甲三郎様の仕官話 <C2261>
■安永7年(1778年)6月2日(太陽暦6月26日) 憑依114日目
屋敷の家臣一同は、ここ数日の間に屋敷で立て続けに起きた変化になかなか付いていけてない。
家臣長屋の床材を使って厩舎を整備し、飼葉小屋を設けたかと思うと、奉行所から警備の武士が派遣され、里からは大勢の仲間と一緒に女中が3人来て、その翌日には奉行所へこの女中を送り込むという、常にないことばかりが起きているのだ。
里から久しぶりに屋敷へ来た者が雰囲気の変化に驚くのならまだしも、屋敷に常駐しているはずの家臣がここ1カ月ほどの間の変わり方、とくにこの数日間の騒がしい状況について来られない感じなのだ。
曰く『屋敷内菜園での水やりもままならない』状態なのだ。
そういったことでは収まらない状況になっているにもかかわらず、日常が乱されることを厭う者が多いというのは、古くからの者にとっては当然かも知れないが、とても残念なことなのだ。
昼前になって、奉行所からの使者と称して曲淵家の家臣・浜野安兵衛さんがやってきた。
御殿様、甲三郎様、紳一郎様だけが面会する手はずと思っていたら、安兵衛さんは『義兵衛さんの同席を要請すること』という指示が曲淵様からあった、とのことで同席することとなった。
「昨日は奉行所私邸でご老中・田沼様を迎えての詮議にご協力頂きありがとうございました。
さて、当家にて預かっておりました富美は、昨夕の内に西の丸内・田沼家お屋敷に無事引き取られております。田沼様の庇護に入られたからには、身の上はまず安心と思われます。そして、こちらにあります百両が富美を引き取った金子でございます。
また昨夕、紳一郎様から御殿様に相談されました『富美を椿井家の養女』とする件については『特段の手立ては不要。細山村の村娘という扱いで充分』とのことでございます」
紳一郎様は安兵衛さんが押し出した金包みを押し頂き、御殿様の前へ運んだ。
「このような格好になると、何か人買いをしたようで寝覚めが悪い。
田沼様にしても、富美を妾待遇にするしかあるまい。それならば後付ではあるが、頂いた金子で村娘なりに輿入れ相当の道具を持たせてやろうではないか。
甲三郎、お前が落籍せた娘であるが、これでよいかな」
御殿様は結構体面・正論を気にされる方ということが良く判る指示である。
この件はこれで決着したと見た安兵衛さんは『コホン』と咳払いをして話を続けた。
「そして、ここからが本題で御座います。
田沼様から甲三郎様に仕官する気はないか、とのお申し出が御座いました。『できれば御子息の大和守様へ』と仰ったそうにございます。田沼様は御歳60歳に御座います。『先の短いワシに仕えるより、まだ30歳と若く先の長い大和守を政策面から支えて貰いたい』というお話です。すでに大和守様にはその意を通しており『明日にでも西丸の田沼邸へお越し頂きたい』とのことでございます。田沼様からの書状も預かっております。また、併せて我が殿・甲斐守からの添え状も持参しております」
こう述べると、持参してきていた文箱から2通の書状を取り出し、御殿様の前へ差し出した。
御殿様は書状を押し抱き、まずは田沼様からのものを広げた。
「誠にありがたいことでございます。
甲三郎、有り難く受け取るが良い」
甲三郎様は深く一礼すると書状を受け取り確かめた。
御殿様は曲淵様からの添え状も同様に読んだが、ちょっと渋い顔をして書状を甲三郎様へ手渡した。
甲三郎様は目をキラキラと輝かせながら両方の書状をざっと見て、それから安兵衛さんに挨拶をした。
「甲斐守様には田沼様への仕官を推挙して頂き、誠に有り難いとお伝えください。
明日朝、田沼邸へ出向きますので、よろしくお願い申し上げます」
一応、これで使者としての役目は完了したようで、堅苦しい雰囲気は一気に溶け、出されていた茶に手を付けている。
