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054 7月21日

 目を覚ますと見慣れた天井が見えた。

 ゴキブリが這っていそうな汚い天井。

 確実に俺の部屋だ。

「……俺、は……」

 言いながら俺は半身を起こしてから、もう一度辺りを見回す。

 間違いなく、俺の部屋だ。

 不思議な話だが昨日いつ眠ったのかも覚えていない。そもそもどうして俺がこの部屋で眠っていたのかも覚えてない。

 二日酔い?

 とも思ったが。どうにも頭は痛くないし、息も酒臭くないのでその線は消えた。

 …………というか本当に俺は昨日、何をしていたんだっけ?

 ――――それに。

 それに、長い夢を見ていたような気がする。

 いい夢か悪い夢かと聞かれればきっと悪い夢だったと答える。

 何せ、自分が死んでしまったのだからな。そりゃ悪い夢だ。

 でも確かに覚えていることが、二つ(ヽヽ)だけある。

 ――一つは俺が身を挺して救った少女のこと。

 ――もう一つは俺の目の前に突然現れた自称天使のこと。

 今まで長い夢をさ迷っていて、それが現実かそれともただの幻だったのかを判断する材料を俺は持たない。

「…………ったく、一体なんだったんだ。あの夢」

 色々考えて、やっぱり面倒になった俺は布団から起き上がる。

 今までの出来事が全て夢だったとしても、それはそれでよかったのかもしれない。

 もしあの夢が本当だったのならば、それはあの少女が死なずに済んでいるという証なのだから。――天使のくだりは…………疲れていた。うん。きっとそうだ。

 色々不可解な点は仕事の疲れだと全ての考えを放り投げて自己解決。

 何だかおかしくて不意に笑みがこぼれる。

「……顔でも洗うか」

 洗面所へと向かい、蛇口を捻る。

 水道管が夏の太陽の熱で焼かれて、出てきたばかりの水は少し生暖かい。

「ふぅ……」

 ばしゃばしゃと顔を洗っていると水の温度が一気に冷たくなっていく。

「……冷て」

 シンと冷水を浴びると眠気が一気に覚めていく。

「……タオルタオル」

「はい、どうぞ」

「ん。ありがとう」

 俺はタオルを受け取るとそのまま顔を拭いて、蛇口の水を止めた。

「おはようございます、慶介さん」

「ああ、おはよう」

 濡れたタオルを持ちながら朝の爽やかな挨拶。

 今までの自分だったらありえないほどの習慣なのに、どうもしっくり来る。

「じゃあ……私ご飯の用意してきますね」

 ぱたぱたと走り去る音。

 洗面所にいても聞こえるぐつぐつと煮える鍋の音と規則正しく聞こえてくる包丁の音が寝起きの腹を鳴らす。

 うーん……いい匂いだ。

 味噌汁のいい匂いなんて嗅いだのは何年振りだろう。インスタントじゃここまでの匂いは放たない。手作りのみになせる業ってやつだな。

 と。

「へ?」

 ここまで来て、ようやく俺は家の中に誰かがいるという現実を知る。

 あまりにも自然すぎてそれがあたりまえの光景みたいになって、違和感をまるで感じなかった。

 しかし、おかしい。

 俺は一人暮らしのはずだ。

 親に勘当されて。

 恋人もいなくて。

 こんな早い時間に家に誰かがいるだなんて、ありえなかった。

 洗面所から急いで顔を出すと狭いキッチンの前に立つ人物の姿が在った。

 キッチンの前に立つ人物は後ろ姿しか見えない。

 腰にまで伸びた黒髪。半袖の無地のブラウスに灰色と紺のシックなプリーツスカート。その服の上から重ねられた白のエプロン。

 何もかもが俺の家にあってはならないようなもの。

 だから思わず、

「だ、だ、誰だぁ!?」

 そんなことを叫んでしまう。

 声に後ろ姿はびくっと反応して、

「び……びっくりしました。どうかしましたか?」

 我が家とばかりに威風堂々とした様子で可愛らしいエプロンを身に着けた侑子がこちらへと振り返る。

 ん?

 しかし俺はそのエプロン姿の侑子を見て思わず首を傾げる。

 侑子?

