043 7月13日
友人になったばかりの山岸理佳に相談したことがあった。
一生をかけても返せない恩は一体どうして返せばいいか。ある人のことを思うと胸が痛くなって、ある人のことを考えないようにすればするほど頭の中を支配していくこの感情の正体は一体何なのか。
そして、その答えはたったの一言で返ってきた。
『好きなん? あのおっさんのこと』
言われて。
東山侑子は盛大にこけた。
自分史上初の出来事だった。
けどそんなこと言われても困る。
好きとか嫌いとかそんなこと言われても困る。
学校から帰ってきてメールの番号を交換して初めて返って来た答えがいきなりこれだから侑子は一体何がどうしてそうなったと聞こえもしないのに壮絶にツッコミたい衝動に駆られた。
それでも必死に理性を抑えて、
『嫌いじゃないです』
とだけ返した。
すると一分も経たないうちに、
『いや。好きでしょ』
またこけた。
『好きじゃないおっさんの家にアンタは何日も停泊すんの? 実はビッチ?』
とか返って来た。
『私がビッチに見えますか?』
『んまー……ビッチには見えない。けど意外と清純派を装ってる子はいくらでもいるし、アンタもそういう口だったり(笑)』
『怒りますよ』
『ごめんごめん』
文章だけでは感情を乗せられないと何かの本で読んだが、まさにそうだと侑子は思った。
ただ、まあ……理佳の言うことも分かる。
自分があの人のことを好きか嫌いかをカテゴリーすると確実に好きという棚に収められるだろうと自分でも分かっていた。
でも、だからと言ってこの感情をそのまま慶介さんにぶつけてしまって慶介さんの心に後悔の念を植えつけてしまうのではないかと怖くなる。
だったらどうすればいいのか。
すると理佳の方から、
『なんか心当たりかなんかないの? それが何なのかを分かるための』
返事が届いて少しだけ考えてみる。
頭を撫でてくれたことや、私が泣いた時に優しく抱きしめてくれたことを真っ先に思い出すが、それを口にすることは出来なかった。
理由は至極簡単。
恥ずかしい。
そんなことを口にすることはとてもじゃないが出来なかった。
なので他の理由を模索。
頭の中でここ一週間の出来事を段階的に思い出す。
すると、
「……あっ」
侑子は何かを思い出したようにとある出来事が頭の中を支配した。
スマホを握ったまま、侑子はそれを文章に起こす。
『慶介さんが寝ている私の布団を引き剥がそうとしていました』
これは…………。
送っても大丈夫なのだろうかと一瞬悩む。
うん。
このまま送れば何か誤解を与えてしまうかもしれないと思い、
『寝惚けて慶介さんと一緒の布団に潜り込んでしまったのはなんとか思い出せるんですけど、そのあと私が目を覚ますまで何があったかは分からないですけどね』
と付け加えてから送信した。
今度は一〇秒も満たない速度で、
『あのおっさんすり潰してやんぞ!』
と怒りマークが三列ぐらい並んだ長文が返って来た。
えっ? 何か間違えましたか。これ。
『まさかおっさんアンタの体に触った!?』
『たぶん』
『明日朝一で卸金持って行く!』
文章だけなのにとんでもない剣幕で怒っているのが伝わる。
そんなに怒らなくても……。
そりゃあ……知らない男の人が慶介さんと同じことをやったら私は今の状況も忘れて警察に駆け込むこともやぶさかではないけど、慶介さんなら別に構わないと思ってしまう。
もし……あの時、私が大きな声を出していなければ――
「――――っ!?」
激しく頭を振って、頭の中に湧き出した想像――もとい、妄想を消し去る。
慶介さんみたいに優しい人が私をどうこうしようだなんて思うはずが無い。それは理想というか…………なんていうか。でもそんなのやっぱり考えては駄目。失礼!
自分でも馬鹿な妄想に囚われてしまったと思い、自己嫌悪に至る。
さて。そもそも何の話をしていたんでしたっけ?
