藩主です。
安永7年(1778年)時点で40歳であり、寺社奉行という幕府要職の中では結構若手です。
この後、3年後の天明元年(1781年)に若年寄に抜擢されますが、田沼失脚後も排除されず寛政元年(1789年)に京都所司代となり、寛政5年(1793年)に55歳で老中と順調に出世していきます。享和元年(1801年)に63歳で老中を辞職し、文化2年(1805年)に死去します。享年67歳でした。
(Wikipedia記事要約)
どうやら太田様は普通に思い描くような、ボンボン大名ではなく、賄賂を使うのではなく、他より秀でた能力で寺社奉行となられた実力派に違いないと遅まきながら気づいたのだ。
鉄増産の言い訳をどうするべきか、必死でこの時代の鉄器具を思い浮かべる。
ここで刀・鉄砲に繋がる話・大砲や軍艦のためという話をするのは論外だろう。
「鉄は色々なものに使えまする。
例えば、鍬や千歯扱きなどの農機具に用いる事ができまする。私のいた村では平鍬ではなく3本の鉄製の爪がついた鍬をこの春に何本か新調致しました。この新しい鍬は、速く深く耕すのに適しておりとても調子が良いものの、百姓には値が高いのでございます。もし、鉄が沢山あるのであれば、もっと安価に鍬を手にすることができ、多くの百姓が使えるようになるでしょう。
先々代の将軍様の頃から、新田の開発が奨励されておりまするが、こういった農機具が安く出回ることも生産性の向上に役立つ、と考えた次第でございます」
冷や汗を流しながら説明する義兵衛に、曲淵様は尋常でないものを感じたのか割って入った。
「太田様、まあその話は別にしませんか。ここには、噂話をネタにして稼ぐ者も同席しておりますし」
版元さんはこの言葉に首をすくめた。
「なるほど、それもそうじゃの。しかし、佐柄木から聞いておったが、義兵衛は面白そうな輩じゃのぉ」
太田様の残念そうな声に、やらかしてしまったことを悟った義兵衛だった。




