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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第12章 見よ、この人こそ
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 悠太が第三病棟に辿り着いたのは、日付が変わる三十分ほど前のことだった。Y駅から出る列車は既にまばらであり、少年は苛立ちながら車両に乗り込むと、病院最寄りのF駅で下車した。そこから病院まで全力疾走した彼は、息を弾ませながら、今ここに立っていた。

 時間がない。老人はそう言っていた。悠太は呼吸が整うのも待たず、集積場のゴミの山を一瞥した。錆び付いたまま塗り直されていない鉄製の扉が、明滅する夜光灯にさみしく照らされていた。

「……」

 扉のノブに手を掛け、少年はゆっくりとそれを回す。本当に開いているのだろうか。その不安と闘いながら、悠太はそっと手前に引いた。

 ……扉は開いた。蝶番が軋んだ音を立て、悠太の心臓を凍らせる。少年は自分の体がギリギリ通るほどの隙間を作ると、それに身を捻り込み、扉を後ろ手に閉めた。最後の重々しい金属音がしたところで、悠太は廊下の奥を見やった。

「……」

 消灯された廊下に、非常口のグリーンランプが、いどろりをそえた。

 悠太は目を閉じ、あの日案内された、クリスの病室を想起した。

 部屋の位置取りを確認したところで、少年は数メートル先の階段へと歩を進めた。最初の段に足をかけ、物音のしない限界の速度で、一気にそれを駆けあがって行った。

「……」

 廊下には誰もいなかった。悠太は非常灯の明かりを頼りに、クリスの病室をさがしあてた。ドアに近付くにつれ、これが只居の罠なのではないかという疑念が、少年のなかで頭をもたげ始めた。もし只居の死が演技だとしたら──悠太は覚悟を決め、ドアノブを回した。

 ……鍵はかかっていない。病院なのだから当然だ。悠太は猜疑心を押し殺し、ドアの隙間へと体を滑り込ませた。

「……」

 室内は静まり返っていた。規則正しいシリンダーの昇降音と、クリスの穏やかな寝息だけが、薄暗い部屋の中に現れては消えていく。

 全てが終わろうとしている。ただそれだけが、少年の確信としてあった。

「ユウタ」

 ふいに、闇の中から声がした。悠太は、部屋の隅を振り返る。望んでいなかったその存在に、悠太は呆然と立ち尽くす。

 影は人の形を取り、ひとりの美しい少女が、窓から射し込む月の光に浮かび上がった。

「マリアさん……」

 悠太は、少女の名を呼んだ。

「来てくれたんだね、ユウタ……待ってたよ……」

 マリアは距離を取るように、光と影の狭間で歩みを止めた。少女の放つ近付き難い雰囲気に、悠太は声を掛けることすらできない。

 ふたりは黙って、お互いの瞳を見つめ合う。

「……ツガワさんたちは?」

 先に口を開いたのは、マリアだった。

「瑠香と真飛は、病院の入口にいるよ……」

「どうして一緒に来なかったの?」

「君と……ふたりきりで話し合いたかったから……」

「……そうなんだ」

 マリアは、はにかむように視線を落とした。愛の告白をしているかのような錯覚に、少年は己の空想を嘲笑う。

「嬉しい……」

 少女が何に感謝の念を表しているのか、悠太は察しかねた。三:一の状況を笠に着ず、対等に話し合おうとしたことだろうか。

 無意識のうちに、少年はポケットに触れていた。携帯のブラウザには、Apostoliのページが開いてある。しかも、瑠香と真飛の白紙委任状付きだ。もし何かあれば、悠太の一言で願いが叶うという内容。それを切り札にして、悠太は謎解きを始める。

「マリアさん……僕は使徒になったんだ……只居さんの代わりに……だから、僕は使徒として、今ここで君に質問するよ……君が、ユダなんだね?」

「……」

 少女は細い顎を沈め、厳かにうなずきかえした。

 自白した少女をまえに、悠太はくちびるを固くむすんだ。

 そして、先を続けた。

「君がどうやって他の使徒を殺したのか……それはもうわかってる……君は、カミサマから受け取った召喚状を僕に転送し、あたかも僕がユダであるかのような状況を作り出した……そして、他の使徒たちに僕の情報をばらして、接触させた……トリックは、極めて簡単だったんだよ……でも、ひとつだけわからないことがある……なぜ……なぜこんなことを……?」

