9-5 ただ一人で森の中
「う~ん、ここ、どこ?」
非常にまずい事になりました。
狩猟大会が行われている狩場の外れでリミアと談笑していますと、不意に現れたイノシシに私の乗馬が驚き、制御不能に陥りました。
振り落とされないように必死にしがみ付き、どうにか落馬せずに済みましたが、状況は最悪。
落ち着いて状況を確認すると、とても“助かった”と思える状況ではありません。
暗い森の中、私と馬だけの世界となっておりました。
(これはまずい。完全に方角を見失いました)
私は薄暗い森の中をキョロキョロ視線を泳がせながら、跨る馬をゆっくりと進ませましたが、どこをどう走って来たのか分からなくなっています。
肌にまとわりつくような寒気と気味の悪さをもたらす霧、嫌な雰囲気を醸し出し、不快であり、恐怖を喚起させる。
湿り気のある冷気が這い寄るように袖口や首回りから入り込み、肌に滑り込んでは、体温と気宇を削いでいく。
快晴の狩猟大会と言う事で熱くならないようにと、女物の狩衣を着込んでいたのが仇となりました。
(まずい。思った以上に、森の中は寒い。体温が下がってきましたわ)
私は思わずブルリと身を震わせてしまいました。
あれほど温かかった陽光は、森の木々に遮られ、森の地表には届かない。
そのくせ、足下からは冷気を帯びた湿気が漂っており、律義に体温を奪って来る。
馬に跨っていなければ、足が冷え性にでもなってしまいそうですわね。
ズボンから伝わる馬の肌の温もりが、今は何よりも愛おしい限りです。
「さて、これは困りましたね。完全に迷子になってしまいました。方角が分からず、おまけに道もない。元いた狩猟場に戻るのも至難の業ですね」
太陽が見えないため、方位が掴めない。
走って来た道もどちらか分からないため、元来た方角に引き返す事も出来ない。
人の気配どころか、獣の気配すらない。
ただポツンと森の中を、私と馬だけの組み合わせです。
(沢でもあれば、そこを伝って川を見つけられましょうに、それも周囲には見当たらない。頼りになりそうなものは、何もありませんね)
音が本当に何も聞こえない。
時折嘶く馬の声だけ。
ならばと、馬に吊るしておいた道具類も、状況打開には役に立ちそうもない。
獣に襲われたように、護身用として吊るしておいた細剣が一本。
それだけです。
「うん、冗談抜きでまずいわね、この状況は。魔女が森で迷子なんて、御伽話でもないわよ」
人々が抱く魔女の想像図として、やはり薄暗い森の中で居を構え、怪しげな薬品を鍋でグツグツ煮込むというものがあります。
そんな魔女が森で迷子など、笑い話にもなりません。
もう一度注意深く周囲を確認しても、やはり目印になりそうなものはない。
馬の足跡を辿ろうにも、どこをどう走って来たのか分からないし、馬の足跡の判別も困難ときた。
いずれは体力が削られていき、弱ったところでオオカミなどの獣に襲われたら、まず命はないと思わなくてはならない。
よもやまさかの、いきなりの危機的状況です。
つい先程まで、弟子と和やかに談笑していたとは思えないほどの急転直下。
どんでん返しとは、こういう事を言うのでしょうか。
「いやいや、とにかく本当にまずい。寒さが尋常ではないわ。どこかで暖を取る状況を作らなくては!」
本当にこの寒さが我慢ならない。
いずれ夜の帳が降りてしまえば、さらに冷え込むのは明白でありますし、今の服装では凍えることは疑いようもない。
火を熾そうにも道具が一切ない。
そうなると、頼りになるのは“馬”。
天然の湯たんぽです。
(風の当たらない洞でも見つけて、添い寝すれば温まる事はできる。とにかく体力を回復しないと)
馬にしがみ付いてかなりの距離を走ったため、身体が思っている以上に重い。
昔は陛下のお供で遠駆けの随伴をした事もありますが、思っていた以上に体が訛ってしまったのかもしれません。
なにしろ、私もすでに三十代も半ばに差し掛かろうという年齢。
徐々にではありますが、若さというものが損なわれてきたという事でしょうか。
「知識はあれど、人の英知の結晶たる道具がなければ、何一つできることはなし。残念! 無念! 私の人生はここで終わってしまった! ……はぁぁぁ」
なんと言う駄作の芝居か。
悲劇の舞台劇でも演じているように振る舞っても、虚しく自分の声が響き渡るだけで、反応反響は一切なし。
リミアに脚本を書かせた方がマシなレベルです。
漏れ出たため息とて、白い。寒い。
(とはいえ、何もしなくては何も始まらないし、ただ終わるだけですね。移動して、洞か沢を見つけましょう。生きて森を出なくては!)
洞があれば、馬との添い寝で体力を戻せる。
沢があれば、水分の補給と道標となる。
どのみち、立ち止まっていては何も始まらないのは明白。
ちょいと泥にまみれようとも、最後まで足掻くしぶとさもまた、魔女の嗜みです。
(とにかく、まっすぐ進みましょう。そうすれば、いずれ沢か林道にでもぶち当たり、そこから帰り道を割り出せるかもしれません)
そう考えた私は手綱をしっかりとにぎり、ゆっくりと馬を進ませました。
とにかく動けるのは、僅かばかりの陽光が差し込む今だけ。
日が沈めば、完全な暗闇となるでしょう。
それまでにどこか良い場所を確保せねば、冷えた空気で体が冷やされ、そのまま衰弱死しかねません。
とにかく急ぎましょう。
森の空気はただただ私の心を陰鬱な気分にしていき、気力と体力を容赦なく削っていきました。
急げ急げと心の中で急かしながらも、今となっては馬だけが頼りです。
頼みましたよ、唯一の相棒よ。




