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怖い。怖い。怖いよお姉ちゃん。
まだこの世界で一度もHPをゼロにしたことのないラテリアにとって今の状況は耐え難い恐怖だった。
死んじゃう。
言葉では語り尽くせない絶望感と戦慄。
足が震えて立つのがやっと。なのに……なんでイトナくんは立ち向かえるの?
ラテリアと同い年の小柄な少年が堂々とヨルムンガンドと対峙している。勇敢に立ち向かう姿にラテリアの目が釘付けになった。
上から、下から、左右から、様々な小さな穴から次々と踊るように湧き出てくるリトルガンド。
ヨルムンガンドの取り巻きである小さな蛇達は瞬く間にイトナを囲った。取り囲んでもなお湧き続けている。
「シャアアアッ!」
ダンジョン主の合図と共に大量のリトルガンドが一斉にイトナに飛びかかった。
「っ!」
言葉を失った。
四方八方からの攻撃、絶対に避けることの出来ない攻撃の壁がイトナを中心に狭まっていく。
もうダメ。
そう思い目を逸らそうとしたその時、漆黒の光がリトルガンドの隙間から漏れた。
ほとんど重なったいくつもの銃声が鳴り響く。
高速で幾つもの放たれた弾丸は周りのリトルガンドを貫き、ーーーー殲滅した。
「嘘……」
さっきまでイトナを飛び掛っていた何十匹ものモンスターが一瞬で。
ぼんやりと残る光の名残を纏う少年の姿は、歳に似合わない圧倒的な存在感を放出していた。
イトナ。
かつてたった五人でフィーニスアイランドの頂点に降臨した伝説のギルドメンバーの一人。
四年経った今でもその表舞台から降りたとは思えない確実な実力。
全アイランドの頂点の決定に近づけた戦に大きく貢献したイトナはホワイトアイランドに止まらず、全アイランドのプレイヤーから一目置かれることになった。
その時についた二つ名はーーーー 《マガン》。
当時のイトナを知る人にしか意味を理解できない二つ名。しかし、時が経った今になってもなおイトナの二つ名を知らない人は少ない。
突然起きた滅茶苦茶な光景にラテリアは声も出ない。
人間離れしたその圧倒的な攻撃は紛れもなくスキルだ。イトナの出鱈目すぎる強さにダンジョン主も驚き、驚嘆な表情を作ったように見えた。
「ラテリア、難易度3のスキルまで使えるようにしといたから、それでなんとか後ろから脱出を。頑張って!」
槍のようなヨルムンガンドの舌の突き攻撃をいなしながらイトナが叫ぶように言った。イトナのその声に必死さが伝わる。
「スキルが使える? なんで……」
そんな疑問が最初に浮かんだが、そんなのはすぐにもみ消した。今はそんなことどうでもいい。
「は、はい……!」
気づけば足の震えが止まっていた。イトナから目を離し、自分が戦うべき相手、ヨルムンガンドの尻尾に向ける。
スキルが使えるならイトナに支援魔法をかけてあげた方がいいんじゃないのか。いろいろな考えがポンポン出てくるが、首を振って全てを振り払った。
今ラテリアがやるべきことはなんとかしてダンジョンから抜け出すこと。考えるとしたらその手段だ。
なんとか勇気を奮い立たせて、恐る恐る前進する。
魔界に足を踏み入れてしまったかと錯覚する目の前の光景。
毒と尾が踊っている。
打ち乱れる尾、そこから湧き出る粘液は通路の壁との間に膜を作っていた。乾いて膜が破れないように何度も膜を張り直す。
尻尾の唯一の隙間に猛毒の膜。空気で乾けば破れてしまうほどの薄い壁でもラテリアにとっては鋼鉄の壁よりも硬く、頑丈に思えた。
通り抜けられる隙間が一ミリも存在しない。
巨大な尾を前に絞り出した勇気がどんどん弱っていく。
怖じ気づいていく。
こんなの絶対に無理だ。
通り抜けられっこない。
ばちゃり。
毒の粘液がラテリアのすぐ横を飛んで行った。
「む、無理ですぅぅぅ!?」
絶望を目の前に即座に撤退。安全な場所まで戻りイトナに泣きつく。
そんな間もイトナは善戦していた。目にも留まらぬ弾丸でリトルガンドを蹴散らし、ヨルムンガンドの攻撃を上手くかわす。
ただ、それが今のイトナの現界だった。
リトルガンドの再出現が速すぎてヨルムンガンドへの攻撃に手が回っていない。ヨルムンガンドの攻撃に次第に後退しつつある。このまま続ければいつか尻尾まで追い詰められ、二人ともゲームオーバーになる。
「大丈夫! ラテリアならできるよ。頑張って!」
イトナの励ましの声を貰っても無理なものは無理だ。頑張りたいけど、なにを頑張ればいいか分からない。ラテリアはなにもできない自分に泣きたかった。
「どうしよう……どうしよう……!」
