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046 7月13日

「別にお前が想像しているような事件があったわけじゃないってのを最初に言っておく。別になんでもない。本当になんでもないようなことがちょっとあったってだけで、俺は捻くれた。お前と山岸の間で起こったような事件は何も無い。それでも……聞いてくれるか」

 侑子は問いに頷いた。

 それを見て、俺は静かに目を閉じてから話す。

 他愛も無い物語ざつだんを。

「俺は昔……サラリーマンだった。顧客に商品を売りつけて業績を上げる。まあ……至って普通のサラリーマン。お前は俺をすごい人間みたいに思っているみたいだけど、そんなことはないと断言出来るね。とにかく要領が悪い人間だった。仕事はよく失敗したしな。だから俺はとにかく要領が悪いながらも必死に仕事に食らい付いて何とか首を繋いで生活していた」

「信じられません……慶介さんってそんなに要領が悪かったんですか?」

「信じられないって言われても別に、だな。これが本当の俺だ。コンビニの仕事が楽って言ってる訳じゃないけど、とにかくサラリーマン時代の俺はとにかく駄目なやつだった。まあ……多分その理由も、同じ部署の上司が絡んでるんじゃないかな」

「上司?」

 話すと思い出したくも無い顔が浮かび上がる。

 忘れたいとどれだけ思っていても、心の片隅に絶対に残っていることを自覚させられた。

「ああ。俺に比べてとことんまで要領のいい男だ。顔は俺より断然イケてたし、女にもモテたんじゃないのか。まあ……学生時代に会ってたら確実に無視するタイプだ」

 軽い調子でそんな陰口を叩いてしまう。

「話戻すな。その上司ってのが本当に仕事が出来る人で部署の中での業績も常にトップだった。……でもその人はそんだけ顔もよくて業績もトップなのに部署ではあまりいい上司ではなかったんだ」

「どうしてですか?」

「人気がなかったって言うのかな。やっかみとか僻みとか……まー色々折り重なって、同期とか部下からは人望みたいなものはなかったな。言ってしまえば仕事関係の要領はとことんまでよかったんだけど人間関係の事そのことに関しての要領は俺以下だったのかもしれないな。今思えば」

「というと?」

「俺は……どっちかって言うと仕事関係の要領が悪かった分、人との繋がりを意識して大切にしたっていうのか? 今と比べると大分人との付き合いがよかった。積極的に人との付き合いを増やした。酒が好きだったから仕事終わりに呑みに誘うことも多かったし、同僚の愚痴を聞いたりとかとにかく積極的に繋がろうと必死だった」

 今思うとそれが俺に出来た唯一の処世術とでも言うべきか。

 生き残るため。生きていくため。

 俺は他人の顔色を意識して、媚びへつらうことに全ての精神を注ぎ込んでいた。

 そうしないと生きられないから。

「意外だろ」

 俺はそんな自分と過去の自分を比較してそんなことを侑子に聞いた。

 今の俺は本当に他人と関わらないようにしていたから。きっと他人から見てもそう見えていたに違いないと思ってそう聞いた。

 しかし、侑子の答えは意外にも、

「いいえ。何だか納得出来ますよ?」

 本当に意外にも俺の想定していた答えと真逆の言葉が返って来た。

「もしかして本当に慶介さんは昔と違ってそういうのがあまりなかったかもしれませんけど、やっぱり私にはあまり変わらないような印象です。…………私に関わってくれたのもきっと慶介さんの優しさなんだと思います。そういうところはきっと昔も今も一緒なんだって思いますよ」

 昔も今も一緒。

 …………そうなのか?

 でも侑子がどれだけ俺の肩を持ってくれたとしてもそれで俺が優しい人間だなんて思うことは出来ない。

 けれど嬉しいと思うこの今の心は本物だ。

 俺のことをそんな風に思ってくれている人がいると分かるだけでこんなに心が軽くなるものなのか。

「ふふっ…………何だか不思議だな。こうして暗闇の中で、一緒の布団で、語り合うと俺の心の中まで全部話してしまいそうになるな」

「……そうですね」

 不思議な魔力があるとでも言えばいいのだろう。

 何だか心の中にある闇のようなものを吐き出すために次々に言葉が産み出てくるような感覚。

 この感覚を俺はしばらくの間忘れてしまっていた。

「……あまり思い出したくないことも、お前になら聞いてほしいと思える。……本当に不思議だ」

「思い出したくない?」

 だから。

 だからこそ。思い出したくも無い経験を侑子に語る。

「仕事を失敗し続けていた俺はよくその上司に叱られていた。でも別にそれは俺自身のミスのせいもあったから別に誰が悪いとか悪くないとかで考えたことはなかった。当たり前だから。失敗すれば絶対に叱られる。そんなのが当たり前だって思ってた頃、俺はとある仕事を成功させた」

「成功? 失敗じゃなくて?」

「ああ。成功も成功。大成功ってヤツ。しかも……その上司が失敗した仕事を成功させてしまったんだ」

「いいことなんじゃないですか?」

 侑子は当然のようにそう言う。

 昔の俺とまったく同じ感想だった。

 やっぱり誰が聞いてもそういう感想が生まれてくるということは、それが当たり前だということ。

 しかし。

 その感想はあの上司の逆鱗に触れてしまったという現実を知らされることになった。

「世間一般的にはそれが正しいのかもしれなかったけど、あの上司にとってみれば自分が失敗した仕事を失敗続けの駄目人間の俺が成功させたことが気に食わなかったんだと思う」

