閑話 堕天使の監視
天使界に激震が走った――監視対象であったヴェレスの失踪。
ヴェレスは、禁忌とされる同族殺しを行い、追放された凶悪な堕天使である。
本来であれば極刑となるはずだったが、ヴェレスの力があまりに強大であったため、処刑に伴う被害を考慮し、やむなく追放という形を取らざるを得なかった。
ヴェレス自身も天使界と事を構えるつもりはなく、人間界の僻地で長年静かに過ごしていた――はずだったが、今回、突如としてその姿を消した。
天使界を滅ぼすために動き出したと考えた熾天使セラフィムは、天使たちにヴェレスの捜索を命じた。
多くの天使が人間に擬態し、人間界を捜索する中――ヴェレスはとある田舎の村で発見されることとなった。
発見後、ヴェレスをどう処遇するかで天使界の意見は真っ二つに割れた。
ヴェレス騒動以前から属する天使たちである“以前派”と、それ以後に生まれた天使たち“以後派”での対立である。
現在、セラフィムを頂点とする天使族の数は3000を超えている。
たった1人の堕天使を恐れる必要などないと主張するのが、“以後派”の意見。
それに断固反対しているのが“以前派”の天使たちだった。
ヴェレスは武力においてセラフィムを凌ぐとまで言われており、実際に剣や拳を交えたことのある天使たちは、その圧倒的な力を身をもって知っている。
とはいえ、年月を経て新たな天使が生まれるごとに“以後派”が増えていくのは自然の流れであり、ヴェレスと直接戦った経験のない高位天使の多くも抹殺を唱えていた。
そうした状況の中、ヴェレスの抹殺で傾きかけていた議論に対し、熾天使セラフィムは“監視”の決断を下した。
反対意見が多く上がったものの、決定は覆らなかった。
そして、監視役として派遣されたのは、期待のホープと呼ばれる天使――ナハスであった。
位としてはまだ大天使だが、戦闘能力は主天使に匹敵する実力の持ち主である。
素行の悪さが目立つものの、その戦闘力を買われての抜擢。
今回の任務は、勘づかれずにヴェレスへ接触すること。
この任務の結果次第で、ヴェレスの今後の扱いが決まるという、極めて重大な使命である。
――のだが、当のナハスにはまるでやる気がなく、彼女はトボトボとヴェレスの住む村へと向かったのだった。
人間に似せた格好をしてはいるが、そもそもバレないように接触する意味が私には理解できない。
本来なら処刑されてもおかしくない相手であり、私の実力があれば余裕でぶっ殺せる。
過去にどれだけ強かったかは知らないが、時代は移り変わるからな。
ストレス解消のために持参した世界樹の葉巻をふかしながら、昂ぶる気持ちを抑えつつ村へと向かう。
もっと大きな街に潜んでいると思っていたが、ヴェレスは大都市近郊の田舎の村にいるらしい。
わざわざそんな場所へ移り住む理由は分からないが、もし何か企んでいるのなら、私が止めてみせる。
そう意気込みながら、私は村へと足を進めた。
村に着くと、どうやら今日は祭りごとが開かれているらしい。
田舎にしては随分と賑わっており、奇妙な格好をした人間が大勢いる。
一応、人間に溶け込むために天使の輪を隠し、羽も服の中に収めてきたが、これが窮屈で終始鬱陶しかった。
しかし全員が変な格好をしているなら、羽を隠す必要もなさそうであり……文字通り、羽を伸ばすことができそうだ。
村の中を一通り見回したあと、私は誰にも気づかれぬよう建物の間に身を潜めた。
今のところ、監視対象であるヴェレスの姿は見当たらず、気配すら感じ取れない。
そもそも、この村の雰囲気は驚くほど楽しげで、とても堕天使が潜んでいるとは思えなかった。
もしヴェレスが何かを企んでいるなら、人間たちはとっくに支配下に置かれているはず。
――この情報、間違ってるんじゃねぇか?
