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019 7月9日

 ――翌日の朝、目を覚ますと、侑子の姿がいなくなっていた。

 四畳半の狭い部屋の中に綺麗にたたまれた布団と、朝食のおにぎりだけを残して、昨日まで隣で眠っていた少女の姿が忽然と消えていた。

 気が付けば、俺は部屋に鍵もかけずに外へと駆け出していた。

 階段を駆け下り、両の足に込められる限界までの力を入れて全速力で駆けていた。

「……………………あの、馬鹿っ!」

 昨日、お前が自分で言ったんだぞ。

 自分の居場所がないって。

 それなのにどこに行くってんだよ。

 悪態を吐きながらも、俺は両足に今まで入れたことが無いほどの力を入れて走る!


 無地のブラウスに紺と灰色のプリーツスカート。そして腰まで伸びた黒髪。見慣れた後ろ姿。

「…………………………いたっ、いやがった、待て、――――侑子っ!!」

「……………………え?」

 侑子はびくりと体を強張らせてから、足を止め、こちらを振り返った。

 素直によかったと安堵した。まだ遠くまではいってなくて本当によかった。

 この地区に住んでいるにせよ、何キロも遠くに行ってしまっていたらもう見つけることは困難だっただろうから、本当によかった。

 安堵して俺は侑子の前で膝に手を置いて、息を整える。

「……こ、…………こんな走らせやがって……」

 二六歳のおっさんの体はこんなに走るように作られていないことを痛感。

「え……ど、どうしたんですか……? 鍵はちゃんと郵便受けに入れておきましたよ」

「…………どこ行くってんだよ……」

「……え?」

「……お前、言ってたろ。家を飛び出したって。友達がいないから行く場所がないって。……じゃあどこに行こうってんだよ」

「……それは」

 答えない。

 それは答えているのと同じだった。

「また体でも売るのか?」

「…………」

 沈黙。

 それもまた、答えである。

 だから。

「あっ」

 俺は侑子の両肩に、無礼にも手を乗せて、ぐっと力を込める。

「やめろ」

「………………え?」

「他人の人生を狂わせるのも。自分の中の怖さを誤魔化すのも」

「…………」

 侑子は言葉に押し黙る。無表情の顔が前髪で隠れて、更に表情を読めなくなる。

 だから俺は肩に込めた力を強めて、じっと彼女の寂しげな瞳を真っ直ぐと見据え、

「お前が体を売る目的は屋根のある家に泊めてもらうこと。それは、分かる。行く場所がないから、そうするしか雨風を凌げないと思うのも、分かる。だけどな、焼け野原のおっさんを思い出してみろ。あのおっさんが善意一〇〇パーセントでお前に声をかけてきたと本当に思うのか? 違うだろ。だから震えて怯えた。緊張して声も出せなかった。違うか?」

 言う。

 きっと侑子のような相貌で、家に泊めてくれと男に懇願すれば誰もが迎え入れるだろう。

 でも、それは。きっと侑子が最も恐れていることを受け入れなければいけなくなる。

 そんなこと、俺は絶対に認めない。

 他人が何を言うと、おごりが過ぎると頭で理解していても、そんなことを認める訳にはいかなかった。

「………………………………か」

 侑子は搾り出すように、言った。

「…………仕方ないじゃないですか」

 胸の奥に溜まった、目に見えないドロドロとした名称も分からないようなものを、搾り出すように言った。

「――そうしないと、そうしないと私は生きられない。だったら……仕方の無いことじゃないですか……」

 ――そうしないと生きられない。

 俺はこの言葉を聞きながら、昨日の夜の言葉を思い出す。

 ――迷惑をかけたくないから。

 結局、結局だ。

 この子はどこまでも優しい子なんだ。

 優しい子だからこそ、いじめという言葉も口に出来ず。自分が悪いからクラスが変わってしまったと責め、……自分の責任で、押し潰されそうになっている。

 そんな切迫した想いが、侑子を苦しめている。

 だから、俺は言葉を探す。

 ――彼女を救うことの出来る、言葉を。

 そして、それを伝えなくてはいけない。

 人の機微に疎い彼女に。


「怖いって言って何が悪い。つらいって言って何が悪い」


「……え」

 彼女はゆっくりと、しかし確実に、自分の意思で顔を上げる。

「やりたくなんかないんだろ本当は。だから仕方ないなんて言葉を使ってる。当たり前だ。見ず知らずの男に肌を晒すことが怖くない女の子なんていない。いじめられて辛くないやつもいる訳ない。なあ、当たり前なんだよ。全部。全部が当たり前なんだ。怖いなら怖いって言えよ。辛いなら辛いって言えよ」

 俺の言葉に、侑子のドロドロとした何かが反応する。

「……――でも、」

 それは起爆剤となり、ついに爆発した。

「――――だったらどうすればいいんですかっ! 私には分かりません。言うだけならなんだって言えるでしょうけど、私には分かりませんっ!!」

 激情は、更に燃えたぎる。

「知らない男の人に声をかけられて怖かった! 誰も助けてくれない状況が辛かった!」

 俺はその激情を受け止める。

 肩に置いた手を、そのまま少女の頭に乗せ、

「何だ。言えるじゃないか」

 そのまま優しく撫でてやる。

「……お前はさ、溜め込み過ぎなんだよ。前に言ったろ。腹の中に溜まった鬱憤うっぷんを吐き散らかせって。……どうだ? ちょっとラクになってないか。……侑子。甘えるなって言われたって? は、そんなもん忘れちまえ。甘えろ。うんと甘えちまえ。誰だって、一人じゃ生きていけないんだ。だったら甘えられる時に甘えるのも一つの手だと思うぞ。……甘えろ。俺に。……少なくとも、俺は、お前が心配だ」

 無感情だと思っていた侑子の瞳に激情の奥の、更に奥。そこに一筋の感情が扉を開く。

 今まで誰にも見せることの出来なかった、――少女の本当の顔。

 不安、憤り、弱音。全ての感情が混ざり合って出来た、想いが溢れ出した。

「……………………………………………………………………ひぐっ」

 俺は震える侑子の頭を撫で続けてやった。

 でも、これでよかったんだと思う。

 彼女の瞳からは枯れるほどの想いが流れ落ちていたけれど、それでも彼女は笑っていたような気がするから。

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