052 7月16日
「え」
何が起きたのか理解出来なかった。
肘と膝から血が出ていることなどどうでもよかった。こんな些細な擦り傷などどうでもよかった。
公園の外壁に突っ込んだ車がもの凄いスピードでバックしてこの場から走り去ったことなど、――どうでもよかった!
ぺたんと座り込んだまま東山侑子は前傾姿勢になるが、足に力が入らずにそのまま胸を地面に打つ。
肺から空気が漏れるような衝撃に、侑子は咳を漏らす。
だがその全てが煩わしかった。
侑子は自分の傷の痛みなど度外視して、車が突っ込んだ外壁に走り出す。
「……ぇ」
見下ろすと、曲がる訳のない方向に曲がったままの体勢で倒れている慶介の姿が在った。
全身から力が抜け、地べたにへたり込む。
なに、これ?
目の前にあるものが、ヒトであったことさえ忘れてしまいそうになるほど無残だった。
先ほどのけたたましい騒音に深夜であっても喧騒が生まれる。
「なんだなんだ!」
「今の音は一体なんだ!」
「事故か!」
「あそこに女の子がいるぞ!」
近所の家の窓から顔を出して公園に向かって叫ぶ近隣の住人たち。
だがそんな騒音は侑子の耳には届いていなかった。
一度、慶介さんの体に伸ばしかけていた指をもう一度伸ばす。
まだ暖かい。
指を一本増やす。
二本。
三本。
四本。
五本。
指の次は手のひら。
恐る恐る触れていた指を手のひらに変えて、今度はゆさゆさと動かない慶介の体を揺さぶる。
冷気に晒されて、慶介の体から体温が逃げていく。
いつも起こしていたときよりも激しく揺さぶっているのに慶介は起きる気配すら見せない。
「…………起きて…………ください…………」
「――――」
「…………朝…………です……よ……」
「――――」
「…………きょ……う……は…………たくさん…………ご飯を…………作ります…………から……」
「――――」
「…………め…………を……」
「――――」
ゆさゆさ。
何度も何度も揺さぶっても、慶介はピクリとも動かない。
「……けい……すけ……さん……」
ぽたり。
ぽつぽつと侑子の顔の下にある地面が濡れる。
雨も降っていないのに、侑子の顔の下の地面だけがぬかるむ。
「慶介さん……慶介さん……!」
倒れている慶介の肩を掴み、力任せに揺さぶる。
「起きて……起きてください……!!」
これほど力任せに、無造作に、不躾に体を揺さぶっても慶介はうんともすんとも言わずに、ただただその身を侑子の手の中に委ねることしかしない。
「慶介さん…………私のこと、嫌いって言ってください……」
「――――」
「迷惑だって言ってください……」
「――――」
「馬鹿だっていつもみたいに……言ってください」
「――――」
「それで…………目を覚ましてくれるのなら……私は……私は……っ」
「――――」
「…………………………お、……ねが……い……しま……す…………っ」
「――――」
目から零れ落ちる雫が慶介の冷たい頬を濡らす。
罵って欲しい。
馬鹿だって言って欲しい。
嫌いだって言って欲しい。
迷惑でうざいって言って欲しい。
それで……目を覚ましてくれるのなら、私のことを世界で一番嫌っていて欲しい。
しかし。
――――慶介は目を覚まさない。
何度も何度も揺さぶっても、筋一つ動かない。
侑子の口もまた、止まってしまいそうだった。
それでも。
それでも、このことだけは聞いて欲しい。
そう思って、口が、動く。
「…………………………まだ、……返事……してません……よ……?」
動く。
「私は………………あなたのことが…………好き、だったんです……よ」
何よりも聞いて欲しかった答えは、誰よりも聞いて欲しかった相手には届かない。
うぇ……、と。侑子の底から『泣きたい』という衝動が生まれてくるのに、侑子は泣けなかった。
黒い瞳からは雫がぽたぽたと流れ落ちてくるのに、『泣く』という行動を取ることが出来なかった。
その代わりに、祈る。
誰に対して祈っているのか分からない。
叶うはずもない願いを祈らざるを得ない。
祈らないと、自分が自分でなくなってしまいそうになって。
祈らないと、慶介の頬がずぶ濡れになってしまうから。
だから、祈る。
「誰…………でも、いい。……誰でも……いい、から。…………助けて……ください。……慶介さんを……私の大切な人を……助けてください。…………慶介さんを救ってくれるのなら……私の全てを……全てを奉げます。…………だから、…………だから。どうか…………どうか」




