01
深夜。フィーニスアイランドの空は天満月だった。
プレイヤー達がほとんどいなくなった真夜中のイニティウムは、一日の中で最も静かな時間である。
それはいつものこと。
特別なイベントがない限り、この世界の夜中は静か。そのはずだった。
普段より輝く夜空の下、狭い路地を走る月影が二つ。その影の周りだけは緊迫した空気に包まれていた。
「だ、誰かっ!」
女性の途切れ途切れな悲鳴が、静寂に包まれた古都に響く。
時間を少し遡る。
NPCのシルシアは勤めている喫茶店の仕事を終えたところだった。可愛らしい制服から私服に着替え、店内に誰もいないことを確認すると、明かりを消す。
今日はシルシアが週に一度の閉店当番の日で、片付けの作業を手早く済ませることができ、いつもより早い時間に終えることができた。
といっても、時計の短い針は既に日を跨いで一の数字を過ぎている。
こんな生活が始まってからもう八年。シルシア自身、遅い時間という感覚は消えていた。
帰宅するついでにゴミ袋を外に出す。これで完全に本日の仕事が終わりになる。いつもやっていること。いつもやっていたからこそ、いつもとは違う些細な変化に気づいてしまったのかもしれない。
カチャリ。カチャリ。そんな鋭いものが地面を突くような音が不意に聞こえてきたのだ。
「……?」
なんの音だろう? 普段は聞くことのない音にほんの少し興味を持ってしまったシルシアはゴミ袋を置き、音の聞こえる方向に足を向ける。
誰もいない夜の路地。初めのころはシルシアにも怖いと思う事もあったこの夜道も、今では何も感じることはない。だからか、恐怖心よりも興味心の方に天秤が傾いてしまったのかもしれない。
平然とした面持ちで足を進め、音のした路地に顔を出した。
そこに立っていたのは凄く細い〝なにか〟だった。立っているのが不思議なくらい細いなにかは、こちらに気づいたかのように振り返る。
音を立てる正体と目が合うか合わないか分からないその瞬間、彼女は一目散にその場を離れた。
(な、なにあれっ……!)
興味本位で覗いてしまった自分を強く呪う。
今まで見たことのない生物だった。それがこの古都を徘徊している。それだけで彼女の恐怖を引き立てるには十分だった。
そして、最近耳にした噂がふと頭に中に浮かぶ。
最近、NPCを狙った殺人が多発している。
そんな噂が今NPCの間で流れ始めたのは一ヶ月ほど前からだった。ありえない話である。街の中から出ないNPCが殺されるわけがない。街の中ではあらゆるダメージが無効にされる。この世界の絶対的なルール。だから無力なNPCは街の外に出ないのだから。でも……。
今目にした〝ありえない者〟と、ありえない噂が嫌でも重なってしまう。
もし噂が本当で、その殺人の犯人が〝アレ〟だったら……。
想像が膨らみ、血の気が引いていく。
カチッ、カチッ、カチッ……。
不気味な音がはっきりと迫ってくる。
振り返ってはダメ。そう頭では思っても自然と首が後ろを向いてしまった。
そこにいたのはさっきの細いなにか。関節がない四肢を思いっきり振り上げてシルシアを追って走ってきている。
「っ!? だ、誰かっ! 助け……っ!」
未だかつて感じたことのない恐怖が込み上げてくる。焦りのあまりシルシアの助けを求める声は喉に絡まり、上手く発音できない。
殺される。
そう自分の本能が訴えてくる。本来NPCが生涯感じることのない恐怖。だって、街の外に出なければ死なないことは約束されているのだから。
走って、メインストリートに出ないと……!
メインストリートまで行けばもしかしたらプレイヤーがいるかもしれない。
ぐちゃぐちゃになった頭の中で、それだけを捻り出す。
プレイヤーは強い。NPCである自分達なんかに比べれば天地の差があるほどに。プレイヤーならあの〝ありえないもの〟をなんとかしてくれるかもしれない。だから早くプレイヤーに助けを……。
「ぇっ……?」
次の瞬間、驚くべき物が視界に映った。
自分は転んでいないのに視界がどんどん下がっていくのだ。そして、頬が地面とぶつかり、転がる。
(転んだ? こんな時に!?)
……いや、違う。転んでなんかいない。自分の足は躓いても、もつれてもない。自分はまだ走っているはずだ。だってほら、その証拠に……。
走っている自分が視界に映っているじゃないか。
(……あれ?)
走る自分の背中が確かに目に映る。凄い違和感だった。だって自分の背中が自分の目に映ってるのだから。
やがて自分の前を走る自分の背中がバタリと倒れた。
(ああ、そうか。そうだったんだ)
現状を理解したのにかかった時間は一秒とちょっと。次第に視界がぼやけていく。
(私、首を落っことしちゃったんだ……)
人は首を切断しても二秒間意識があるらしい。
シルシアの見たありえない二秒間の視界の原因は、まさしくそれだった。




