萬屋さんで安兵衛さんと雑談 <C2278>
6月7日は色々とあって立て込んだ日になり、結構多い話数になっています。長い1日が始まります。
あきれずに見て頂ければと思います。
■安永7年(1778年)6月7日(太陽暦7月1日) 憑依119日目
これから毎朝恒例となるであろう八丁堀の松平越中守様・御屋敷への御用伺いを済ませ、日本橋南の具足町にある萬屋さんの店に戻ってきた。
今朝は、越中守様からの伝言は何もなく、その旨を伝えるために丁稚を借りて屋敷まで走らせた。
そして、義兵衛の影のように付いてきた安兵衛さんと一緒に、萬屋の奥の間で丁稚衣装からいつもの武家衣装に着替えていた。
これから毎朝のことと了解したのか、萬屋さんでは店の裏に近い小さな奥の間を二人のために空けてくれているのだった。
「萬屋さんは義兵衛さんを随分厚遇しておりますね。結構小さい小店なのに、3畳程度の部屋ですが『自由に使ってくれ』など、よほどのことで御座いますよ。
昨日のことを考えると、最初にかなり恩を売ったのではございませんか」
この言葉に、今までの萬屋との関わりが義兵衛の脳裏にフラッシュバックしてきた。
「まあ、いろいろありましたが、焜炉を売り込むために料亭で実演販売するように提案した、というのが一番大きいでしょうね。あと、実は本当に一番利益を得ているのが日本橋の瓦版屋・當世堂さんでしょう。おそらく、今は忙し過ぎて考えられもしないでしょうが、後からどれだけ運が良かったのか気づくことになると思いますよ」
マスコミを味方につけるということの重要性が、この江戸時代ではどこまで認識されているのだろうか、とちょっと思ったが、ここで説明して手の内を晒してもしょうがない。
「多分、私も運が良かったのでしょう。今はもう私ごときは神様から相手にされておらぬ様ですが、御神託のご威光は流石です。ただ、巫女様が御政道の筋に移られましたので、これからは自分の才覚だけで道を開かねばならないので、キリキリ舞いしている最中なのですよ」
「いえ、側で見ていると、義兵衛さんがいつも上機嫌で仕事に励んでいるのが良く判ります。本当にイキイキしています。
実は毎日奉行所に戻った後で御殿様に状況の報告をしているのですが、義兵衛さんが語った内容を伝えると、御殿様が見たこともない程驚くのです。その様子が面白いこと、この上もありません。ただ、根掘り葉掘り聞かれるので、どんどん長引いてしまって、寝る間がどんどん短くなってしまっているのですよ。夜は遅いし、朝は早いし、眠いことといったらこの上ありません。体を動かしていないと、うつらうつらしてしまいます。義兵衛さんのように、自分でしたいように仕事ができたら、なんていいのだろうか、と思っていますよ」
以前、同心の戸塚様が張り付いていた時は表面上だけ見せることで済んでいたのだが、歳が近い安兵衛さんは内懐に入り込んでくるので始末が悪い。
しかも、毎晩動向が御奉行様に報告されていることが判り、こちらの御殿様より自分の動向が知られている可能性があることに慄然とした。
そして、御殿様が『当家も御奉行様には用心せねばならぬ』と言われたことを不意に思い出し、自分の行動・言動が流石に軽率過ぎたかも知れないと思いあたった。
「ところで、同心の戸塚様ですが、最近出先で会うことが少なくなった感じです。それで、これは推測ですが、戸塚様は隠密廻りなのでしょうか。安兵衛さんが付いて下さることで、次の御用をしているとか……」
この問いかけに安兵衛さんが慌てた様子で答えた。
「いえ、奉行所の表のことは良く判りません。以前は毎夜戸塚様が長いこと御殿様と話されておりました。その時、私はどちらかと言えば、奥向きのことばかりしておりましたので……」
どうやら図星のようで、ドギマギしながら話しているのが見える。
