042 7月13日
「し、…………失礼します」
「…………お、おう」
毅然と振舞うことを決意してから侑子に背中を預けた。
ただこんな気恥ずかしい状況に侑子と視線を逢わせることが躊躇われたため、侑子に一瞥することなく風呂場の椅子に腰をかけたままだったが、
「………………う」
「………………あっ」
目が逢った。
俺は侑子に背中を見せたまま椅子に座っていたが、正面に備え付けられていた鏡越しで侑子とバッチリ目が逢ってしまった。
目が逢うとなんだか風呂場の温度が二度か三度くらい上昇した気がする。
当然と言えば当然なのだが、侑子は風呂場にタオル一枚で入っているため、いつもその顔を覆い隠しているかの如く常に身に着けているメガネを今はかけていない。
…………初めて見た気がする。
侑子はほとんどの状況でメガネをかけている徹底振りだったので、その素の表情に俺はドキッとした。
俺はなんだか気恥ずかしくなってそのまま視線を右にずらす。
すると、
「………………ふふっ」
侑子は耐えられなくなったようにして小さく笑みを漏らした。
「…………な、……なんだどうした」
自然と口調が早口になる。
「……いえ」
侑子はやはり嬉しそうに笑みを漏らしたまま。
「……一緒だな、と思って」
「一緒?」
「慶介さんも…………恥ずかしいんですね」
「あ、当たり前だろ……!」
ただでさえこんな経験が少ないってのに相手が相手なので緊張しないわけが無かった。
「わ、…………私も恥ずかしいです」
だったらするな! というツッコミを入れる暇もなく侑子は洗面器にお湯を張る。
張ったお湯の中にタオルを浸し、丁寧に何度もタオルを絞る。
「それでは…………いきますっ!」
妙に気合を入れて侑子は俺の背中を擦る。
ごし、ごし、ごし、ごし、ごし、と。リズミカルに動かされる侑子の手。人の手で背中が洗われるなんて何年ぶりに体験したので、何だかこそばゆい。しかし俺はあえて何も言わずに侑子の手に全てを委ねた。
「…………ど、どうですか? 気持ちいいですか?」
「ああ……すごくいい」
「よかったです。……じゃあ、続けますね」
いつもの会話よりも会話が簡単になってすぐに会話が途切れてしまう。
単調とでも言うべきか。まあこの状態で世間話が出来るほど女慣れしていないのもまた事実。
「…………慶介さんの背中ってすごく……大きいですね」
「……そうか?」
「……はい。父親の背中しか見たことがないので比べようがないんですけど、すごく大きいって思います。男の人の背中ってみんな大きいのかな」
「俺の体格ってそんな大きくないと思うけど」
「いいえ。…………私にとってこの背中は、父親の背中よりも大きく感じます」
背中をリズムに合わせて擦っていた侑子の手が独り言のように小さな声で止まる。
侑子の父親と比べられても俺はその父親を一度も見たことがないのでどうしようもない。それに背中が大きいだなんて言われたこともないのでどう返事をしていいのかも分からずに、俺は生返事を繰り返す。
「私は…………こんな大きな背中に守られていたんですね」
が。
どうにもがたいの良さで言うところの背中の大きさを指摘しているようには聞こえない。
…………なんだかもっと別の。
「どういう意味だ?」
言葉に侑子は一度だけ黙る。
タオルを持った手に力が篭る。
「…………よく、分かりません。こんな風に思うのって……初めてで、戸惑っています」
「分からない?」
「感謝をしているって言うのは間違いないと思います。…………けれど、本当にそれだけなのかな……って。心のどこかでそう思っている自分がいて、…………このままずっと。ずっと……慶介さんといられたらいいなって思う、我が侭な自分がいて……その感情だけがよく分かりません」
侑子は鏡越しで目配せをする。
「変……でしたよね。私がこんなことをしてあげたいって思うの」
「ぶっちゃけ」
「ふふっ……正直な人ですね。……でも、うん。私もそう思います。…………だから、このことをこの感情の正体を知りたかった私は……理佳に相談してみたんです」
「山岸に?」
「はい。そうしたら……その、まあ……こんなことをしないと後悔するんじゃないかって、言って、その」
ということはつまり。何だ。
侑子が一緒に風呂に入って背中を流したり。
この後一緒の布団で眠るのも。
全部。
――――全部、あのギャルの差し金ってことか。
でも……まあ、そうか。
俺は俺だけが緊張しているだけなのかとも思ったがそうじゃない。
分かっていたこととは言え、ちゃんと言葉にして考えてみるとそんな訳がなかった。
迷っているのは侑子も同じだった。
こいつもそれなりに悩んで、どうすればこの迷いを払拭出来るかを考えてこんなことをしたのか。
再び訪れる静寂の中、沈黙に耐えられなくなった侑子は再び俺の背中を流し始める。
そんな中、俺は考える。
俺にとっての東山侑子という少女の存在を。
前から考えてはいた。
この少女は俺にとっていったい何なんだということを。
ただの家出少女?
いや、もうそんなことは考えてはいない。もし本当にそうならここまで深く関わっちゃいない。
そもそもどうして俺はこの少女に深く関わってしまったのか。
似ているから。…………いや違う。
もうそんなことでこの少女に対する何かを誤魔化すのは止めよう。
きっかけは確かに突発的なものだったのかもしれない。
でもここまで長く関わったのは確かに俺の意思のはずだ。
それならばこの気持ちを失くす前に。
後悔してしまう前に。
言っておきたいことを言っておくというのも悪くない。
「……………………寂しくなるな」
「……え」
「……お前がいなくなると寂しくなるなって、そう言ったんだ」
鏡越しで目と目を逢わせた。
「お前と出逢う前。俺は色々あって……ずっと一人で生きてきた。これからも生きていくしかないと思って、自分から人を遠ざけて、自分から人と交わろうとしないで、そうやって生きていくと決めたくせに、俺はお前と出逢った」
「………………後悔、しているんですか?」
一瞬、はっと息を呑む侑子。
しかし、答えなど一つしかなかった。
「……してるわけねーだろ、馬鹿」
おもむろに振り返って、今度はちゃんと目と目を直接逢わせ、
「…………出逢えてよかったって、ちゃんと思ってる」
想いをそのままぶつける。
「お前に出逢わずに生きていけば、きっと俺は後悔したままだったと思う。無理矢理にでも人と関わることの大切さを思い出させてくれたお前がいたから、俺は今、すごく幸せなんだって思える」
「……私が」
「ああ、そうだ」
俺は力強く頷いて、これでもかってぐらい侑子の顔を見る。
「ありがとうな。侑子。お前と出逢えたことを誇りに思う」
言って。俺は全身の温度が急上昇した。
そしてその温度のおかげもあり、俺はすぐさまに自分がとんでもないミスを犯していたことに気が付く。
ここは風呂場で。
風呂場に入るのに当然服を着ているわけもなくて。
むしろタオル一枚しか身に着けていなくて。
それは侑子という少女もまたご同様だった。
恥ずかしくなって侑子は慌てて後ろを振り返って風呂場から出ようとした。
だけど。
それがいけなかった。
それだけは絶対にしてはいけなかった。
――――ばっ!?
言葉は出なかった。声は出なかった。
それでも心の奥底から、その少女に向かって叫ぶ。
――――――――――――――ばっ、馬鹿野郎!? う、……後ろ……な……なんで……なんで……後ろがノーガードなんだよっ!?




