9-11 贅沢な湯浴み
薄暗い森を抜け、この屋敷に辿り着いた身の上では、湯船に浸かるという行為が何よりも愛おしい。
湿り気のある冷気の中、あてもなく森の中を進んできたために、身体が思いの外に冷えています。
体の汚れを落とす意味においても、湯浴みは重要。
(しかし、これは想定外! よもやまさかの事態が続きますわね)
小鬼、森人、犬頭人ときて、次に現れたのが大鬼でしょうか。
見た目は小鬼に似ていますが、人間を遥かに上回る巨躯!
その怪力を活かして、どこからともなく運んできた湯を、庭にある湯船を満たしてしまいました。
それだけならばそこまで驚かなかったのですが、ここでイローナが追加の一手。
湯船に赤い薔薇を浮かべ、さらに“薔薇水”まで入れたのか、良い香りまで漂ってきました。
(なんという趣向! 幼いという割には、ここの主人は相当な感性の持ち主だわ!)
怪力の大鬼を用いての湯の準備に加え、庭園での入浴。
屋内では決して味わえぬ解放感と、周囲にはバラの花が咲き乱れ、湯に浸かりながら庭園を楽しむという稀有な発想。
そこにバラの花を浮かべ、香水を注ぎ入れるという発想も常軌を逸しております。
鼻腔をくすぐるほのかな香りが、また心地よさを誘う
もてなす、と言う事がどういうものなのかをよくよく理解しているのは確実。
いえ、それ以上のものを持ってきている。
(客人を招く、と言う意味において、もっとも重要なのは“一期一会”の精神。命儚く、いつ潰えるとも知れぬ人の世にあって、出会う人、招く客に“完璧なる御奉仕”を旨とする私にとって、これは逆に学ばされる)
自分の発想の貧しさが見透かされてくるような接待。
完全にしてやられた感が湧いてきますね。
(嫉妬、そう、この感情は“妬み”。他者を羨むという人間の持つ感情。客商売をしている者として、負けを認めざるを得ない。だからこそ欲しい、知りたい、この屋敷の主人とやらの為人を!)
少し温めの湯に体を沈め、ますますここの主人への興味が強くなっていきました。
エルフの話では幼いとのことですが、それはやはり見た目だけなのでしょう。
ここまで行き届いた気配りと趣向を凝らしたもてなしができる以上、その見識の深さが透けて見えるというものです。
(そして、このバラの香り! 昂る感情を抑えてくれます。身に染みる湯の温もりとともに、心に染み入りますね)
すっかり体も心も解されました。
これで後は酒と美味しい食事、あるいは豆茶や茶菓子でもあれば、最高なのですが。
(……いえ、おそらくはそれも用意しているはず。多分、湯上りでサッパリしたところに、会食の場でも設けている事でしょう。ここに主人は万事抜かりがなく、こちらを見透かして来る)
先程の小鬼とのいざこざにしても、屋敷の中で主人に侍っているであろうメイドのエルフが、素早く現れた事からも、判断も指示も早い。
こういう輩が一番手強い。
力でゴリ押しするような輩や、あるいは金貨の詰まった袋で殴りつけてくるような財で押し切る輩に対しては、知恵と口八丁でどうにかしてきたのが今までの私。
しかし、力に財、それらに加えて知恵まで加わるとなると厄介極まる。
おまけに、エルフメイドの話では、ここの主人は“少女”だという事。
もっとも得意とする技、“色仕掛けによる篭絡”も通用しません。
(なお、ヴィニス夫人に関しては例外としたいです)
あの方は同性愛者ですからね。
初めて私をお買い上げいただいたのは、十四歳の若い盛り。
少女が娼婦を買い上げるという異端行為、あれだけは本当に例外。
ここの主人があのような特殊事例であるとは考えにくい。
なにより、人外の存在ですから、何を求めての招待かもまだ確定しておりませんし、言動には注意しなくてはなりません。
(などと考えつつ、入浴して待たせているのは、やはり私も大概でしょうか?)
お待たせするのも考え物ですが、だからと言って森の中を突っ切って来た薄汚れた姿で現れるのも、失礼と言えば失礼。
エルフメイドがすんなり湯浴みを提供してくれた点からも、この辺りは予想の範疇なのかもしれません。
得体のしれない相手、まずはその正体や、あるいは性根の部分を掴まなくては、それこそ小鬼の餌にでもなりかねません。
「お客様、お湯加減はいかがでしょうか?」
考え事をしている内に、またエルフメイドがやって来ていた。
その手には大きな籠があり、湯をふき取るタオルや、着替えと思われる薄くピンクがかった服も見える。
そろそろ上がれ、という催促のようですわね。
まあ、このまま今少し贅沢な湯浴みを続けていたいですが、主人を待たせすぎるのも論外。
湯船から上がり、程よく温まった身体を、受け取ったタオルで拭き取る。
(このタオルも相当な逸品。上級貴族が使うような、ふんわりとした布地。どこまでも“差”を見せ付けてきますわね)
さり気ない小物からも隙なく良品で揃えるのは、センスの良さの表れ。
表面だけを取り繕うような手抜きはなく、どこまでも完璧主義を貫く。
これだけでも育ちの良さや、感性の良さが伺えるというもの。
しかし、ここでとんでもない不意討ち。
「え!? これが代えの服ですか!?」
差し出された服、それはあろう事か寝間着!
少しピンク色の入ったゆったりとした装い。
まあ、こういう服でしたらば、多少の大きさの差についても大丈夫でしょうが、よりにもよって“コレ”とは。
(まさか、さっきの意趣返しとか言いませんよね!?)
胸元がキツいとか言ってしまったから、ゆったりとした服を用意した。
そう取れなくもないですが、そもそも寝間着で主人の前に出ても良いのかどうか。
「ご心配には及びませんわ、お客様」
こちらの困惑する態度を汲み取ってか、声をかけてきましたが、その表情は冷静そのもの。
なんの問題にも感じてないようです。
「主人は夜型の生活をしておりますので、今し方起きたばかりでございます。なので、主人もまた寝間着でございます」
「まさかのパジャマパーティー!?」
想定外にも程があります。
確かに、気の知れた者同士であれば、お泊まり会、寝間着で談笑というのもアリなのでしょうが、よもやの不意の来客にそれを用いるとは!
(バカにされているのか、それとも本当に感性が“お子様”なのか!?)
判断に困る状況です。
しかし、相手がそれを望んだ以上、その流儀には従わざるを得ません。
感性云々がどうあれ、時間に干渉するほどの魔術の使い手であるならば、怒らせたらどうなるか分かりかねます。
出方を窺う意味でも、まずは相手の敷いた轍に乗るとしましょう。
差し出された寝間着を着込み、さらにメイドエルフが櫛で髪まで梳いてくれる至れり尽くせり。
不安と困惑を抱えながら、メイドエルフに誘われるがままに、主人の元へと向かうのでした。




