坂東制圧と寺社の反乱
さて、鎌倉で一息つき常陸の佐竹を討つべく、出立しようとした矢先、佐竹義敦と足利直冬から降伏の使者が鎌倉に到着した。
二人は俺たちに平伏していた。
「我々は今上帝に逆らうつもりはなく従う所存でございます」
佐竹義敦がいい、足利直冬も
「願わくば我々も末席にに加えていただきたく思います」
といってきた。
まあ、奥羽の北畠顕家もいるし、これ以上孤軍で戦っても無意味と思ったのだろう。
「わかった、俺達とともに京へ上洛してもらうぞ。
沙汰は今上帝によってくだされるだろう」
「ははっ」
「かしこまりてございます」
二人は答えた。
俺たちは佐竹義敦と足利直冬をくわえて京へと戻った。
そして今上帝よりくだされた沙汰だが……。
今上帝はまず足利直冬にきいた。
「足利直冬よ、そなたの父は我が父に逆らい乱を起こした。
このことについて申開きは在るか?」
直冬は平伏しながら答えた。
「あんな奴が父親だと俺は思ってませんが、あいつが俺の父親であり、あいつが乱を起こしたのが事実でございます。
その罪に連座せよというのであれば致し方ございません」
次に今上帝は佐竹義敦に問いただした。
「ふむ、佐竹義敦よ、鎌倉幕府は皇位継承について常に口を出してきた。
武家は我ら皇統に口出しできる存在であると今でもおもうか」
佐竹義敦は震えながら言った。
「いえ、滅相もございません」
今上帝は二人の言葉に頷いた後沙汰を下した。
「では、足利直冬、そなたは下野守に任ずる。
そなたは足利の残党を取りまとめ皆朕に従わせよ。
佐竹義敦そなたは常陸守に任ずる。
そして二人は奥羽鎮守府の北畠顕家のもとにて
朕のために働くがいい」
「ははー」
「ありがたき次第にございます」
こうして二人はそれぞれの国で生き残っている親族や国人を取りまとめて、奥羽鎮守府将軍の北畠顕家の下で働くことになった。
まあ、鎌倉を争った新田の下で働くより名門貴族の北畠顕家の下のほうが納得も行くだろう。
こうして関東の制圧は無事終わり、北陸は加賀の富樫高家、能登の吉見頼為、越中の井上俊清も脇屋義助の軍の前に皆降伏した。
仮に脇谷を打ち破っても、俺たちは無傷で残ってるから、無駄な抵抗をして滅亡するつもりもなかっただろう。
こうして俺達は北陸・中部・東海・関東に残っていた足利方をすべて制圧し、北条と足利を朝廷の下に組み入れることにより朝廷の武家に対する優位を日本中に知らしめた。
今上帝は摂津の難波宮の再建を宣言し、再建でき次第遷都を行うものとした。
これは山城の盆地の中の平安京が守りずらいのと比叡山や園城寺などの影響を受け易いからで、寺社の移転は禁ずるものとした。
そして、天皇を超える権力を持つ摂政・関白・征夷大将軍は廃止された。
また鎌倉府・六波羅探題・鎮西探題・長門探題・大宰府を廃止した。
鎌倉府は関東鎮守府、太宰府は九州鎮守府との統合になる。
さらに、戸籍を6年に1回作成することを定め、朝廷の祭祀を所管する神祇仏官は内務、軍務に口出しを一切できなくなった。
『官司請負制(かんじうけおいせい=官職の世襲制)』についてはとりあえず中級貴族の家系の実務的なものに関してはそのまま残した、秘伝とされるようなものも多いしな。
後醍醐天皇の出した『旧領回復令(個別所領安堵法)』は完全に廃止して『諸国平均知行安堵法』を引き継いだ土地あらそいや水争いに関しては、各国の国司が担当だ。
個別所領安堵法実質的にもう機能していなかったがまあいちおうな。
土地に関する争いはまだこれからも続くだろう。
幕府や建武新政が出した徳政令で損をした悪党が土地を奪ったところもたくさんあるが、生き残ってる武士の領地だったところもあるだろうしな。
諸国の神社仏閣には諸宗寺院法度、諸社禰宜神主法度も発布して寺社仏閣の統制を行うことにした。
