014 7月7日
午後七時。
バイトを終えた俺は帰路を辿っていた。
昼のバイトと言ってもやることは深夜にやっていることと変わらないので、特に苦労もなかった。深夜と違う点と言えば、夕方にかけての時間帯にお客の層がガラリと変化して学生のお客が増えたということぐらいだろうか。
こんな早い時間に家に帰る習慣などあまりなかったのでちょっとした違和感を感じていた。
が、そんな違和感など些細なことだと気付かされる。
自宅のアパート前。俺は昼の時と同様に足を止めた。――止めざるを得なかった。
明かりがついていた。自室の窓から覗くLEDの明かりに今まで感じたことのない違和感を感じた。明かりが点っているということは中に人がいるという訳で。
つまりは家の中に侑子がいるという訳で。誰かが家の中で待っているという訳で。
目の前に見える明かりの部屋は自分の部屋のはずなのに他人の部屋のように感じて、本当にここが俺の部屋なのか錯覚してしまいそうになる。
しかしいつまでもこうして部屋の明かりに慄いていても仕方が無いので俺は階段を上って、扉の前まで歩く。
小さく息を吸ってから扉を開く。
「ただいま」
帰ってきたので一応、そう言った。
「……………………お、……おかえりなさい、です」
やはり返ってきたのは侑子の遠慮がちな言葉だった。
侑子はそういう言葉を言い慣れていないのか、少しだけどもる。……あ、そうか。家って言ったって他人の家だもんな。そりゃ緊張するか。
妙に納得した。
部屋の中に入った瞬間、腹が鳴った。
すきっ腹とは言え、腹が鳴るなんて自分でも珍しいとも思ったが理由は簡単だったので特に不思議には思わなかった。
匂いだ。
腹を刺激するいい匂いに本能的に腹が鳴ったのだ。
台所で作業をしていた侑子は一旦コンロの火を止めて、どこで見つけたのか白いエプロンを身に着けた状態でとことこと歩いて俺を出迎える。
「おかえりなさい、慶介さん。ご飯にしますか。お風呂にしますか。それとも……わ、た、し?」
「……えーっと」
「あ、ごめんなさい。なので聖剣探すのやめてください」
「分かってんならやるな馬鹿」
「いや……こういうこと言った方が慶介さんが喜ぶのかなと思いまして。中々レアだと思いませんか? JKの幼な妻って」
「うるさい黙れ馬鹿」
呆れながら俺は靴を脱いで居間へと足を運ぶ。
「でも本当にどっちにしますか? ご飯が先でいいんですか?」
「そうだな。腹も減ってるし、先に飯で」
「はい」
小さく頷くと侑子はエプロンの紐を結び直して、台所へ向かう。
俺は居間に置いたちゃぶ台の前に座り、侑子が料理を運んでくるのを黙って待つ。
「もう少しで出来るのでちょっと待ってて下さい」
台所から調理を再開した侑子の声が飛んできた。料理の匂い自体がすでに部屋中に充満しているので、そう時間はかからないだろう。
馴染みのない光景に煙草を吸おうか悩んだが、止めておく。
いい加減この光景に慣れておかないと明日からの喫煙率がぐっと上がってしまう。……多くても一日一本ぐらいしか吸わなかったのにな。
誰かと一緒にいるだけでこうも生活のリズムが狂ってしまうのかと密かに苦笑。
そうこうしている内にちゃぶ台の上に完成した料理が乗せられていく。
「……コロッケ?」
俺が尋ねると侑子はメガネの奥の片目を閉じてから、
「はい。流石に千円だけじゃ二食分は補えなくて、残り物のアレンジ料理になってしまいました。……でも肉じゃがで作ったコロッケというのも美味しいんですよ。冷めた肉じゃがをタネにすると味がたっぷり染み込んだ美味しいコロッケになる上にソースや塩がいらなくて済むので、さっぱりいただけます」
ことんとちゃぶ台の上に最後の皿を乗せた。
やっぱり女子力たけー。俺だったら絶対思いつかん。残り物はそのまま残り物として処理する。絶対に。
実質、ちゃぶ台の上に置かれた料理は食べる前からすでに美味かった。見た目と匂いだけで料理が美味いと思ったことなど一度もない。素直に感心した。
――なお、味もまた見た目通りで、美味かった。この見た目と匂いで不味かったらそれはそれで才能だが。
「ごちそうさま」
水代わりに飲んでいた缶ビールを一缶開ける。
普段酒を嗜んではいるが、こうも酒が美味いと感じたのは初めはあまり飲めなかった酒がスムーズに喉を通るようになった頃ぐらいだろうか。
