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松平定信様の件 <C2259>

 富美は神託説明の勢いで、松平越中守(松平定信)様から賄賂を受け取りながら希望に沿う待遇にできなかったのではないか、という後世の疑念を田沼主殿頭(田沼意次)様に話したのだ。

 咳き込む義兵衛を見てハタと気づいたのか、富美はそこで問うのを止めた。

 だが、この富美からの問いに、田沼様は真摯に答えた。


「うむ、確かに田安治察たやすはるさと様がまだ22歳の若さで亡くなられた折、陸奥白河藩へご養子として出され藩主となる予定となっておった越中守様からは『まだ田安家に居ることもあり、養子縁組を解消したい』と申し入れがあった。ただ、その件については、一橋治済ひとつばしはるさだ様が反対しおって叶わんかったのじゃ。4年前のことじゃったが、当時、治済様は24歳で、英邁と噂されておった従兄弟いとこの越中守様16歳に嫉妬しておったのかも知れん。

 田安治察様が亡くなった時、将軍家を継ぐのは家基様、清水重好様、一橋治済様の順じゃったから、田安家に定信様が戻れば3位から4位になってしまうという思いもあったのやも知れぬ。また、一旦養子として出た者も元の家に戻れるとなると、一橋家として兄の重富様が越前福井藩から戻ってきて、代わりに治済様が養子に出されるということも起きる、と考えたのじゃろう。

 先に見せてもらったあの系図のことを思えば、あの時にもう少し考えるべきであったのかも知れん。

 それに、富美が申したように、越中守様から多くの進物があったのは確かである。今も『若年寄りに』という話と一緒に進物が毎年届いておる。進物の多寡で政治まつりごとを決める方が容易たやすいのかも知れんが、力量を見せて回りを納得させた上で運ぶのが今の政治まつりごとじゃ。進物を毎年届ける熱意があれば、そんなことより皆に納得いく能力があることを見せれば良いものを、と思うのじゃがな」


 義兵衛の中にいる竹森氏は、この言葉に驚いた。

 後世の者が知ることが出来ない、記録には残らない歴史の闇が今本人の口から聞けたのだ。

 まあ、実力主義とは言え評価を人が、特に今は田沼様が行うので、公正という所が難しいから進物が蔓延するのだがな。

 これが、賄賂政治と言われる根源に違いない。

 しかし、甲三郎様は、田沼様の話に力を得たのか、富美が話し出す前に勢い込んで発言した。


「田沼様、今が良い機会でございます。

 富美の話によりますと『大飢饉の折に周囲の諸藩の民が餓えで苦しんでいるも、白河藩では飢え死にする領民は皆無だった』とのことでございます。どのような方法を用いたかは判りませぬが、民の苦に思いを馳せて対処をするなぞ、並みの藩主では御座いません。

 また、大飢饉の折に田沼様に遺恨を持つ者たちが集結する旗頭として持ち上げるのが越中守様です。

 富美が申すには『今は松平越中守さまの思いを汲むことが良い』と強く申しております。

 そこで、田沼様がお骨折りなされて、越中守様を現在無当主となっております田安家当主として戻すことが出来ましたなら、この恩義に報いること間違い御座いません。田安家当主のまま陸奥白河藩主を兼ねても良いではございませんか。越中守様にお子様ができましたなら、そこで田安家と陸奥白河藩の松平家を分ければ良いのでございます。

 田沼様が越中守様をお引き立てになった結果、敵対するであろう方々は旗頭を失いましょう。

 また、越中守様はまだお若い方ゆえ、田沼様がなさろうとされている御公儀財務の改善にもきっと御理解頂けるようになり、大和守(田沼意知)様の後ろ盾にもなって頂けるかと存じます」