今まで寺社には好き放題されたからな。
諸宗寺院法度は
諸宗の法式を乱さないこと。作法の悪い者がいれば必ず処罰すること。
一宗の法式を理解しない僧侶を住持にしないこと。また新規の法式や奇怪な説を唱える事を禁じること。
本寺・末寺の秩序を乱さないこと。本寺は末寺に対して理不尽な振舞いをしないこと。
寺請の選択は檀家の意思に基づき、僧侶が檀家を奪い合ってはならないこと。
僧侶が徒党を組んだり、争いを起したり、副業をすることを禁じること。
国法に反した者が寺に逃げ込んで来た場合は、届け出た上で、異議なく追い返すこと。
寺院仏閣を修復する時は美麗に拘らないこと。また清掃は怠けることなく行わせること。
寺領の売買・質入を一切禁じること。
たとえ在家の弟子の希望であっても、正当な理由なく出家を認めてはならないこと。
もし認めるべき理由はないが出家したいという者が現れれば、所属する領主・代官に相談して判断を委ねること。
僧侶の装束は分限に応じ、仏事儀式は、檀那が盛大にしてくれと望んでも、相応に軽微にすること。
檀那が新たに寺院を創建した場合、檀那と本寺に相談の上で住持を決めること。
住持の後任の契約に金銀を用いてはならないこと。
在家に仏壇を構えて寺として利用してはならないこと。
他人はもちろんのこと親類であっても、寺・僧房に女性を泊め置いてはならない。ただし、今まで通り妻帯を続けている者(宗派)は例外であること。
となっており
諸社禰宜神主法度は
僧侶を神職の神祇道への精進と精勤などへ置き換えたものだ。
この際に真言密教立川流と天台玄旨帰命壇は邪教認定した。
要するに僧や神人は正道に立ち返り修養や護持護国をきちんと行なえということだな。
また、各省庁の官僚を学力で登用する科挙つまり学力試験を復活させ、高位の貴族の子弟だからといって自動的に官職が与えられる制度は廃止した。
内務に関しての尚書省では太政官として万里小路藤房が左大臣、北畠具行が右大臣、四条隆資が大納言となった。
軍務に関しての兵部省ではトップの兵部卿は俺だ。
しかし、書類仕事をこれ以上増やされても死ぬぞ。
次官である兵部大輔は菊池武時、兵部少輔は新田義貞だ。
兵部では陸軍部と海軍部をわけ
科挙要するにテストに合格したものは誰でも兵部省への道が拓けるようにした。
これは各鎮守府ごとに設置され
陸軍兵学寮(陸軍士官学校)
海軍兵学寮(海軍士官学校)
薬師兵学寮(軍医学校)
造兵学校(武器作成学校)
主船学校(造船学校)
などが作られた。
司法機関の刑部省の長の刑部卿は北畠顕家である。
まあ、こいつなら不正はしないだろ。
また現在の各地に配属された人物はこんな感じだ。
因みに時代にそぐわない親王任国制度は廃止だ。
常陸国、上総国、上野国も守を普通においてるぜ。
奥羽鎮守府 陸奥国・多賀城
鎮守府大将軍・北畠顕家
陸奥守・北畠顕家
出羽守・北畠顕家
常陸守・佐竹義敦
下野守・足利直冬
関東鎮守府 相模国・鎌倉
鎮守府大将軍・新田義貞
上野守・新田義貞
武蔵守・新田義貞
相模守・新田義貞
上総守・千葉貞胤
下総守・千葉貞胤
安房守・千葉貞胤
伊豆守・北条時行
駿河守・菊池武敏
甲斐守・武田政義
信濃守・村上信貞
遠江守・菊池武敏
北陸鎮守府 加賀国・本吉湊
鎮守府大将軍・脇屋義助
越後守・脇屋義助
佐渡守・脇屋義助
能登守・吉見頼為
越中守・井上俊清
加賀守・富樫高家
飛騨守・姉小路家綱
越前守・楠木正家
若狭守・楠木正家
近畿鎮守府 摂津国・難波宮
鎮守府大将軍・楠木正成
三河守・楠木正氏
尾張守・楠木正氏
美濃守・土岐頼貞
近江守・佐々木道誉
山城国・天皇領
大和国・天皇領
伊勢守・楠木正季
伊賀守・楠木正季
志摩守・楠木正季
摂津守・楠木正成
和泉守・楠木正成
河内守・楠木正成
紀伊守・楠木正成
丹波国・天皇領
