012 7月7日
ベンチの上で俺は少し眠ってしまっていた。
公園の時計を見ると時間はちょうど午後一時。昼ぐらいまで時間を潰して来いという少女の願望もこの時間であれば叶えているだろう。
アパートに戻る途中、俺は一度足を止めた。
なぜなら、アパートの裏の狭い窓が少し開いていて、その窓から洗濯物が干されていたからだ。ありえなかった。あの窓に洗濯物が干されている光景などあのアパートに引っ越してきて初めて見たからだ。
嫌な予感がした。
俺は階段を上って、扉を開く。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
ほら見ろ。
何で三つ指をついてる。何でご主人様。
「…………」
帰った瞬間の第一声に俺はどうしたものか考える。
俺が固まっていると三つ指を付いたまま首を傾げる侑子。それが可愛らしい服装であれば多少動揺したかもしれないが、色気の欠片もない灰色のスウェットだったのであまり動揺しない。
俺は色々考えて、床に落ちていた週刊誌を丸めて、
「どこのメイドだ、お前は」
軽く侑子の頭を叩いた。
「痛いですご主人様」
「誰がご主人様だ」
「メイドはお嫌いでしたか?」
「はぁ?」
「メイドが嫌いな男の人なんていませんってどこかの本で見たんですけど」
「そんな偏見本捨てちまえ」
まぁ、別にその本の内容は間違っちゃいないが、スウェット姿のメイドにぐっと来る男はあまりいないと思う。
侑子に気をとられて気が付くのが遅れたが部屋の中が綺麗になっていた。ゴミ袋の山自体は収集日ではないため変わっていないが、久しぶりに磨かれた床を見た気がする。
散乱していた本や雑誌の類は綺麗に整頓されているし、脱ぎ散らかされていた衣類も洗濯機に放り込まれて、万年床の布団と一緒に干されていた。
「……外に出てろってこういうことだったのか」
「……お嫌でしたか?」
「……まぁ、別に嫌という訳ではないんだが」
見られて困るものも捨てられて困るものもないし、部屋の隅々に散らばっていた本なども綺麗に積まれていた。何も問題はない。
しかし何でまた、こんなことをという疑問が浮かぶ。
と。
俺がどうしたものか分からず考えていると、
「あ、鍋が」
侑子が慌てて俺の横を通り過ぎて、吹き零れていた鍋の火を止める。
……何年ぶりなんてもんじゃない。初めて見たかもしれない。台所がちゃんと台所しているところ。
「もう出来ましたから、お昼ご飯。食べますか?」
食卓に炊き立てのご飯と肉じゃがと焼き魚が並ぶ。自分にとってはありえないほどの充実っぷりだった。見た目と匂い共に完璧で、思わず腹が鳴る。
「食べますね?」
「……ああ」
隠そうにも鳴ってしまったものは仕方が無いので小さく頷いて食卓の前に座った。侑子はちょこちょこと台所と食卓の間を何度か往復した後、俺の真正面に座る。
「どうぞ」
ご飯の盛られたお茶碗を俺に手渡すと、それをぎこちなく受け取る。あまりにも親しみがないのでこれでよかったのだろうかと疑念が生まれるほど。
たかがお茶碗を受け取るだけでこの有様だ。
とにかく大人としての見栄を守るために俺は目の前の飯に手を付けることにした。
「いただきます」
「…………ぁ」
侑子が何かを小さく呟いたように聞こえたが、俺自身余裕がないのでドスルー。
箸でじゃがいもを抓んでそれを口にする。
「う、美味い」
美味かった。文句のつけようもないほど美味かった。ご飯の炊き加減も絶妙で米自体の甘みを引き出し、肉じゃがは程よい甘みで口休めにちょうどいい。焼き魚の塩加減がご飯を更に美味しく加速させている。
「これ……買ってきたとかそういうんじゃないよな?」
「まさか。買うとこれだけで千円は超えてしまいます」
「え、じゃあさっきの金って」
「はい。材料費です。でも、よかったです。この家に米があって。なかったら千円じゃ済みませんでしたから。やっぱりご飯の基礎はお米ですからね。食べないと駄目ですよ? あ、これお釣りです」
本当に千円だけでこのご飯を侑子は作ったのか。何と言う女子力。
俺にレシートとお釣りを渡すと侑子もご飯に手を付ける。
