おはよう
寝かされた師匠の隣で本を読んでいると、少し衣擦れの音がした気がして視線を師匠に向けた。
寝台に寝かされたままの師匠は、確かに両目を大きく開いている。
「し、しょ……」
感極まって腰を浮かせた僕の反応をよそに、再び師匠はぎゅっと瞼を閉じた。
まるで現実を受け入れるのを拒否しているかのように。
「いや、今起きましたよね」
思わず冷静に言うと、師匠は両目を子供のように閉じたまま口だけ動かした。
「これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ」
今一番言ってはいけない言葉を発した師匠に、それでも周囲の惨状からそう言いたくなる気持ちも理解した。
「残念ながら現実です」
僕が悲しい事実を告げると渋々師匠は体を起こし、視線を周りに向けて顔を引きつらせる。
その気持ちはよく分かる。今の安眠堂は竜巻でも室内で起きたかのような状況だった。
窓は割れ、棚は傾き、本は散乱して足の踏み場もない有様である。
前も碌に片付いてはいなかったが、比較にならない荒れようだった。
「一体いつの間に我が安眠堂は廃墟に……?」
「五回です」
「何が」
「僕が、ローリーさんとジュードさんの戦いを止めた数」
それで全てを悟った師匠は頭を抱え、悶えるような声を漏らす。
「これが、現実ッ……」
師匠は僕に感動の再会も素直にさせてくれない。それが全く、師匠らしかった。
ほんの少し不安だったのだ。
あの夢の世界の師匠のように、今までと違う対応をされるのではないかと。
それが杞憂だったのに安心したのを、悔しいので顔には出してやらない事にする。
代わりに大人ぶったすました顔をして、いつもの朝のように師匠に声をかけた。
「師匠。おはようございます」
師匠は耳慣れない言葉を聞いたかのようにきょとんとして、その後僕が言った意味を理解して柔らかい笑みを浮かべた。
「ああ。おはよう」
それは普段通りの僕を見守るかのような優しいもので、僕が何よりも求めていた温かさだった。
目覚めの挨拶をいつも通り。あれは全て夢の中の出来事だったのだから。
「少し、かっこ悪い所を見せてしまった」
きまり悪い顔をして、師匠は目を伏せる。
普段、無駄に自信にあふれている師匠も今回ばかりは落ち込んでいるようだ。
「師匠はいつもかっこ悪いです」
信じられないといった表情で、僕に顔を向ける。
「でも、そんな師匠が僕は大好きですよ」
すると師匠の引きこもりによる白い肌が、赤く染まっていくのが見えた。
思わず笑ってしまったのを見とがめられ、師匠は唇を突き出して不機嫌な顔になる。
「まったく。とんでもない弟子だね」
「師匠が素直じゃないから、僕ぐらい素直じゃないと大変でしょう?」
笑いながら言った僕に、師匠は諦めの溜息を吐いて僕の頭を撫でてくる。
それが随分心地よくて、目を閉じてその優しい手つきを堪能した。
しかし師弟の空間を隣の部屋から破壊音が邪魔をする。
ガラスが割れたような音に、さすがの師匠も片眉を上げて嫌そうな顔をした。
「嫌な予感しか、しないんだが」
「お願いします。僕はもう限界です」
師匠は伸びをして鈍った体をほぐすと、ぎこちない動きで寝台から降りる。
そして隣の部屋に向かい、今正に六回目の戦闘を始めんばかりに武器を構えていた二人に顔をひきつらせた。
「ねぇ、キミ達。一体何してるのか聞いていいかな?」
二人は一斉に師匠に視線を向け、起きたという事実に驚いて目を見開く。
ジュードさんは師匠が目覚めた事を理解した瞬間、気を緩ませて剣を鞘に納めた。
これ以上ローリーさんを相手にしなくて済む事が分かったからだ。
一方ローリーさんは手に生じさせていた炎を霧散させると、口角を吊り上げて凄みのある笑みを作る。
この建物を吹っ飛ばすのではないかという迫力だったが、師匠は全く動じずに大股で近づいてくるローリーさんを呆れた目で迎えた。
「目覚めたか」
「見ての通り」
「もう少し遅ければ、安眠堂の店員が一人いなくなるところだったな」
師匠は眉間に出来た深い皺を指でほぐし、ジュードさんの方にちらりと視線を向ける。
その視線を正しく理解したジュードさんは、レースがふんだんに使用された少女趣味なワンピースを掲げる。絶望するほど師匠には似合わない。
今回の戦闘の原因となった、ローリーさんが師匠へ着せようと持ってきた代物だ。
寝ているのをいいことに、好き勝手飾り立てようとする彼を止めるのにどれだけジュードさんが苦労したことか。
そのワンピースも、もしも実現されていたなら師匠の大事な何かが確実に失われていただろう。
絶対零度の白い視線を師匠はローリーさんに向けたが、相手は全く意に介さない。
「フランキー。俺は今まで寛容だっただろう。その仕打ちがこれだ。
お前は俺を友としながらも、結局は見捨てたのだ。
ならば俺がお前を気遣ってやる道理はない」
ローリーさんは自分に何も告げず、死地に赴いた師匠に対して怒っていたのだろう。痛い所を突かれたのか、師匠は一瞬口ごもる。
「う、ま、まあ……悪かったとは思っている。ローリー」
「一戦相手して貰おうか」
「絶対に嫌だ!!」
爛々と目を輝かせるローリーさんに、師匠は悲鳴のような叫びをあげた。
「まったく! 学生時代から、ローリーの勝ちでいいっていってるじゃないか!