焦りと無力感に覆われたラテリアの頭の中はそれだけで埋め尽くされて、なにも見えなくなっていた。
「ラテリア、足元!」
「え?」
イトナが捌き損ねた一体のリトルガンドがラテリアに這い寄ってきている。その事にいち早く気づいたのはラテリア本人ではなくイトナだった。
リトルガンドはこの未開地ダンジョンに見合わないほどの低レベルである40代後半。一対一であればLv.77のラテリアでも十分に倒せる強さ。気をつけるところはリトルガンドの毒はヨルムンガンドと同じ猛毒で、噛まれさえなければどうということはないのだけどーー。
小さいながらもめいいっぱい開けた口がラテリアの足に狙いを定めている。
「いや……っ!」
咄嗟の出来事に反応が出来ない。
間も無くして勢いをつけるために反っていた身体が一気に伸び、飛びかかってきた。
あ、ダメだ。噛まれる……。
身体は動かなくても頭の中でははっきり分かった。
目を閉じるのも忘れて、息を呑み、噛みつかれるその瞬間を目で追う。
「ラテリア!」
その瞬間、黒い稲妻が走った。
空間を割ったような黒い線が通路に沿って現れ、すぐ目の前までイトナが突進するように駆けてくる。
瞬間移動にも近い超高速の移動のまま、イトナと衝突した。
あまり衝撃を感じなかった。イトナに抱きかかえられるようにしてふわりと足が地を離れ、宙に浮く。そのまま押し倒されるように地面に背中をついた。
「大丈夫だった!?」
「ッ!」
自分に覆いかぶさるようにいるイトナを見てラテリアは絶句した。
男性恐怖症だから。男性が、イトナがこんなにも近くに、ほぼ密着してるから。だから絶句したーーわけじゃなかった。
イトナの耳に、首に、頭に、身体の至る所にリトルガンドが噛み付いていた。
毒を体内へ送り込もうと牙を食い込ませている。
「イトナくん……ヘビが……」
震える声でなんとか声を絞り出す。
「大縄跳びは得意?」
「え?」
今の状況に全く似合わない質問に耳を疑う。
「怖くない。大縄跳びと同じだよ。膜だってスキルで破ればいい。大縄跳びよりちょっと難しいだけだから。だから……勇気を出して」
こんな状況でもイトナはラテリアに励ましの言葉を送ってくれる。イトナはそれどころの状態じゃないのに。
「でも、イトナくん……毒が……」
イトナに食い込む牙の隙間から透明な粘液がたらりとタレた。
あのヨルムンガンドと同じ猛毒がイトナの体内に確実に注入されているのが目に見えるようわかる。
「大丈夫。僕は……毒に強いから」
そこでイトナの口は止まった。ラテリアの身体に体重を掛けないように突っ張っていた腕が折れ、ラテリアの上で力なく倒れる。
とうとう猛毒に耐えられなくなったのだ。
死んじゃう。
ゆっくりと、確実に減少していくイトナのHPバーが眼に映る。
もうすぐなのに。頑張って、やっとここまで来たのに。
ーーイトナくんが死んじゃう。
かあぁっ、と全身が赤熱するのを感じた。
ダメ。
ダメだよ!
ラテリアの中で何かが弾けた。
「死んじゃだめええええええええええぇぇっ!!」
思ったことを叫ぶように口から吐き出し、抜け切った全身の筋肉に力を入れた。
倒れこんだイトナと一緒に起き上がって、がむしゃらにリトルガンドを、毟った。
怖い。触るのも怖い。
でもイトナに噛み付く蛇を一匹づつ、しっかりと掴んで力任せに引き剥がした。
全てのリトルガンドを剥がし終わり、ぐったりとしたイトナの身体を支えながら立ち上がる。
出口から反対側の通路から見えたのは、食い止めていたイトナがいなくなったことで猛進してくるヨルムンガンドの姿。リトルガンドを潰しながら迫って来る。そして、壁を埋め尽くすように湧く無限のリトルガンド。
震える歯を噛み締める。
降り注ぐ、飛びかかってくるリトルガンドの牙がラテリア達に届くよりも早く、あらん限りの声で叫んだ。
「ーーーー 《ゴッドウィング》!」
今ここで使える最大の難易度3のスキル。
背中に咲いた神々しい天使の翼をダンジョン奥に向かって力強く羽ばたかせた。
巻き起こった光混じる突風が通路全てを覆う。
地を這うリトルガンドはそれに耐え切れず吹き飛び、猛進していたヨルムンガンドも少しながら動きを鈍らせた。
その隙を見て更に翼を羽ばたかせる。
飛翔。
ラテリアのクラス、天使は空を飛ぶことが出来る数少ないクラスの一つだ。
かといって、大空を飛び回るように用意された翼にとってこの通路は大分窮屈だった。
「痛っ!」
翼の先が壁にぶつかって身体が大きく傾く。
戦うのは苦手、勉強も運動も……男の人だって苦手。でもラテリアには自信を持って得意と言える特技が一つだけある。
空を飛ぶこと。
この世界で空を飛ぶことなら誰にも……多分負けない!
