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010 7月7日

 朝食を食べ終えた少女は静かに告げる。

「……脱いでも、いいですか?」

 少女の意を決した言葉に俺は言葉を詰まらせる。冷房の効かない真っ暗な室内の温度が更に上昇したように感じた。

 ぺたんと座り込んだ姿勢のまま、少女はわずかに頬を火照らせながら俺を見上げ、絹糸のような黒髪から混迷の色に染まる黒い瞳を覗かせる。

 少女は太ももに乗ったぶかぶかになったYシャツの裾を指で気恥ずかしさを誤魔化すように抓んだ。沈黙に耐えかねた少女のささやかな抵抗であった。

 それを見て、小さな罪悪感を覚える。

 やはりこんなことを少女の口から言わせてはならないと、男として、八つも年下の少女にそんなことを言わせてしまうとは気配りが足りなかったと唇を噛む。

「お願い、します……」

 侑子は上目遣いでそう懇願する。

 ……駄目だ。知り合ってから間もない少女にこれ以上、男に対してそんなことを言わせてはいけない。

 こういう時、どうすればいいのかなんて決まっていた。男して、年上の男性として俺は意を決める。少女の意思を尊重すること、想いに応えることこそ、今俺に出来る唯一のことだろう。

「……分かった」

 固く目を閉じる。

 深く息を吸い、止める。少女との一線を越えるべく、俺は両目を見開いた。

 そして、ついに俺は少女との一線を越えるべく――俺は体を前に押し出す。


「――スウェットでいいか?」


 本や雑誌で出来た少女との間に生まれた一線のように積み上げられた障害物を跨ぎ、

「あ、はい。ありがとうございます」

 侑子にポンとスウェットを手渡す。少女はそれを受け取ると小さくお辞儀をした。

「すいません。ブラウスだけじゃなくスカートまで洗ってくださって、本当にありがとうございます」

「まぁ……上だけ洗うってのも気持ち悪いだろ。一緒に洗えば手間も変わらんし」

「あの……じゃあ、下脱ぎたいので……その」

「分かってる。外出てるよ。着替えが終わったら呼んでくれ。あ、それと着替えが終わったらでいいからカーテンを開けといてくれ。暑かったらエアコン付けてもいいぞ」

 そう言って俺はもう一度障害物を跨いで、部屋を出る。

 それにしてももう少し部屋は掃除した方がいいかもしれない。たかが移動するだけで一線を跨がなければいけないなんて面倒臭いことこの上ない。


 ◇


「お待たせしました」

 着替えが終わった侑子は一度玄関の扉をノックした後、扉を開ける。

 侑子は渡された上下の灰色のスウェットを着ていて、メガネというアイテムの効果も相まって地味度に磨きをかけていた。

「……なんか地味だな」

「……普通です」

 くいっとメガネを上げて地味という言葉を即座に否定。

 ま、どっちでもいいか。


 そういえば名乗ってないことを思い出し、ひとまず軽く自己紹介をすることになった。

「俺は高坂慶介、二六歳。……仕事はコンビニのバイト。……趣味とかは特にない」

 転校生でもないのにどうしてこんな状況になっているのかは不明だが、いつまでも「おい」「お前」で呼び合うというのも長年の夫婦みたいで気持ちが悪かったのもまた事実。

 俺が名乗ると侑子は再び頭を下げる。かなりの礼儀のよさだった。もしかしたら自分より礼儀がいいかもしれないと俺は年上としての尊厳を失いかける。

東山侑子(とうやまゆうこ)……です。前にも言いましたけど一八の高校生です。趣味は読書とトランプです」

 もう一度お辞儀。

「慶介さん……ですか」

「お、……おう」

 俺は侑子に悟られぬように顔を背けた。かなりぎこちなかったと思う。

 子供ガキ相手に何を欲情してんだか。……でも不覚にもドキッとしてしまった。『さん』付けくらいは想像の範囲だったが、まさかの名前呼びだったので、不覚にも、本当に不覚にもドキッとした。

「この家には慶介さん一人で住んでいるんですか?」

「ん? あ、ああ」

「そうですか」

 無表情のまま侑子は固まる。そして何を思ったかパチンと手を打ち鳴らして両手を合わせる。

「慶介さんが家を出ている間ざっとこの家を見てみたんですけど、この家……カップ麺とレトルト食品しかないですよね?」

「必要ないものは買わないようにしている」

「戦国時代じゃないんですからその若さで死ぬおつもりですか? もっと栄養のバランスとか色々か」

「回りくどい。何だ。言いたいことがあるならさっさと言え」

「……人の話を聞かない人は嫌われます」

「言え」

「結論から言うと……金を出せ的な」

「なに?」

「今……財布の中カラなんです。昨日の人身売買もそのせいもあってなんです」

「……いくら?」

「とりあえず千円もあれば今日の分は……」

 要求金額が思いのほか少なかった。

 昭和じゃないんだから千円なんて金額のはした金、売春をしなくても二時間ぐらいバイトすればすぐに溜まるだろうに。

 俺は首を傾げながらも財布から千円札を取り出すと、侑子に渡した。渡していいものか悩んだが千円ぐらいなら盗られてもそれほど痛くないし、この礼儀正しい少女が千円を盗むためだけに詭弁を垂れるとも思えなかった。

「ありがとうございます」

 小さくお辞儀をすると侑子は渡された千円札を綺麗に折り畳み、ポケットの中に突っ込んだ。

「で? どうするつもりなんだ」

「そうですね……。とりあえず慶介さんはお昼ぐらいまで外に出ててもらえますか?」

 いきなり出て行けと言われた。

 当然納得できるはずもなく食い下がったが、

「お昼ぐらいまででいいんで」

 たったの一言で全てを一蹴される。

 背中を押され、俺は家の外に追い出された。

 何かを企んでいるというのは分かったが、外の熱気を浴びて考えることが面倒になった俺は昼ぐらいまで時間を潰すことにした。

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