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039 7月12日

 風が吹いた。

 二人の髪がなびき。

 互いが見つめ逢う。

 そして、数分間の沈黙が流れて。

 いつまでも続くかもしれないと錯覚を起こしそうになる頃。

「「…………ごめんなさい」」

 二人の声が重なった。

「「……え?」」

 再び重なる少女らの声。

 自分の声以外の声が聞こえ、二人は驚いたように顔を上げた。

 …………やっぱりかと。俺は密かに笑う。

「………………な、何でアンタが謝るのさ」

「…………山岸さんこそ……どうして……」

「どう考えたって私の方が悪いんだから謝るのは当然でしょ。一体アンタはどこまで人がいいのよ!」

「お言葉ですけど、悪いのはどう考えても私の方だと思います」

「いや……私」

「私です」

 ずいっと近づく顔と顔。

 ………………耐えろ。耐えろ。

「いやいやいや、常識的に考えてさ。いじめるヤツと。いじめられるヤツ。どっちが悪いかなんて幼稚園児でも知ってる」

「それはいじめられてた場合ですよね。私はいじめられているなんて思っていませんから」

「はぁっ!? アンタね……私がトイレにスマホを流したの覚えてないの?」

「いらないなーってちょうど思ってました」

「んなわけあるかぁ!?」

「はい。嘘です。ちょー困りました」

「あ、…………アンタねえ……」

 山岸はゴソゴソと鞄の中を漁り、

「困ってるならその時に言いなさいよ、馬鹿!」

 お洒落気のない銀色のスマホを侑子に向かって投げつけた。

「……え、これ」

「………………………………アンタのでしょ!」

 ぷいっと山岸は侑子から視線を逸らした。その頬は何だか赤い。

「…………なぜこれが?」

「……………………………………流したの、スマホのケース」

「……え?」

「……………………だ、だから…………流したのはそのスマホによく似たスマホのケース」

 侑子は銀のスマホを受け取ったまま固まる。

 仕方がないので俺が変わりに聞く。

「そんな面倒なことをするぐらいだったらどうして流したんだ?」

「………………怖かったから。みんなが変わっていくのを見て。私がこれをしないと標的が変わっちゃうような気がして。だから……流さないと、怖くて耐えられなかった」

 逸らした視線を再び侑子に向けて、

「だから…………ごめんなさい」

 深く頭を下げた。

「その他もろもろ全部含めてさ、やっぱり私が悪いんだから……侑子は謝らないで」

 頭を下げたまま今度は顔を上げようとしない山岸。

 その山岸の肩に添えられる手。

「顔を上げてください。山岸さん」

「上げらんないよ。私は許してってお願いしても許してもらえないって知ってるから」

「……………………」

 懺悔ざんげを続ける山岸に対し、侑子は一度だけ考える素振りを見せてから、

「えいっ」

 肩甲骨の隙間に指を押し込んだ。

「痛つ!?」

 …………あれは痛い。

 山岸は痛みに思わず顔を上げる。その瞳の目尻に涙を浮かべて。

「あ。上がりましたね」

「上がりました…………じゃなくて、……あ、…………上げましたじゃないのこれ……無理矢理上げました……って意味じゃないの……これ」

「気のせいです」

 いや。十割気のせいじゃない。

「何度でも言います。山岸さんは謝る必要はありません。許しを請う必要もありません」

「なんでよ」

「それは……」

 納得出来かねぬ表情を浮かべる山岸の視線に負けないぐらいまっすぐと山岸を見つめる侑子。

 そしてその震える肩に手を置く。

「私がこの言葉を言えなくなってしまうからです」

「言葉?」

「…………ずっと言いたかったんです。でも……言えなくて」

 静かに瞳を閉じて。

 勇気を振り絞るようにして瞳を開き。

 心の底からこみ上げた感情を声にして。


「ありがとうございます」


 侑子は言葉を紡ぐ。

 ――――ありがとう、と。

 やっと、言えたな。侑子。

 俺は静かにその光景をただただ眺め続けた。

 今はただの傍観者だ。

「は? 今、なんて」

「耳遠いんですか。ババアですね」

「聞こえとるわ! なんでありがとうなんて言ったのかっつってんの!」

「???」

「何をキョトンとしてんのよ!」

「だっておかしなことを言うなーって」

「おかしいのはアンタでしょ! 何を血迷ったこと言ってんのよ!」

「だっておかしいですよ。…………普通言いません?」

「何が!」

「お礼」

「……え」

「お礼の時は言いませんか? ありがとう――って」

「お礼って……」