レシートのお釣りも誤魔化さずに渡した少女に疑問が浮かぶ。何故あんなことをしていたのか? 何故こんなことをするのか? その二つの少女の像は重ならない。だからこそ疑問符が頭の中を駆け巡る。
「……何が目的だ?」
あんなこと。つまりは売春の方を聞くのを躊躇った俺は、ひとまずこんなこと。つまりは今の現状の目的を少女に尋ねた。
「目的とは?」
箸を止めて、俺に向き直す侑子。
「お前が俺の部屋を掃除したりご飯を作ったりする理由だ」
「………………もしかしてお嫌でしたか?」
「さっきも言ったけど、別に嫌じゃない」
むしろ部屋の掃除をしてくれたり、ご飯を作ってくれたりしてくれてとても感謝している。面倒なことを全部やってくれたのだから。
だが、そんなことは口が裂けても言えん。
「あ」
ぽふん、と。侑子は手のひらの上にもう片方の手の拳を置く。
「お礼です」
「お前絶対なんか今思いついたろ」
問いかけた瞬間、ぎぎぎと。侑子はぎこちなく窓の方を向いた。
「…………」
「こっちを見ろ」
「…………」
「おい」
もう一回俺は床の週刊誌を丸めようとしたが、
「あれ……ない」
部屋が綺麗に片付いてしまっていたのでいつも床を探せばすぐに見つかった週刊誌が見当たらない。
「ふふふ。聖剣エクスカリバーは地平線の遥か彼方です。過信しましたね。慶介さん」
「じゃあ聖剣クラウソラスで」
ふふんと調子付いていたので、俺は積まれていた雑誌の中から聖剣クラウソラス(三八〇円)を丸めて侑子の頭を叩く。
「あ痛」
「舐めるな小娘。この家には聖剣だろうと魔剣だろうと探せばいくらでも見つかるんだよ」
「……そうでした。……聖地ですかここは……」
ってか何だ聖剣って。
「で? 何でだ」
「……私、帰るところがないんです」
「お前はこの地区に住んでるんじゃないのか?」
「……あれは、何となくですよ。えっと……ニュアンス?」
「ニュアンスだけでゴミ出されてたまるか」
「インスピレーション?」
「もっと悪い」
いかん。ボケ合戦をし始めると話が一向に進まん。
それに深いところを聞くのは止めよう。聞かれたくもないだろうし、深く関わるのは面倒だ。
「よく分からんが帰る場所がないのは分かった。で。その心は?」
「しばらくここに厄介にさせてもらえないかなと思いまして」
あー、やっぱそうか。
何か理由があるとは思ったが、そういうことか。
「厄介ってどれくらいだ?」
「……永久就職?」
「……」
「あ、すいません。なのでもう振りかぶるのやめてもらえませんか? 結構痛いんですよ、それ」
「知るか。言え」
「今日はせめて泊めてもらえませんか? 服が乾くのに一日はかかるので」
「まぁ、そうだな」
「ありがとうございます。……そう、ですね。期間という訳ではなく……新しい住処が出来るまでお願い出来ないでしょうか? もちろんその間のお世話は何でもします。食事の用意から掃除などのあらゆる家事雑務をやります。……ご所望とあれば夜のお世話も」
「震えてたやつが言うことかよ」
「……震えてません」
震えてたっての。
「初めに言っとくけど、一ヶ月とかそんな長い間は無理だからな」
だらだらと居候されても困るし、家に連れ込んでおいて追い出すというのも何だか違う気がしたので承諾することにした。
「ありがとうございます!」
ぱぁっと微笑んで、深く頭を下げる侑子。
初めて見せた頬を染めた侑子の微笑みに、バッと、勢いよく明後日の方向を見た。くそ……、何でそんな地味なくせに。くそ。
「??? どうかしたんですか?」
俺の行動に侑子は首を傾げる。
こういう時はこの少女の鈍感さに感謝せねばなるまい。知らなくていい。察するなよ。
「ご、ごちそうさまって言おうと思っただけだよ。ごちそうさま! 俺、バイトの時間だから行って来る!」
体の熱を誤魔化すように俺は玄関まで駆ける。
扉の前で俺は一度止まる。そしてドアノブに手を置いて、
「飯、美味かった。――あと、行ってきます」
そう言って扉を開ける。
扉を閉める瞬間、
「…………………………………………………………行ってらっしゃい」
躊躇いがちにそう聞こえてきた。