侑子の作った飯を一口、また一口と咀嚼する度に酒が進んだ。
結果。
「真っ赤ですね」
酔った。
ほろ酔い程度ではあるものの、酒が全身を駆け巡っていつもより酔いが早く回った。
夕飯を食べ終わった満腹感と適度な陶酔感に反応して一気に睡魔が襲ってくる。
「ふぁ…………」
あくびをしながら壁際に背中を預けると、ポケットの中からするりと中身が落ちた。
「あ」
まどろみに落ちる寸前、俺はそれを拾い上げて黙って食事の後片付けをしていた侑子に放り投げる。
「ナイスキャッチ」
「……なんですか、これ」
「鍵」
「えっ」
言われて侑子は少し驚いたような顔をする。
「渡すの忘れてたけど、今日の帰りに作っといた。新しい住処探すにもお前が買い物に出るにも必要になるだろ。家から出て行く時は鍵掛けろ」
「……いいんですか?」
「いいも何も必要だから渡すまでだ。あ、もし帰るようになったら玄関の扉の新聞受けから入れておけばいい」
「……ありがとうございます」
鍵を胸に抱えたままぺこりとお辞儀をする侑子。
と。
お辞儀をした瞬間、侑子の穿いていた灰色のスウェットのポケットから妙にカラフルな二枚の紙がひらりと舞い、ちゃぶ台の上に着地する。
何だ? と思って俺はそれを確認するために身を起こしてちゃぶ台へと体を近づけた。
ちゃぶ台の上に落ちたのはピンク色の紙と黄色の紙。大きさと紙の上部に空いた小さな穴を見てそれが何なのかすぐに察し付いた。
「……短冊か?」
「あ、……これ。今日行ったスーパーのサービスで貰ったものです」
「……そういや今日は七月七日だから七夕の日か」
短冊なんてものを見たのは学生の時以来だ。社会人にもなるとこういったイベントに仕事でもない限り、積極的に関わろうとしないのですっかり忘れていた。
「笹はありませんが、せっかくだから何か書いてみますか?」
「……何かって言われてもなぁ」
短冊に書く物と言えば、基本的には願い事とかなんだろうが。残念ながらこの歳になると願い事は望んでも叶わないことを知っている上に、こういうことを願っているんだと思われるのも恥ずかしくなってしまう微妙な年頃なのだ。
なので丁重にお断りをしようとしたのだが、
「…………」
「…………う」
ちゃぶ台の上からピンクの紙を取るとペンを片手に持ち、侑子は沈思黙考。
俺の答えを聞く前に何かを書く気マンマンで、これを断るというのは場の空気を完全にぶち壊してしまう。
面倒くせー。
面倒に思いながらも俺は仕方なくペンを取って何かを書こうとちゃぶ台の前に座る。
かと言って。
何かが思いつくほど俺の中で夢というものは儚くなっていた。
いつからだろうか。
自分の夢を自分で見なくなったのは。
夢というのは生きているものが見る当たり前のことだと思っていたのに。
俺はいつからか夢を見なく、――望まなくなっていた。
思わず目を伏せて、小さく。本当に小さくため息を吐いた。
目を伏せたその先に侑子の書く短冊の内容が目に留まった。覗くつもりは毛頭無かったが、目に入った。
その短冊には確かに、
『降魔戦争の終結 侑子』
そう書かれていた。
意味が分からなかった。ウケ狙いとしてもそれはない。
そういえばこいつは売店に行けば三八〇円で売っている週刊誌のことを聖剣とのたまっていた。もしかしたらそういう人種なのかもしれない。
「何だ、それは」
たまらず俺は侑子に声をかけた。
「あ、人の願い事を見るなんて人として最低です」
最低でいいです。何ですかそれは。
「ふざけてんの?」
「大真面目ですよ。何言ってるんですかまったく」
「じゃあ何だ降魔戦争って」
「話すと長いですよ。量的には文庫本一〇冊ぐらいで半分ぐらいの量で」
「じゃあいい」
「かつて天使と悪魔は……って、ええっ!? 中々聞けないんですよ、この大スペクタクル物語は」
アニメ化必至です、と侑子はAカップの胸をこれでもかと張る。
何だか一気に面倒になったので黄色い短冊を無造作にポケットの中の財布の間に挟みこんでからシャワーを浴びるため立ち上がった。
「……シャワー浴びてくるわ」
返せ。
俺の苦悩を返せこの馬鹿。
……って、もうお前のくだらない願い事は見たんだから隠さなくてもいいっつーの。