そんな疑念が膨らみ、もともと乗り気でなかった任務への苛立ちも相まって、私はストレス発散に葉巻へ火をつけた。
“これを吸い終えたら一度帰るか”
そんなことを考えていた時、背後の建物の影から人間が覗き込んできた。
奇妙な格好をした人間たちの中でも、より一層変な格好をしており、いかにも幸の薄そうなおっさん。
「んあ? ……っち、見られちまったか。なんでここが分かった?」
「すごい煙でしたので、火事かと思って様子を見に来たんです。えーっと、私とは知り合いではないですよね?」
「…………お前のことは知らん」
「やっぱりそうですよね。仮装パーティーだと、知り合いでも気づかないときがあるので、間違えていなくて良かったです」
「仮装パーティー……なるほどな」
道理で全員が変な格好をしていたわけだ。
納得したところで、そろそろ立ち去るとしよう。
ヴェレスがいない以上、隠れる必要もない。
それに人間と接触しても、得られるものはないからな。
下手に情報を与えれば、ヴェレスに伝わる恐れもある。
「それじゃ、私は戻る。ここに私がいたことは、くれぐれも他言しないでくれ」
「分かりました。世界観は大事ですもんね」
「……? お前、いろいろと変だな」
忠告して立ち去ろうとしたが、この人間とはどうにも会話が噛み合わない。
私も天使の中では変わり者だが、この人間は私の遥か上をいく変わり者。
「すみません、怪しい格好で声をかけてしまって」
「いや、構わん。それじゃあな……あ、ひとつ聞きたいことがある。黒い服の男を見なかったか?」
「黒い服の男ですか?」
せっかくだから、ヴェレスのことをそれとなく尋ねてみたが、反応は薄い。
まぁさすがに情報がざっくりしすぎているか。
「見ていないならいい。じゃあな」
「あっ、せっかくなのでお名前を聞いてもいいですか?」
「…………ナハスだ」
「ナハスさんですね。楽しんでいってください」
つい本名を口にしてしまったが、まぁ問題ないはず。
妙なやつではあったが、悪い人間ではなさそうだ。
少なくとも、ヴェレスに操られている様子はなかった。
この村にはヴェレスはいない――そう判断して、私は村を出ようとした。
――が、村の入口に立っていたのは、紛れもなくヴェレス本人だった。
気配は“無”。
脅威を感じ取れなかったはずなのに、全身から冷や汗が噴き出す。
仮装パーティーの気安さで、つい天使の輪と羽を出していたことを後悔するが、もう遅い。
道中ではぶっ殺すと息巻いていたが、対峙した瞬間、敵わないと本能が告げる。
視線を合わせず、バレていないことを祈りながら、ヴェレスの横を通り抜ける――それだけが私が考え得る最善の策だった。
鼓動が激しくなり、頭の中にまで響く。それに伴って呼吸も荒くなる。
だが態度に出せば終わりだ。
何とか堪えながら一歩一歩、ヴェレスの横を通りすぎた。
一方のヴェレスは、こちらを一瞥もせず、にぎやかな村を眺めて朗らかに笑っていた。
そして私はついにヴェレスに気づかれることなく、村の外へと出ることに成功し、大きく安堵の息を吐いた――その瞬間。
「セラフィムにお伝えください。この村の方々に少しでも手出ししたら、天使界を潰しに行く――と。それから……私は何も悪さはしないということも、ついでに言っておいてくださいね。まぁ、やる気なら受けて立ちますが」
背後から聞こえたその声に、私は思わず足を止め、背筋を正した。
返事をすることもできず、ただ生唾を飲み込むしかできない。
ヴェレスはそんな私の返答を待たず、再び村の中へと歩き去っていった。
――胸に残ったのは、圧倒的な恐怖と、見逃してもらえた安堵の感情。
“以後派”の者たちは、私が説得するしかない。
そう強く心に誓い、私は天使界へ全力で逃げ帰ったのだった。