 何かの違和感を感じて俺はその侑子(?)らしき人物をまじまじと眺めた。

 確かに姿形は侑子のようなのだが…………どうにも侑子と断言出来なかった。

 そして、気が付く。

「お……お前、デルフィか!?」

 俺はすっ転びそうなほど大声を上げる。

 あの自称天使。

 もう記憶が定かではないほどのおぼろげな記憶で生成されたデルフィとそっくりな顔立ちだった。

 しかし俺のそんな反応とは対照的に、目の前の少女はムッと頬を膨らませ、

「デルフィ……? 誰ですかそれ。私は侑子ですよ」

 は?

 侑子……?

 何言ってんだこの天使。

 俺はもう一度侑子(自称)を眺めてみる。

 やっぱりどっからどうみてもあの天使にそっくりだ。

「あなたの恋人の東山侑子。そんな外国人みたいな名前は知りませんよ。あ……もしかして浮気ですか。もう浮気に走ったんですか。さいてー」

 ちょっと待て。

 ちょっと待ってくれ。

 今、この目の前の女の子。とんでもないことを。もの凄くとんでもないことを。もの凄くさらっと言いのけなかったか?

「恋……人……?」

 頭が真っ白になる。

「あ、ごめんなさい。未来の……お嫁さんの方がお好みでしたか?」

「そういう問題じゃない!」

 さらっととんでもないことを言いのける少女に対して俺の顔は真っ赤だ。

 しかしそんなことはどうでもいい。

「というか本当にデルフィじゃないのか?」

「だからデルフィって誰ですか?」

「だって変だろ。侑子がこんな……こんな、」

 ――――可愛いわけがないと言いそうになって俺は慌てて口を両手で塞ぐ。

 あの地味で無愛想で空気の読めない鈍感少女がどうしてこんなに可愛く見えるのだろう。

 理由を考えてみる。

 と。

「……………………うぅ」

 俺があんまりにもデルフィ、デルフィと侑子の知らぬ少女の名前を出すものだから侑子が顔を伏せて、エプロンの裾を掴む。

「……そんなに変、ですか?」

「は?」

 わけが分からずに俺は侑子を見る。

 落ち込んだ顔から覗く黒い瞳をじっと見て、…………見て。

「ああああ――――!」

 違和感の正体にようやく気が付く。

 ――――メガネがない。地味さに磨きをかける至高のアイテム、黒縁メガネを侑子はかけていなかった。

 デルフィの顔とそっくりだと思った理由も、この目の前の侑子が侑子ではないと勘違いしていた理由も全てはこのためだった。

「お前……なんでメガネ……」

「ようやく気が付いてくれました」

 指摘されて少しだけ気分がよくなって侑子は顔を上げる。

「この前の事故でメガネが壊れてしまいましたのでコンタクトにしてみたんです。少し勇気がいりましたけど、……あの、どうですか?」

「じ、事故……?」

 可愛いかどうかを言う前に俺は侑子の言った『事故』という単語の方が気になってしまう。

「はい。あれ? 覚えていないんですか」

 覚えて……いる。

 夢で見た内容と同じなら、俺は何故こうやって侑子と話をしているのだろう。

「事故って……確か……一六日だかに起きたやつ……だよな?」

「はい。そうですよ」

 やっぱり。

 間違いなく俺の知る事故と同じ日にちで起きた事故。

「はい。あの時はびっくりしてしまいましたね。急に車が私のいた方向に折れてきたので」

 ……私、の?

 たちではなく。

 の?

「ん? その事故って俺そばにいなかったっけ?」

「え? 違いますよ。慶介さんが来たのは大きな音がして駆けつけてくれたから、事故があった後じゃないですか。でも本当によかったです。運よく車が逸れて、私にぶつからなかったのは本当に奇跡(ヽヽ)でした。街路樹もあって、本当に怪我なく済みましたから。メガネは壊れちゃいましたけどね」

 まるで違う事故の内容と結果。

 俺の知らない世界。

 本当にわけが分からない。

 死んだはずの俺がこうやって侑子と話をしているだけでも十分にわけが分からないのに、どうして俺の知っている事故と侑子の話す事故の無いように相違が生まれる?

 その時。ふと湧いて出た水のような感覚で、目の前の少女――――侑子にそっくりな顔をした天使の言葉が湧き出た。


 ――――あなた、生き返りたくないですか?


