御殿様を奮い立たせる <C2215>
料理比べ興業の5日前、朝の様子から始まります。
■安永7年(1778年)5月15日(太陽暦6月9日)
料理比べの詳細な内容が書かれた瓦版が、江戸市中で一斉に売り出される日である。
通常は売れそうな繁華街のある区画を最初に選んで売り出し、その売れ行きと噂が伝播する方向を狙い、増刷枚数を見定めて翌日に隣の区画へ売りに回るというのが定石なのだが、この料理比べ詳細を載せた瓦版は、興業が20日と迫っているだけにその2日前の18日には売り終える方針としている。
また、料亭の多い向島や寺社の多い浅草を中心に多く売れる傾向にあり、往来の多い日本橋南地区を基点に城下を順に右回り・左回りして売るという従来の遣り方は止め、できるだけ多くの地区に売り子を手配し、早く売り切る方針で臨んでいる。
いつもは2~3組の売り子にそれぞれ200枚程度を持たせ売り始めるのだが、今日は強気で最初からいつもの4倍の800枚も持たせ6組の売り子で臨んでいる。
もちろん、完売で取りに戻る時も惜しいとばかりに、追加でどんどん送り込む算段もしている。
そして、読み売りの通る声が町の辻で響き始めた。
「20日浅草・幸龍寺で行われる、本邦初の料理比べの詳細を載せた瓦版でござぁ~い。
料理番付に異議を申し出た3つの料亭の審判が、そこで行われまするがぁ~、その審査がどのような方法で行われるかは、この瓦版を篤とご覧あれぇ~。
10人の行司でござりまするがぁ~、武家・商家の代表が先の瓦版から任じられる人が代わりましたぞぉ~。
また、審査を近くで見守る目付け役がぁ~、新たに設けられましたぞぉ~
こちらの、この瓦版で明らかにされておりまするぅ~」
普通の版元は出来事が発覚してから取材を始めるのに対し、勧進元、裏方と直接つるんでいる日本橋の版元だからこそ出来る記事で、勝負は端からついている。
違う版元から八百膳さんや萬屋さんに飛び込み訪問がかかっているそうだが、流石に何も聞き出せず地団駄踏んでいるという噂も聞く。
いずれにせよ、日本橋の版元は今や金の鉱脈の上に座ってしまっており、その幸運に感謝しながら商売を拡大してきているのだ。
さて、読み売りしている売り子は、節をつけつつ、書かれている内容を要約しつつ、細かい所は飛ばしつつ、肝心の所は購買意欲を掻き立てるため伏せつつ、よく通る声で謡いながら瓦版を1枚4文でどんどん捌いていく。
普段から面白いことが無いかを待ち受ける江戸市中の町人は、読み売りの声を聞いて道の両側の店奥にある長屋から飛び出してくる。
なにせ今評判の料理番付、料理比べなのだ。
群がる人達は、4文銭と引き換えに瓦版を受け取ると、手元で広げて読んでいく。
買えない人は、購入した人の手元を覗き込み、読めない人は声を出して読む人の側へ張り付く、もしくは読み売りの後をついて歩く。
人が人を呼ぶ展開に、売り子は内心シメシメと思いながら一層声を張り上げ、群がる群衆を引きつれてゆっくり動いていく。
そうした喧噪とは隔絶した武家屋敷・椿井家の中では、昨夜入手した瓦版を手にした義兵衛が御殿様にその内容を説明していた。
「これが、本日町人相手に売り出されております瓦版でございます。
行司10名、目付6名となっておりますが、昨夕確認しましたところ、目付は2名増えておりました。
追加となったのは、武家側が寺社奉行・太田備後守様ご家来・佐柄木清吉様と伺いました。商家側は、町年寄・樽屋藤左衛門様でございます。ただ、当日までまだ5日ありますので、目付役に誰ぞの息がかかった者を入れたいというゴリ押しがあると考えており、武家・商家それぞれに予備として1席を設けてあります。ただ、この予備席のことは瓦版には伏せてあり、勧進元・裏方のみ知っておることです。
興業を行うにあたり様々な交渉を行っておりますが、やむを得ずという場合に当てる席なので、予備席の件はくれぐれもご内密にして頂きたくお願い申し上げます。
また、この興業を行うにあたり貢献度合いを随分と加味して頂いており、今後の料理比べについて、武家側の目付役席1席は椿井家預かり、商家側の行司役席1席は萬屋預かりというお話を頂いております。行司役・目付役になりたい方は大勢いらっしゃるようなので、当家で預かった目付役席の権利を次回の興業で上手く使い猟官活動の一助にして頂ければと愚考する次第です」