そう思い、スマホに目をやってしばらく眺めていると理佳からの返事が届く。
『話を戻そう。完全犯罪のやり方はその後で』
との一文が届いたので、
『同感です』
と返した。
完全犯罪の問題はともかくとして。このまま脱線を続けていたらきっと何を話していたかも思い出せなくなりそうです。
『でさ。結局アンタとしてはどうだったの?』
『何がですか?』
『だ、か、ら。あのおっさんが布団を引き剥がして性犯罪を起こしそうになっていたっていう話』
『そんな話はした覚えがありませんが』
『危機感無さすぎ』
どうも歪曲して話が伝わっているような気がしなくもありませんが、あえて言及はしないでおきましょう。話をこれ以上逸らすと本当に面倒なことになりそうですから。
嫌かどうか……という話ならば。
『嫌……ではないです』
まあ……そうなる。
少なくとも嫌ではない。
もし。本当にもし。万が一。可能性として。微粒子レベルの可能性として。それだけの確率がもし起こってしまったとして。自分を望んでくれたとしたならば。
断れる自信は…………ない。
って。
またもやいけない妄想が頭の中を駆け回る。
(変態ですか――――私はっ!?)
衝動のままとてつもない勢いで頭を大きく振る。こんな姿を誰かに見られてしまっと考えただけで東山侑子という存在がこの世界から抹消されるレベル。
もう眩暈でも何でもいいから倒れてしまいたいという欲求が大きく膨らむ。
『…………おーい、聞いてる侑子?』
『…………は、はい』
深呼吸ののち、ようやく侑子は我に返る。駄目です。こんなことでは。恩を返すどころの話ではありません。
というかそもそも恩を返すとかそういう話はいったいどこへ?
『まー、でもアレだね。もうさ、それってほとんどOKみたいなもんなんでしょ?』
『へ?』
『だーかーらー。侑子的にはもうOKなんでしょ。私的には断固としてNO! なんだけど。ってことは……もうそれ、好きってことなんじゃないの?』
とくん――。
心臓を撃ち抜かれたかのような衝撃が走る。
『おーい! またフリーズしてんじゃなーい! 聞けー!』
腰が抜けたままぐったりと座り込んでいるとそんな内容の返事がいくつも返ってきて、侑子はようやく、
『へ? え?』
と返すのが精一杯だった。
すると、
『アンタ…………分かりやすいのか分かりにくいのかはっきりしろー!』
との怒りの文面が。
しかしそんなことを言われても困る。
今やり取りをしているのがSNSでよかったと本当に安堵する。実際に姿を見てやりとりをしていたのなら侑子の戸惑いは隠しようがない。
とにかくこの戸惑いは一体どう処理すればいいのか分からずに、
『ど…………どうすればいいのでしょうか? こ、これ……あの……どうすれば』
感情をそのまま文に乗せる。
しばしして、
『…………んー。とりあえず……アンタとしてはあのおっさんの気持ちが知りたいってところ?』
こくこくと頷いてみるが、当然相手には見えていないことを思い出して、
『……は、はい』
と返す。
すると、
『あのおっさんって基本的に安全なの?』
『安全とは?』
『簡単に言えば襲わないのかって話』
『そうであればもうしてると思いますけど』
『あーそれもそっか』
との簡単なやり取りをしばらくして。
『名案……浮かんじゃった』
理佳はいつもの調子で、
『一緒に風呂入れ。んで。一緒に寝ろ』
と、とんでもない文面を送りつけてきた。
こけるどころか天地がひっくり返った。
『そそそそそそそそそそそそそそ――――――!?』
そんなこと出来るわけがありません。と送るつもりが手が震えて訳も分からない文面が理佳に送られる。
当然返って来た答えは、
『落ち着け』
との簡単なもの。
『いや、別にさ。そこでヤレとかそういうアレじゃないから安心して。ほら、お風呂ってさ何か色んなことを話したり出来る貴重な場所だって思うのよ。ほら……あれよ。裸の付き合いみたいな?』
『み、みたいなじゃなくて……っ』
それって同性の間だけの習慣だと思っていたのですけどね。
『んー、でも今日でアンタ帰っちゃうんでしょ?』
『それは……』
確かに慶介さんには宣言されている。
今日の夜を最後に家に帰れと。絶対に帰ったほうがいいと。
で、でも…………だから……って。
『いいの?』
『え?』
『アンタが持ってる気持ち。その気持ちを確かめないであのおっさんの下を離れても。――――後悔しない?』
う…………。
トドメの一撃のような衝撃。
ずるい。
そんなことを言われてしまっては……もう、やるしかないと思うことしか出来なくなる。
◇
そんなやりとりをしたのも一時間前――。
侑子は風呂場から体と髪を拭いて服に着替えてからキッチンの前で、一言の返事を友人の理佳に送る。
『本当に理佳の言う通りでした……』