「…………ぁ」

 その言葉は夢などではなかった。

 はっきりと覚えている。

 デルフィという少女のこと。その少女が侑子と瓜二つであったこと。――天使であったこと。

 ……まさか、本当に?

 俺はちゃぶ台の上に乗せてあったスマホを手にとって今日の日付を見る。

 七月二一日。

 やはりだ。

 俺は間違いなくこの日付を知らない。

 一六日から二〇日までの日付の間に何が起きていたのかを俺は知らない。いくら歳を取っているといってもたかだか二〇代の俺がこの歳で認知症を患っているなどと笑えない話があるはずもなく。その間の記憶がぽっかりと抜け落ちているのだ。

 まるでその間、ずっと眠っていたかのように。

「……慶介さん?」

 後ろで侑子が何事か分からずに俺に声をかけてくる。

 しかしわけが分からないのは俺も同じで、一体何がどうなっているのかを侑子の声を無視して考えてみる。

 生き返った……のか? 天使とかいうわけの分からない存在の力で。

 いや……そもそも、俺は本当に死んだのか?

 何が現実で何が夢幻だったのか判断することが難しい。

「あの……」

 あまりにも難しい顔で俺が考え事をしているものだから、侑子が手から力を抜いて悲しげな顔で俺に聞く。

「もしかして……私はここにいてはいけないのでしょうか?」

「え……?」

「あの日の言葉は……私を慰めるために言っただけでしたか?」

「……」

「…………私の、勘違いでしたか?」

 侑子は小さな声で、本当に小さな声でそう言った。

 あの日の言葉。

 もし俺が想像する言葉と同じなら、きっと俺は。

「…………馬鹿」

 そう言って俺は侑子の前に立つ。

 そして小さく深呼吸をして、

「あんなこと……慰めで言えるほど俺はいい男じゃねえよ」

 そう言った。

 色々考えた。

 俺が死んだこと。

 侑子とそっくりの少女が目の前に現れて俺に銃口を向けたこと。

 その少女が天使だったこと。

 天使が俺に生き返るための試練を与えたこと。

 俺が侑子のために生き返りたいと強く望んだこと。

 生き返ったこと。

 そして、俺が侑子のことを好きだってこと。

 …………でも、そんなことはどうでもいいのかもしれない。

 これが現実か、夢か、幻か。そんなことを分かる必要はないのかもしれない。

 俺が今。今をどうしたいのか。そのことの方が大切なのかもしれない。過去を悔やんでも仕方ない。未来を考えても答えなど出るはずが無い。だからこそ、今……俺が一体どうしたいのか。

 俺が望むものはたった一つ。

「ばーか」

 手に触れる。

 触れられる。

 肩を抱く。

 抱ける。

 小さな体を抱きしめる。

 抱きしめられる。

 それだけで十分だった。

 一番大事なものが目の前でこうしているだけで、……十分過ぎた。

 もしかしたら……俺はあの時、天使と初めて出逢った時から望んでいたのかもしれない。心からこの少女のことを望んでいたから、デルフィという天使が侑子にそっくりだったのかもしれない。

 天使は象徴。

 望むもの。恐れるもの。

 そうして強く望んだから、天使が俺に“夢”を見せてくれた。

 だけど。

 それでも“現実”の方が嬉しい。

 胸糞悪いこともあるけれど。


 ――――こうして二人が抱き合える“現実”の方が、楽しいに決まってる。

 今なら願える。

 願うことすら億劫だった俺が。

 天使にも。

 織姫や彦星にも。

 俺の願いはたった一つ。

 ――――この少女と、幸せに。

あとがき


ここまでお付き合いしてくださった方。

この話数だけ読んでくださった方。

本当にありがとうございます。

この話はこれにて終了です。

短編の予定の話がここまで長く続いたのは想定外でしたが、どうにか終わることが出来て安心しています。

今まで長編を完結出来たことがなかったので、どれだけ駄文でも駄作でも終わらせることを目標に書いたので、かなり粗が目立つ作品になってしまった気がしますけど、作品が出来たことにとりあえずホッとしました。

作者にとってのクーデレの定義が『静かにデレる』だったので、これでよかったのかなーとか思わなかったり思ったりしましたが、こんな風になってしまいました。

これクーデレ違うとか思ったら、ごめんなさい。作者の力不足です。

また楽しいラブコメが書けたらなと思いつつ、この辺で。


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