 田沼様は渋い表情となった。


「曲淵より『定信様を引き立てよ』という話を聞かされたときには、正直そのようなことに意味はない、と思った。

 富美は神託に近いところから何かを得てそのように申したのであろう。面白いことをはっきり言う女子おなごじゃ。この分では他にも色々と申したいこともあろう。

 それで今のように甲三郎から話を聞かされると、その手もあるやも知れん、と思うてしまう。多分、一橋様は強く反対なされるであろうから、奥向きの筋から手を回してみようかのぉ。一橋様には、田安家の当主に越中守を据えることで、どのような利があるのかをきちんと説明せねばならぬ所が難しい所よ。

 このような席で言うことではないかも知れぬが、御公儀の財政は火の車なのじゃ。代々受け継がれてきたお宝の分銅金・大法馬金を増やすどころか使い込んでしまっておる。先々代の吉宗様の折には小法馬金を積み上げできたのに残念なことじゃ。御三卿家には苦しい台所事情を判って頂く必要があるが、その解決方法との抱き合わせであれば説得も多少容易となろう。

 ところで、最近の椿井家は金回りが良いのであろう。商家と組んで木炭商売で上手く立ち回っておるそうではないか。曲淵から面白い話を聞いておるぞ。薪炭問屋の萬屋の後ろで糸を引いておるそうではないか」


 おや、妙なところから幕府の財政改善、椿井家の財政についての話に切り替わった。

 ここは神託の内容、是非についてのことではなかったのか。

 しかし、昨夜の打ち合わせで対策済であり、甲三郎様売り込みのチャンス到来なのだ。

 ここぞとばかりに甲三郎様は我を忘れて身を乗り出した。


「我が里では、卓上焜炉と小炭団を産み出しこれを萬屋に卸すことで利益を得ております。

 実は、御公儀が市中から銭を集める妙案が御座います」


 甲三郎様は昨夕の義兵衛から聞いた内容に、若干のアレンジを付けたものに仕立てあげており、その概要の説明をした。


「まずは御奉行様がお認めになった製品に特別な印を付けることを許し、その対価を製造元から定額もしくは卸し値の5分というような定率で御公儀に納めさせるのでございます」


 以降の詳細な説明は、昨夕の内容とほぼ同じではあるが、物と金の流れが追えるようになる話と無許可品の検知が容易な部分は省かれた。

 しかし、この話を聞いた田沼様は我が意を得たりという顔をしている。


「ほほう。今までのやり口は、物を売る者達で株仲間をこさえさせ、そこから得る独占利益を見込んで冥加金を納めさせるという方法で収入の口を拵えたつもりであった。だが、このように物を作る者から銭を集める有効な手段があるとは思わなんだ。物1個毎に銭を集めるのか。それぞれの所から取る銭は小さいが、それなりの個数が出る物であれば結構な額にはなろう。

 ところで、公儀の認可で一律という方が簡単に思えるが、奉行が印を許諾するというのには、何か意図があるのか」


 これは義兵衛の着想にはなかった所なので、甲三郎様が考え出したものに違いない。


「まずは、製品に印を許諾した責任を負わせることが出来るためです。

 また、御奉行様が変わればそれまでに認可した印は無効となり、新たに承認を受ける行為が必要になりましょう。その折に適切な利を乗せた手数料を取るのは当然でございます。多少なりとも公儀は潤うことになります。

 それから、この制度が定着しましたら、御奉行様が認めた製品の中からさらに選りすぐったものをご老中様がお認めになりその製品に新たな御印を認めれば良いのでございます。より格の高い御印を求めて、多少高くても財布の紐を緩めることは確実でございます。

 昔、織田信長様が『天下一』という称号を特段に腕の良い職人や類稀たぐいまれなる強者つわものに与えたという話がございます。これと同じではありますが、人ではなく物に『これは良い物』ということが直ぐ判るよう印を付けるのでございます。

 ただ、まだ素案ということで実際に運用するためには細かな検討が必要でございます」


 田沼様はこの説明を聞いて黙り込んでしまった。


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