手渡された瓦版を仔細に見ながら、御殿様はため息をついた。
「はぁ~っ。こりゃ、目付役として名前がはっきり出てしもうておるな。
これでは登城した時、質問責めじゃ。だからと言って、ここで起きていることを皆話すと、家の羽振りが良くなっていることが丸解りじゃろ。借財の申し込みを受けないようにするためには、果たしてどこまで明かすのが良いものなのか。こうなると、面倒臭いものよのぉ。
町奉行様にいろいろとご配慮頂いてはおるようじゃが、ワシはまだ直接お会いしたこともなく、話が食い違うのも怖いところじゃ。
これは、やはり困ったことになっておる」
料理比べの興業の実態を知るにつれ、だんだん弱気になっていく御殿様を前に、釘を刺す必要がある。
ある意味神輿に乗っかるだけだから開き直れば良いのだが、素の御殿様は意外に打たれ弱いのかも知れない。
「今日の瓦版を目にされた御武家様の何人かは、特に偉い方は、目付役を譲ってもらいたがるに違いございませんが、今回ばかりはその御役目を最後までお引きうけ下さい。ここでの弱気は禁物でございましょう。席を売り渡せという話もあるでしょうが、基本は御断りください。ただ、借金を棒引きにするというお話であれば、検討の余地はあるかも知れません。
頑張って作った目付席ですし、しかも優先して席を左右できる権利を頂いているのは随分と恵まれた状況なのです。
数少ない目付席ですから、注目されるのは致し方のない所です。むしろ、これを機に主だった方々、特に曲淵甲斐守様と親しく話をされるのが良いかと考えます。できれば、その席で、甲三郎様をお引き合わせする段取りができると都合よいのですが、いかがでございましょう」
意を強くしたのか、御殿様は若干きりっと姿勢を正した。
「そうじゃ、甲三郎はいつ江戸へ来るのかの」
横に控える紳一郎様が応えた。
「はい、昨日使いを出しておりますので、早ければ明日にもご到着なさるかと存じます。
お見えになりましたら、早速にも新しい馬のことについて相談したいと考えております。
義兵衛から聞きましたところ、御殿様は新規に2疋ご所望とのことでございますが、諸々のことを考え合わせればもう少し増やしても問題ないと考えます。
増えた馬は、里ではそれぞれの村名主に預け飼育してもらい、椿井家の御用がある時にはこれを使い、そうでない時は農耕用に、どちらも用がない場合は工房の木炭加工品運搬にと切れ目なく使用できます。また、江戸屋敷との荷の運搬は小荷駄として馬を馴らすのに丁度良いかと存じます。
また、お殿様からの発案とお聞きしましたが、旗本や与力に馬を貸し出すというのは誠に良案でございます。この江戸の屋敷の敷地は500石の旗本としては1000坪ほどといささか広く、隣に居る同じ500石旗本の富永様の屋敷の倍程の敷地でございましょう。折角の場所を活かすのは良いと思いますぞ。里からの荷の運搬でくる馬を屋敷で休め、休んでいた馬を代わりに里へ返すということもできましょう。常時2疋も居れば、屋敷も活気付きます。
1疋20両程度が相場ですので、よほど高値のものを所望するのでなければ4疋ほどは買い揃えることはできましょうぞ。長い目で見て、子馬を安く買って育てるというのもあるやも知れませんが、それではちと長い目での投資となりますので別途算段が要ります。
甲三郎様との相談にはなりますが、まずは4疋位ならお望みを叶えられそうです」
普段は家計に渋い紳一郎様が言う言葉に、御殿様はたちまち弱気が一掃され上機嫌になっている。
しかし、この馬という生き物は購入費用だけではなく、日々の飼葉や世話をする人が入用になり、こういった日々の費用が別建てで嵩むことを知っているのだろうか、と義兵衛は内心心配してしまうのだった。
紳一郎様が馬4疋(=100両)にゴーサインを出してしまっています。締めなければいけない椿井家の経理が狂い始めている感があります。これを押えるのは甲三郎様しかおりませんが、出番はあと数話後です。
次話は、幸龍寺でのリハーサルと興業内容の微修正の話になります。