『しかし、これで終わりだと私は何のためにここへ同席を強要されたのだろうか』
「実はまだ殿よりお話がありまして『椿井家のありようは大変興味深いものがある。特に、義兵衛が色々と画策しておることを仔細に知りたい。同心の戸塚に代わり手の者を今まで同様に同行させることがあるので、その了解を得てこい』とのご下知にございました。
戸塚様から少しだけお話を伺いましたが、椿井家のような古くからある御旗本が何かに取り憑かれたかのように目覚しくご発展なされている根幹に義兵衛様がかかわっている御様子。
仕出し料理の座や料理比べの事務方連で、年季の入った大人に混ざって、まだ16歳という義兵衛さんが顧問然として指図されていると聞き及んでおります。この功績もあり、椿井家は別格扱いとなっているそうではありませんか。商家の集まりで武家が一人居るとなるとこのような格好になるのかも知れませんが、それはそれで誠に不思議な様子で御座います。
それで、殿様からの添え状にありますように、不肖な私ではありますが、明日から数日間は義兵衛様とできるだけ一緒に行動させて頂きたくお願いする次第です」
それで先ほど曲淵様からの添え状を見て渋い顔をしたことに納得がいった。
昨日、御殿様が『御奉行様には用心せよ』と言った意味がだんだん解りかけてきた。
その意味では既に手遅れだったのかも知れない。
安兵衛さんをどう遇するかも含めて紳一郎様に相談してみるしかないようだ。
「うむ、その件も承知した。
義兵衛の客という形で同行できるようにしよう。義兵衛は翌日の予定なりを使者殿に伝え、出先で落ち合う格好とすればよかろう。屋敷に居る間は訪ねて参るが良い。どうせ屋敷建屋の造りはもう判っておろう。
ただ、使者殿。義兵衛は毎日早朝から夜まで色々な所を飛び回っておるぞ。ワシには聞こえんように言っておるつもりじゃろうが、いつも『時間がない』とこぼしておる。申し訳ないが、同行することで義兵衛の時間を奪うようなことだけは、できるだけせぬよう配慮願いたい」
御殿様は一応釘を一本さしておいてくれた。
しかし、義兵衛のボヤキまで聞いているというのには驚かされる。
この分だと、色々な所で使い分けている方便のこともきっとご存知の上、勝手に振舞っても良いと言っている感じだ。
義兵衛の中の竹森氏はうなった。
『社会人には2通りの優秀な人が居る。
問題が起きた時にそれを即座に上手く収める人と、そもそも問題が起きないように事前に手を入れて回避する人だ。
目立つのは問題を上手く収める人なのだが、本当に優秀なのはそもそも問題を起さないようにする人なのだ。
どうやら、御殿様は後者のようで、その上あえて目立たないようにしているとしか思えない』
改めて御殿様といい、甲三郎様といい、何やら凄い方に目をかけてもらっていることに気づいた竹森氏だった。
竹森氏の思いは別として、義兵衛は答える。
「浜野安兵衛様、同行の件につき承知致しました。よろしくお願い致します。
まず明日は朝から萬屋へ行き、七輪・練炭の販売に向けた相談をいたします。明後日は、深川は辰二郎の工房から製作した七輪が屋敷に届きますので、これの仕分け作業がございます。それが済み次第、七輪をいくつか持ってまた萬屋へ赴く予定でございます」
安兵衛さんは頷き『では、明日は萬屋さんの店で会いましょう』と言い、奉行所へ戻っていったのだった。
安兵衛さんが屋敷から居なくなると、御殿様は早速に指示を出し始めた。
「甲三郎が田沼家へ仕官じゃ。急なことではあるが、服・太刀など一通りのものを用意致せ。足りぬ分はワシのものを適当に使うが良い。奥に申し付けるが良い。
さて、今宵は今屋敷に居る者を集めて祝宴を行う。紳一郎、準備を致せ。それと、里の皆へも知らせねばならん。これから文を書くゆえ、明日朝の定期便に乗せよ」
屋敷の中は歓喜に溢れた。
そうした中、甲三郎様はひとり渋い顔をしていたのだった。