 深刻な顔になっていく俺の表情を見て、流石の侑子も何かに感づいたらしく神妙な面持ちへ。

「それからだって、はっきりと覚えてる。あの上司は俺の仕事を褒めはしなかった。それどころか俺への当たりをさらに強めていった。デスクでPCの作業をしてたら『タイピングがうるさい。仕事をしているフリをするのはやめろ』って言ってきたり、俺が仕事上がりで他のみんなを呑みに誘っていると『仕事は出来ないくせにそういうことは積極的だな。それをもっと仕事に生かせ、この無能』だって言ってきたり。まーいわゆるパワハラが日に日に強くなっていったんだ。

 でも……それでも俺はこの職を失うわけにはいかなかったから、我慢してた。ひたすら耐えて、耐えて、耐えて。なんとか生活していた。そんなある日……その上司と俺が一緒に仕事をすることになった。当然最初は嫌だって思ったけど、そんな自分勝手な感情で仕事を断るなんて出来なかったから、そこはちゃんとしていたんだ。

 パワハラは一緒に仕事をしている最中でも減ることはなかった。むしろ一緒に仕事をしている分、長い間その上司と一緒にいたから量が多くなっていって、精神的にもかなりキツくなっていった。で。やっぱりそういう精神状態の時ってのは人間……不安定になってしまうんだよな。その上司と仕事をしている時に俺が結構大きなミス。大切な書類を紛失してしまったんだ。

 …………それに目をつけたんだ。アイツは……」

 今まで感じたことの無い怒りがその時に芽生えたのを俺ははっきりと覚えている。

「それを機会に俺への当たりをいっそう強めていって、俺の仕事としての能力うんぬんより俺の人間性を否定し始めたんだ。『お前は生きている資格がない』だの『どうしてお前みたいなクズがこの会社に入社出来たんだ』って。どんどんどんどん、日に日に言葉はエスカレートしていった」

 俺はその時に初めて殺意という人間として最悪の感情が生まれていくのを感じていた。

 それでもその感情を押し殺せたのは生きていくために仕方が無いことだって達観できたことだと思う。

 それが当たり前のことだって割り切れたら、精神は意外にも持つことをその時に知った。

「でも俺は知ってしまった……。俺があの時、あの時にミスしたのは俺のせいじゃなかったって」

「え……? どういうことですか?」

「わざとだったんだ。俺が仕事をミスしたのはあいつが仕組んだ罠だった。それを知ったのはそのミスをしてから大分経った酒の席だった。俺はやっぱりあのミスに納得が出来なくて酒の勢いでそれをそいつに訊ねた。『俺はやっぱりあの紛失は納得出来ない。本当は何か知っているんじゃないのか?』って。そうしたら酔っ払ったあいつが俺を見て笑って言ったんだ。『お前は相変わらず馬鹿だな。まだ気が付いてなかったのか。あのミスは俺がそうさせたんだ。だからお前は馬鹿なんだよ』ってな。…………ま、それを聞いてな。やっぱり頭に血が上っていくのをはっきりと感じ取れた。胸倉を掴んで、大きく体を揺さぶって、何度も何度もそいつに暴力を振るった。今まで溜まりこんだ積憤をぶつけるみたいにしてな」

 今……侑子はどういう目で俺のことを見ているのだろうか。

 軽蔑したか。

 嫌悪したか。

 同情したか。

 ――分からない。

 なぜなら俺は侑子の目を見れずにいたからだ。

 俺は視線を逸らしたまま話を続ける。

「いくら酒の席でも……やっぱり暴力だけは絶対にしちゃいけなかった。それが上にバレて、俺は自主退職を余儀なくされた。しかも俺がそいつに一方的に殴りかかって抵抗する上司を構わず殴り続けたっていう尾ひれまで付いて。その上司は何も悪くないただの被害者だっていう名目まで付いて。……俺はとても我慢出来なかった。せめて俺が加害者じゃなくて被害者だってことを他の同僚たちには知って欲しかった。……けど、もう遅かった。俺の言葉は誰の耳にも届かなかった。何も信じてくれなかった。俺はただの無法者。それが俺の最後の会社での印象だったんだ。あいつの最後の言葉『誰もお前の言うことなんか信じない』ってのが一番効いたな……。本当に俺の言葉なんて誰の耳にも届かなかったんだ」

 確かに力任せに暴力を振るった俺にも非はある。それは認める。

 だけど。

 だからといって俺の言葉に耳を少しでも傾けてくれたのなら、少しはマシだって思えた。俺の暴走に少しでも共感してくれたのならば、少しは気がラクになると思えた。

 けど、反応はもっと残酷だった。

 俺が会社をクビになってから元同僚からメールが来た。

 そのメールには退職したことを残念に思うといった具合の内容のメールだった。

 俺はその時に携帯を壊した。

 我慢ならなかった。

 安い、同情が。

 会社では一切関わろうとしなかったくせに、俺がやめた途端に心配をするような自己正義を保つためだけのメールの内容に憤慨して。俺は力任せに携帯を叩き割った。

 そして俺の築き上げてきた人間関係の脆さを知って。

 俺は何もかもが面倒になった。

 どれだけ人との関係を築き上げても、結局脆く崩れ去ってしまうようなもの。

 そんなものを持っていても仕方が無い。

 だから――――冷めた。

 全てに。

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