 きっと山岸には侑子が何を言っているのかを理解出来ていないだろう。

 ここに鏡を持ってきたい。今、すごく面白い顔だぞ。

「私は別に……アンタに憎まれはしても、感謝をされるようなこと何も」

「いいえ」

 明確に侑子は首を横に振る。

「しましたよ。たくさん」

 肩に置かれた手がそのまま頬に移動する。

「ふえっ!?」

 ギャルの相貌には似つかわしくないほど可愛らしい声を上げる山岸。

 その山岸の頬に両手を添え、そのまま自分の方へと顔を無理矢理向けさせる侑子。

「…………私にいっぱい話しかけてくれました。私のことをいっぱい気にかけてくれました。たった一回の好奇心なんてものじゃなく。何度も、何度も、――――何度も。とても……嬉しかったです。嬉しくて……嬉しくて。とても緊張してしまいました。嬉しくて。とても嬉しくて声をあげることも出来ませんでした。私は……いつか絶対にお礼を言おうって。ずっと……ずっと思っていました」

「う……れしい……」

「はい」

 山岸は押し黙る。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 四秒。

 五秒。

 それが山岸の限界だった。

 わなわなと体が震え、頬に添えられた侑子の手首を掴み、一呼吸。


「分かりづらいわぁっ――――――!?」


 そして、また。

 俺の限界でもあった。

 山岸の怒号をきっかけに俺もまた、大きく笑う。

「はっはっはっはっはっはっは――――」

 顔を真っ赤にして今生こんじょうの怒声を上げる山岸。

 腹を抱えて、転げまわる俺。

 その光景をキョトンと眺め続ける侑子。

 今だけはここに警察や警備員が来ないことを祈る。

 完全にアウトだ。

 通報どころか現行犯逮捕されるレベルで不審者丸出しだった。

「はぁ!? 嬉しい? 今、なんつった――――!」

 頭を馬鹿にされた不良高校生ばりにキレた。

「聞こえてるじゃないですか。嬉しいって言いましたよ?」

「聞こえてんだよ! 聞こえてキレてんだよ馬鹿!」

 うがー! と今にも飛びつきそうになる山岸を見て、ようやく俺は間に入る。

「素なんだよ、これが。こいつの」

 犬歯をむき出しにして野良犬みたいに吼えている山岸がこちらを見る。

 怖い。

 だけど、どうしてだろうか。何だか微笑ましい。

「素?」

「そ。素」

「これが…………」

 獰猛な表情が消えていく。

「なんつーかさ、こいつには悪気なんてない。言いたいことは言うし。間違ってることは間違ってるって言う。それは知ってるだろ」

 こくり、と山岸。

 それを見て侑子は不思議そうに首を傾げる。

「けど、さ。それ以上に…………臆病な女の子なんだ。それも分かって欲しい」

「臆病……」

「失礼な」

 驚いたように声を漏らす山岸。

 ムッとして俺をじーっと視線を突き刺す侑子。

 遊園地の喧騒の中、やがて山岸は侑子の顔を見てからどんな鈍感なヤツが見ても見落とさないほど大きくため息を吐く。

「分かりづらい…………ほんと、アンタ……」

「そうですか?」

 相変わらず不思議そうに首を傾げる侑子に対し、

「そうよ」

 たったの一言で全てを納得したように小さく笑う山岸。

「…………ははっ」

「???」

 もうそれが本当におかしくて。もどかしくて。

「なあ、侑子」

 たまらず侑子に提案した。

「いいんじゃないか。なっても」

「慶介さん?」

「……友達に」

「「……え?」」

 重なる声。

 それを聞いて俺は余計なお世話だと思った。

 ………………もうなってるか。

 けど、俺はそれでも自分勝手な提案を口走る。

「友達ってのはさ。遠慮しあって出来るものじゃない。こうやって言いたいことを全部吐き出せるやつのことを言うんだ。…………だから、大丈夫だ」

 キョトンと侑子と山岸は見つめ逢ってから。

「ふふっ」

「ははっ」

 同調するようにして小さく笑って。

「…………なる?」

「…………いいんですか?」

「…………いいに決まってんじゃん」

「…………あ、ありがとうございます。山岸さん」

「理佳」

「えっ」

「理佳って呼んで」

「り、理佳……さん?」

「違う。理、佳」

「理佳……」

「……よろしく、侑子」

 自然に笑みを零す。

 照れた侑子の肩を抱いて、山岸はとても嬉しそうに笑い。

 侑子もまた、照れながらも優しい顔で笑う。

 本当の彼女の笑顔を見て。俺もまた小さく笑う。

 ――――雨降って地固まる、か。

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