翼を小さく揺らして体勢を整える。振り返って、自分の戦うべき相手と向き直る。
大丈夫。あれは大縄跳び。あれは大縄跳び。あれは大縄跳び……。
一瞬の間に何度も何度も唱える。
ラテリアの力が必要な時がくる。もし僕がピンチになったらーーーー。
イトナの言葉が耳に残っている。今が、その時だ。
勇気を……出して!
巨大な尾を睨むように目を尖らせる。そして勢いよく羽ばたかせた!
突進。
前を向き、目を瞑らずまっすぐ腕を伸ばして狙いを定める。
「《レイニア》!」
スキル難易度1の最初から習得していた聖属性の攻撃魔法。
ラテリアの放った金色の光線は空を貫き、まっすぐと通路を走っていく。
レイニアが猛毒の膜を破ったこと確認できる前に目をギュッと瞑って、そのまま突進した。
イトナを強く抱きしめる。翼でも抱きしめるように前に畳んで、できるだけ小さくなる。羽ばたくのを止めてロケットのように突っ込む。
時間の感覚が狂っていた。
もうあの猛毒と尻尾をすり抜けることができたのだろうか。
それともまだこれからで、尻尾に叩き潰されたり、毒の膜に突っ込んでしまうのだろうか。
怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
次第にイトナを抱きしめる力が強まる。
温かい。呼吸も感じる。イトナの温もりを感じて少し気持ちが落ち着いた。その矢先だった。
「ーーーーぐふっ!?」
不意に訪れた衝撃に潰れた声を漏らす。
ラテリアの動きは完全に止まった。どうやら何かにぶつかったらしい。
ゲームだから痛みは無いものの、片腕でイトナを支えながら頭をさすった。
「痛い……」
目を開けてみると、神社の入り口によくあるような朱色の鳥居が目の前にあった。鳥居は一つだけでは無く幾つも並んでいて、所々にお札が貼られている。
空を見上げるとゴツゴツした岩の谷間から青空が見えた。
ーー青空。つまりここはダンジョンの外。
振り返ると洞窟の中に赤い光が二つ。恨めしそうにこっちを睨んでいた。
ダンジョンのモンスターはダンジョンから出ることが出来ない。
助かった。
助かったんだ。
「イトナくん! やりました! ダンジョンから出れました!」
イトナの肩を大きく摩る。が、返事は無い。薄っすらと目は開けているけど、ぐったりとして身体に力が入っていない。まるで抜け殻のように。
「毒……」
おかしい。ここはゲームの中。だからさっき思いっきり鳥居にぶつかっても痛く無かったのだ。毒も同じはず。ラテリアも数回毒を貰ったことはあるけど、こんな異常なまでの状態になった事はない。せいぜい身体が少し怠くなるだけだ。
周りにモンスターがいない事を確認して衰弱しきったイトナを楽な状態で寝かし、膝に頭を乗せてあげる。カバンにしまった解毒薬入りの試験管を取り出す。
セイナに教えてもらいながら作った解毒薬。それを迷わずイトナの口に注いだ。
ゆっくりと喉を鳴らして薬がイトナの中に入っていく。
全ての解毒薬を飲み干して、イトナの回復を待つ。だけど……。
「なんで……ちゃんと飲んだのに……」
普通、飲めばすぐに回復するはずの毒状態が一向に解除される気配がない。
イトナのHPバーを今一度確認する。
普段、綺麗なエメラルドグリーンをしたバーは毒を表す濁った色に変色し、上にはドクロマークが点滅している。そのドクロマークにラテリアの目が止まった。
「Lv.5の毒……」
ドクロマークと重なるように表示されている状態異常のレベルを見て驚愕した。
中の上に位置するラテリアのレベルでも実際に見たことのある状態異常レベルは3まで。超上級モンスターでLv.4の毒が存在する噂は聞いていたことがあるけど、それを更に超えている。
今さっきイトナに飲ませてあげた解毒薬はLv.2までの毒にしか効かないもので、毒が解除されないのは当然のことだった。
イトナのHPが徐々に失われていく。驚くほどゆっくりだけど、確実に。
「イトナくん。ちょっとごめんね」
イトナの腰に手を回す。確かセイナから解毒薬を受け取っていたはずだ。
アラーネ・リーパーから逃げる途中、インベントリからの取り出す手間を省くためにか、イトナはベルトに差し込んでいたのをラテリアは見ていた。
イトナの持っている最後の試験管に手が触れる。それを取り出して中身を確認した。
解毒Lv4。凄い高いけど、足りない。それでも解毒薬をイトナに飲ませる。
「大丈夫。絶対に、絶対に助かるからね!」
オプション効果でイトナのHPが少しだけ回復する。それを確認してからラテリアは立ち上がった。
非常用のレアアイテム 《帰還の魔石》を取り出す。これを使えば最後に立ち寄った街へワープする事ができるとても値段が張るアイテム。
お金をあまり持っていないラテリアだけど、昔にパーティでダンジョンに潜った時にドロップしたのを譲ってもらったのだ。あの時、男性プレイヤーの下心見え見えで、断るに断れなくて貰ってしまったけど、今はありがたく使わせてもらおう。
「少しだけ、待っててください」
帰還の魔石を砕くと同時にラテリアの視界は光に包まれた。