「義兵衛さん、もう宜しいですか。いろいろとご相談したいことがあるのです」
着替え終わって先のような雑談をしていたら、千次郎さんが声を掛けてきた。
なので、そのまま廊下を伝って茶の間に移動する。
この茶の間はいつの間にか、萬屋さんの、そして焜炉に限って言えば料亭関係の作戦室になってしまっていた。
「まず、仕出し料亭の座の緊急寄り合いが明後日9日に迫っていて、進行内容の確認、いや指導をお願いしたいのです。また、ご都合がよろしければ、寄り合いはいつもの幸龍寺ですので、ご出席をお願いしたいのです。もちろん、安兵衛さんも同席できるように計らいます」
なにやら千次郎さんは結構追い込まれているようだ。
だが、焦る必要はなにもないのだ。
「まあ、落ち着きましょう。千次郎さんが諸々の進行役とは言っても、勧進元は八百膳さんです。不備があっても責任を負うのは善四郎さんですよ。なので、焦らず淡々と進めていけば良いのです。
それはそうと、今日は深川の辰二郎さんの工房から、秋口に捌く七輪1000個が、八丁堀にある萬屋さんの蔵に届く日です。受け取りの準備は出来ておりますか。まず、1000個置くためには2間四方の場所が要ります。最終的に1万個を確保するなら、4間四方相当の場所を準備しておかねばなりません」
これには忠吉さんが応えた。
「一応、幅1間・奥行3間の場所を確保しています。どの程度積み上げていいのか、試す必要がありますが、1個の高さが1尺(30cm)ですと、途中で何回か板を渡して重さを分散させるようにすれば、10段位は重ねても大丈夫と考えています。とりあえずは、1段あたり6個×18個の108個置くとして段取りしましたが、もし10段で危ないようであれば、幅を1間広げることも考えています。それにしても、これを9月まで保管しておくのは、無駄が多いですね。分散させる先を考えておかねばならないですね。
あと、代金ですが、1個700文ですから、175両の買掛金となりますな。今直ぐ払わなくても良いから助かりますが、1万個納められるとこの10倍もの買掛金になる、と考えると恐ろしいものがあります。捌けなかった時は萬屋一同首を吊るしかありませんぞ」
忠吉さんは首に手をあてて、ギュッと絞った真似をした。
「いや、そうならない為にも、まずはこの最初の1000個を有効に使うべきでしょう。もっとも、今は練炭が足りませんので、芝居も打てないのですがね。登戸からありったけの練炭を送り込むよう指示しておいてください。ああ、椿井家も同じように成功に向けて動きはじめますよ」
寄り合いの席では何も言わない約束の安兵衛さんが思わず声を上げた。
「その芝居とは、もう考えてあるのですか。是非とも聞かせてくださいよ」
先の奥の間での話しに刺激を受けていたのか、好奇心一杯の安兵衛さんは我慢しきれなかったのだろう。
「申し訳ないですが、まだその時期ではありません。料亭や僧坊、御門など働きかける先に応じた策は考えてあります。しかし、これからも開催されるであろう料理比べ興業とのからみがあり、私が想定していた動向になるかどうか不確定なところがあります。
そうですね、舞台は変わりませんが芝居の中身や登場人物が変わるのです。その時期になったら、少しづつ明かしていきます。
それはそうと、千次郎さん。まずは、興業の本番と言える第二回の料理比べまでの日程がどうなっているのか、から確認させてください。
後、行動せねばならない項目を洗い出して、後回しに出来ることと期日までにせねばならないことを明らかにしましょう」
義兵衛は、話の焦点を今問題となっている第二回料理比べの興業に戻した。
そして、千次郎さんは、義兵衛さんの予定があまり詰まっていないことを確認すると、八百膳・善四郎さんのところに『直ぐ来て欲しい』との伝言を持たせた丁稚を走らせたのだった。




