滋子の懐妊と地歩固め
結局正中の変による今上帝の六波羅攻撃は計画がずさんすぎて全くうまくいかなかったわけだが、今上帝がそんな計画を立てた背景には、父である後宇多院の残した荘園の譲り状と文保の和談にあるのだろう。
当時の尊治親王が死んだ後はすべての荘園は邦良親王に譲り、皇位は邦良親王の子孫に伝えるべきという、この譲り状がある状態で邦良親王が生きており鎌倉幕府も健在であれば、やがて譲り受けた荘園はすべて兄である後二条天皇の子である邦良親王すべて譲り皇位継承どころか皇統としての血筋断絶すらありえるわけだからな。
この時代では鎌倉幕府が皇位継承に口を全く挟まなくなったため、両統迭立の約束の遵守が濃厚になってきており、今上帝の前の花園天皇は在位10年という約束をちゃんと守った為、其れによるならば今上帝は1328年には退位をしなければならなかったから、あまり時間はなかったわけだ。
さらに言えば寺社人事や荘園訴訟、経済政策などでも鎌倉幕府とぶつかるところが多く出てきた。
それらの要因もあり今上帝も少し焦っていたのだろうな。
一方の邦良親王にも鶴膝風これは結核性膝関節炎で、健康上の問題が有った。
正中の変の発覚とその失敗に故法皇の側近や邦良親王の側近達は鎌倉幕府に後醍醐天皇の退位を要請する一方、持明院統にも次期皇太子を約束して協力を求めたが、今回の件に関わりなしと後醍醐天皇は強く反発し、幕府に釈明と譲位繰り延べの要請をした結果、邦良親王の使者と後醍醐天皇の使者が立て続けに鎌倉に派遣された。
幕府内部の権力争いのゴタゴタで朝廷にかまっている余裕のなかった鎌倉幕府は結局動かなかった。
そんな中、滋子が懐妊した。
「こんな歳になってから子ができるとはな。
なんだか面映い気持ちだ。
無事に元気なややこが生まれるよう神仏に祈ろう」
「はい、健やかな子が生まれることをお願いください」
俺は神社に安産祈願のため寄進を行って神仏に加護を祈るとともに、産屋を立て出産の準備に備えた。
「おいおい、気が早すぎるだろう」
神宮寺はそう言って笑ったが、俺にとっては一大事だ。
なにせ初めての子供なのだから。
其れとともに淡路、讃岐、伊予、阿波、伊勢、志摩、伊賀、尾張などの豪族と友好関係を結び、その土地の開拓や植林の助力やその土地の特産品の売買契約を結ぶ事で、周囲一体の地歩固めをすすめた。
いざという時には陸続きの紀伊半島ではなく四国や九州に本拠地を移せればいいのだがな……。
もちろんこのあたりの海賊たちは俺の勢力下に入っている。
一方の今上帝だが正中の変の結果による朝廷の武力の無さを痛感したようだ。
そして、もともと天皇家とは古来より根深い関係性にある寺社との関係を深め寺社の抱える僧兵や神人の力を借りようと考えたようだ。
もちろんここで言う寺社というのは比叡山の天台と高野山の真言、そして南都の興福寺などの南都六宗だ。
真言密教立川流の文観を正式に護持僧に取り立て、真言密教に帰依し、真言密教立川流に帰依している武士を文観は密かに後醍醐天皇に紹介し、その手駒とさせた。
南都興福寺に度々参詣を行い南都六宗の僧兵も味方につけようとした。
これは宗教勢力に首根っこを押さえられる行為だとわかっていたのかどうかは分からないが、御家人は当てにできないと思ったのは間違いないのだろう。
其れとともに北畠親房中心に赤松円心や名和長年といった村上源氏ならびに村上源氏に関わりのある者を勢力下においたようだ。
北畠親房や赤松円心は大塔宮とも関係が深いが、家格の低い万里小路と違って清華家の生まれである北畠親房にとっては俺は眼中にないらしい。
まあ、別にいいがな。