丹後国・天皇領
播磨守・赤松円心
但馬守・赤松円心
中国・四国鎮守府 長門・長門探題跡地
鎮守府大将軍・島津貞久
因幡守・名和長生
伯耆守・名和義高
美作守・宇都宮公綱
備前守・児島高徳
備中守・和田範長
隠岐守・塩冶高貞
出雲守・塩冶高貞
備後守・桜山慈俊
安芸守・毛利貞親
石見守・三隅兼連
周防守・大内弘直
長門守・厚東武実
淡路守・楠木正成
讃岐守・楠木正成
阿波守・島津貞久
伊予守・土井通増
土佐守・長宗我部信能
九州鎮守府 筑前国・太宰府跡地
鎮守府大将軍・菊池武時
筑前守・原田種宗
筑後守・秋月種道
豊前守・新田義基
豊後守・大友貞順
肥前守・菊池武時
肥後守・菊池武時
日向守・土持宣栄
薩摩守・谷山隆信
大隅守・肝付兼重
壱岐守・楠木正成
対馬守・楠木正成
さて、この延元の法被に強く反発したのが寺社勢力だ。
「やっと、武家との争いが終わったとおもったら、最後は寺社か。
坊主どもは坊主の本道にもどれって言ってるだけなんだがな。
まず興福寺が俺、楠木正成の「井水違乱」を訴え、京に向けて神木動座した。
さらに比叡山も同調して神輿動座を行った。
春日大社は藤原氏の氏社で隣接する藤原氏の氏寺である興福寺と一体の存在だ。
興福寺は神木を興福寺金堂に移し、石上神宮・吉野勝手明神両社に神輿の派遣を要請、更に東大寺などの南都七大寺にも支援を要請したうえで、僧兵である衆徒以外の興福寺領の荘官が農民田堵を動員して人数を揃え、興福寺僧綱を前面に出し、春日大社社司・神人に神木を奉じさせて衆徒・神人が法螺貝の音とともに隊伍を組んで京都に向かって進発し、奈良坂・木津・宇治を経由して京に入洛、御所の前に神木をかざして朝廷を威圧した。
春日神木の動座が行われ入洛中は藤原氏の公卿・官人は謹慎・籠居となり、これに従わない者、強訴を非難・無視する者は藤原氏から放氏処分とされ、そのため政務が行えなくなり、今までは最終的には興福寺側からのどのような無理な要求でも罷り通ったのである。
神木が奈良に戻る「神木帰座」の際には藤原氏の公卿・殿上人が洛外あるいは奈良まで供奉して春日大社に祈謝する事までさせていた。
彼らはいつものように神木や神輿を京都に安置したまま社司らが奈良や山門へに引き上げるけいった。
さて、今回はどうしたかというと、藤原氏は謹慎していたが源氏や平氏や橘氏は関係なく仕事をしていた。
興福寺側は藤原氏ではないものを放氏することが出来ず、政権が普通に運営される状況を見せられた。
日吉大社の神輿に至っては園城寺によって奪われてしまった。
結果として強訴は失敗し、興福寺・延暦寺側が実質上の全面敗北に至った。
「ばか共がいつまでも古い慣習が通じるとおもうなよ」
強訴が失敗した興福寺は兵を集めて乱を起こそうとしたが、俺や正季の派遣した兵により衆徒の僧兵が壊滅するに至り、諸宗寺院法度を受け要らざるを得なくなった。
しかし、比叡山の方は少し面倒なことになった。
加賀・越前・美濃の白山系神社が衆徒を集めて蜂起したのだ。
美濃の衆徒は土岐頼貞によって早めに鎮圧されたが、加賀守の富樫高家、越前守の楠木正家……は俺の弟だが鎮圧に苦労しているようだ。
だが、取って返して俺は越前に向かい越前の衆徒を鎮圧し、加賀には脇屋義助が向かって白山衆徒の鎮圧に成功した。
最後の手段の武力蜂起も失敗した比叡山は諸宗寺院法度を受け要らざるを得なくなった。
そしてその後高野山や園城寺の邪教殲滅部隊により真言密教立川流と天台玄旨帰命壇に類するものはすべて焼かれ、僧たちは皆殺しとされた。
「これでようやっと平和になるかな」
寺社の権威と武力による抵抗を鎮圧して、名実ともに今上帝は日本におけるすべての権力の頂点へ至ったと言っていいだろう。
ただし建武の失政の反省を活かし、政権運営は合議制としたがな。




