周防・長門・石見攻略
さて四国の制圧が終わったら、次に目指すのは中国の西端の周防・長門・石見だ。
「これより長門に向かい山陽、山陰の中国を制圧する。
みんな連戦で悪いが、頑張ってくれ」
「いや、俺たちの平和のためでも在る。
気にしないでくれ」
河野水軍の棟梁で河野宗家の通盛がいった。
まあ、河野も承久の乱で没落して以来、宇都宮や厚東、大内に圧迫されていたからな。
さて、瀬戸内海から日本海に抜ける時にはどうしてもこの近くを通るから、いつまでも武士側に居られるのは色々都合が悪い。
長門には厚東武実と斯波高経がいる。
厚東氏は、物部守屋を祖とした古い家柄で、治承・寿永の乱において、初めは平氏方として一ノ谷の戦いに加わり、その後源氏方に転じ、壇ノ浦の戦いでの軍功が認められ、厚東郡主となり、文永の役・弘安の役においては、鎌倉幕府の命令によって大内氏とともに出陣し、元弘の変に際しての軍功が認められ、厚東武実は建武元年(1334年)長門守護に補せらた。
一方の斯波氏は足利宗家4代当主の泰氏の長男・家氏から始まる名門で、成立当初より「足利」の名字を公称し、家氏以降の代々の当主が尾張守を称したため足利尾張家と号するなど、他の足利一門とは一線を画す高い家格を有した。
こんな両者だが当然、足利尊氏が死んだことにより対立し始めた。
「なら両者の争いを利用させてもらうか。
劣勢でこっちににしたがいそうなのは……厚東武実の方だろうな」
元弘の乱のとき、厚東武実は鎌倉幕府の劣勢をみるや、長門探題北条時直から離反してこれと戦い、その戦功で長門守護職に就いたが、この事は豊田氏・岡部氏など北条氏に従っていた他の国人領主の反感をかっていたし、社殿の再建を希望していた長門国の一宮である住吉神社と二宮である忌宮神社は期待していた保護を受けられず、これを不満に思った両社は斯波氏に内応した。
俺は厚東武実に太宰府政権軍に従うように使者を送り、厚東武実は俺の圧力にあがいきれず従った。
俺達は伊予の土居・得能・河野の水軍に手伝ってもらい、5000の兵を率いて長門に上陸し、住吉神社と二宮である忌宮神社に寄進を行い、厚東武実と両神社の兵を共に合わせた8000の兵で斯波高経打倒の兵を挙げた。
その間長門の領民より高値で米を買い漁ることで斯波高経らに兵糧を用意させづらくする工作も同時に行った。
豊田氏・岡部氏など北条氏に従っていた他の国人領主は斯波高経についたがこちらの兵数は4000前後だった。
俺は厚東武実を先行させてわざと敗走させ、其れを追いかけてきた斯波高経の兵を伏兵をもって、撃ち破り斯波高経を討ち取り、その他の国人は降伏した。
厚東武実はこの功績で長門守護に再任し、長門守も兼任となった。
「よし、長門を落としたあとは周防だな。
この勢いで打ち破るぞ1]
「おおー!」
周防は新田義政と大内長弘が留め置かれていたが、新田義政は名前の通り新田義貞と同じ新田氏だ。
だが建武の新政の時に恩賞を受け取れなかったため、足利尊氏に従って鎌倉の中先代軍の討伐に従った、新田氏が足利氏以上に源氏の嫡流に近い血筋なのは言うまでもないな。
一方の大内長弘は鷲頭氏の養子として宗家から鷲頭氏に迎えられ鷲頭長弘と名乗っていたが、大内氏は百済の聖王の第3王子である琳聖太子の後裔と称しており、大内村に居住したことから大内を名字としたとする古い氏族で平安時代後期には在庁官人として大きな勢力を持ち始め、平安時代末期には周防介になり鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、実質的な周防の支配者となり、鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命された。
そして現状では大内家の当主・大内弘幸と叔父の鷲頭長弘が抗争中な上に、新田義政も加わって三つ巴のどろどろの勢力争い中だ。
「要を失って勢力争いしてるのは助かるな。
これが一致団結して立ち向かわれたら大変だったが」
まずは新田と争う大内だが弘幸の弟弘直がこちらに従い挙兵、俺達は大内弘直の案内を受けて、鷲頭長弘と弘幸を攻撃し鷲頭長弘を降伏させ、大内弘幸を自刃に追い込んだ。
その勢いで新田義政にも攻撃をくわえ手勢の少ない新田は壊滅し自刃に至った。
こうして周防も平定され大内弘直が周防守兼守護となった。
最後は石見だ、石見は周防長門に比べ小さな勢力が割拠してお互い争っていた。
石見には上野頼兼が派遣されていて上野の家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の支流だ。
石見では上野頼兼についた益田氏・小笠原氏・出羽氏・吉川氏・吉見氏と三隅氏・周布氏・佐波氏・高津氏・内田氏が争っている。
上野と敵対しているなかでも最も大きな勢力の三隅氏は益田氏の一族だが、元の襲来に備え石見ではも例外ではなく、三隅兼連は惣領・益田氏の指示に従って高城を築城、さらに、三隅石塁・針藻島砦・碇石砦の、三隅三砦を築き弘安の役で元軍を撃退したが、これらの働きに寸土の加増もなく、築城費用の負担で疲弊した兼連は、幕府や惣領・益田氏をうらむようになったらしい。
これにより三隅氏は、徐々に益田氏から独立を図るようになり、三隅氏の領地が益田氏の領地とは地理的に隔絶されていたこともあって、反幕の姿勢をとる後醍醐天皇に期待し、伯耆国船上山において挙兵したときに、高津長幸・佐波顕連などとともに一族をひきいてこれに参じた。
足利尊氏が後醍醐天皇に離反したとき惣領の益田氏は足利方についたが、三隅兼連は益田氏に対して兵を挙げた。
上野頼兼は自分自身の兵にくわえ益田氏などの国人の軍を率いて三隅兼連のこもる三隅高城を攻めたが、三隅兼連の奮戦によって上野軍は敗北した。
三隅兼連の軍に俺たちは合流して反撃に転じた。
北朝方の益田兼見のこもる益田七尾城を攻撃しこれを落城させ上野頼兼、益田兼見を自刃に追い込んだ。
これにより旧足利方についた他の国人たちは降伏してきた。
三隅兼連はこの功績により石見守兼守護となった。
俺は石見銀山の大内弘幸が発見していたらしい石見の銀山を探し、銀峯山で銀の露天掘りを開始した。
「石見の銀山は日本最大らしいからな。
俺達の政権運営のため有効活用させてもらうとしようか」
ついでに大陸から灰吹法の技術を持つものを呼び寄せるとしよう。
そうすれば銀や銅から鉛が取り出せるだろう。