どうしてそう何度も突っかかってくるんだ!」
多分、その理由は単に構って欲しいだけだと思います。
師匠が寝ていた間のやり取りで、僕はローリーさんの不器用さに薄々気が付いてしまったのだが本人を前に言えるはずもない。
師匠は深い深い溜息を吐く。そして困りながらも上目遣いでローリーさんを見上げ、小さく微笑んで言った。
「まあ……それでも今、君がいてくれて嬉しいよ。ありがとう」
今まで不敵な笑みを浮かべていたローリーさんの体が、不自然に硬直する。
おいおい嘘だろう。この戦神の化身のようなローリーさんが。
外見の美しさ故に、女性などより取り見取りだろうローリーさんが。
骸骨かミイラか迷うような、性別を星のかなたに捨てて来たかのような、師匠の上目遣いが胸のどこかに直撃したらしかった。
二人の反応を思わずまじまじと観察してしまうが、師匠はローリーさんの心情になど全く気付かず、言葉を続けた。
「ローリーが友で良かった。誇るがいい! 私の友人の席はそう多くはないぞ!」
その瞬間ローリーさんの周囲にブリザードが吹き荒れた気がしたが、最もそれに気づかねばならない人物は馬鹿笑いをしながら照れ隠しに胸にチョップしている。
彼らの学生時代のやり取りが、何となく分かった気がした。
僕は師匠に彼の感情を言ってやりたい気持ちになったが、それを伝えた時に起きるだろう災害までも予見し、全てを飲み込んだ。
疲れた様子で散乱している本を片付けているジュードさんにも視線を向けたが、彼も無言で静かに首を横に振る。
ごめんなさい。僕は保身に走りますと、胸の中だけで懺悔した。
師匠はひとしきりチョップし終わると、まだ硬直したままのローリーさんを放ってジュードさんに声をかける。
「ジュード、おはよう。迷惑かけたね。」
「おはよう。起きたなら、いい」
二人のやり取りはそれだけだった。けれどどちらも満足そうで、十分通じ合っているように見える。
それが少し、羨ましかった。
僕はジュードさんを手伝って物を片付けながら、首を傾げる。
「結局、夢魔は何だったんでしょうね?」
師匠は動かないローリーさんを邪魔そうに脇に押しのけ、いつもの揺り椅子にどっかりと座った。
「ん? んー、そうだなぁ」
僕の質問に興味をひかれたらしく、床に落ちている一冊の本を横着して手を伸ばして取る。
ぱらぱらとめくり、古びたインクで書かれた一説を読み上げた。
「神代の時代。人という種族を愛した知恵の神がいた。知恵の神は求めるがままに力を使い、人に知恵を授けたという」
絵本を読むような静かな語りに、耳を奪われる。
「ある時、予言の神が言葉を授けた。
知恵の神が生きていれば世界は滅び、知恵の神が死ねば人は滅びるだろうと。
だから知恵の神は深い眠りに落ちる事になった。死にもせず、生きもせず。
そして哀れんだ神々は、一つの窓を作ったという。孤独を埋めるための、現実と夢を行き来する窓を」
「それが、夢魔の正体ですか?」
師匠はにやっと笑い、大きく本を閉じて静かな空気を吹き飛ばした。
「さてね! 当の昔に神々なんて何処かに行ってしまったらしいし、答えを知る術はないよ。ただ、そんな話もあった」
そう言って窓の外を覗き込む。外の世界は青空の下に、見慣れた汚れた路地裏があった。
そこには美化できない、僕たちの毎日生きる世界が広がっている。
「神話は所詮、神話に過ぎない」
手にした本をそこらにぽいっと投げた師匠は、頭で腕を組んで椅子を揺らす。
いつもの昼寝場所でリラックスしている様子に、いつものようにジュードさんが咎めるような声を出す。
「寝るなよ?」
「寝ないさ」
師匠は椅子から降りると、それを証明するかのように大きく背伸びをしながら言った。
「ここが私の、現実だからね」