「もうすぐ、カミサマが死んじゃうから」

 しどろもどろになる悠太に先んじて、マリアは動機を告げた。

 だが、悠太はその言葉を理解しなかった。

「カミサマが死ぬ……? 君はカミサマを知ってるの?」

 マリアは、ふたたびうなずきかえした。

「うん、ユウタの目のまえにいるよ」

 そんなはずはない。使徒会議の座は、この病院ではないのだ。

 悠太は、ベッドに眠る少年をまなざして、うろたえた。

 それとも、八向の情報が間違っていたのだろうか。

 悠太は混乱したまま、マリアへと視線をもどした。

「ウソだ……サーバーは基地に……」

「そっか……知ってたんだ……でもね、クリスはずっと寝てるから、お話しすることはできないんだよ……米軍基地にあるのは、タダイさんが私のために用意してくれた会議場……表示されないだけで、私もログインしてたんだよ? 管理人として……そして毎朝、私が結果をクリスに報告してたの……もちろん私は、いつもユウタの意見に合わせてたから、安心して……」

 なにを安心すればいいのか、悠太にはわからなかった。

 じぶんの意見がキセキに反映されていたという、自尊心についてだろうか。

 だが、そんな腹のさぐり合いは、もはやどうでもいいように思われた。

「ユウタ、七年前の事故で犠牲になった人の名前は?」

 唐突な質問に、悠太は気勢を削がれた。なぜ話が常にあの事故へと回帰するのか、少年は疑問に思う。

「……クリスくんだろう?」

「それから?」

 悠太は、二〇〇六年五月五日の新聞記事を思い起こす。

「それから、只居さんも……」

「ほかには?」

 悠太は、その記事をもう一度視界に投じてみる。……名前など思い浮かばない。無名の犠牲者たちが、統計的な数字を横たえているだけである。

 少年が課題を投げ出しかけたとき、ふと別の記事が脳裏をよぎった。

「須賀……真理奈……!」

 その瞬間、悠太の耳に老人の声が聞こえてきた。十三人……最後の晩餐……あの場にいたのは、カミサマと十二人の使徒たち……ここから導き出される結論に、悠太は新たな使徒の正体を知る。

「君のお母さんも、使徒だったの……?」

 マリアは、問いを問いで返した。

「あのとき、基地でなにがあったのか知りたい?」

 知りたくはない。それが、悠太の本心だった。

 愛する人を狂気に駆り立てた原因を、少年は闇に葬り去りたいとすら願っていた。

 しかし、これはもはや、彼ひとりの事件ではない。瑠香と真飛、そして死んで行った他の使徒たちのためにも、悠太は真相を明かさなければならないと考えるようになっていた。

 しばらくの沈黙のあと、少年はそっとうなずきかえした。

「そう……だったら教えてあげる……八年前、基地で生活していたある使徒が気付いたの……それまでバラバラだと思っていた使徒たちが、なぜか同じ町に住んでるって……今回の私たちみたいにだよ……その使徒は、カミサマと十二人の使徒全員を、一年かけて見つけ出した……そして、五月五日にパーティーを装って、彼らを一ヶ所に集めたの……何のためだと思う?」

「使徒会議……だろう? 只居さんは、その場面を偶然目撃したんだ」

「……外れ」

 マリアの一言が、少年の思考を乱した。使徒会議でなければ何だと言うのか。まさか本当に晩餐だったわけではあるまいと、悠太はありもしない空想に耽る。

 少年が答えを見つけられない中、マリアは先を継いだ。

「その使徒はね、パーティーに来た全員を殺すつもりだったの……自分も含めて……」

 悠太は、少女の台詞を理解することができなかった。有意な日本語だが、あまりにも現実離れしている。少年の思考は、最もありえそうな解釈を求めて彷徨い、そしてある結論へと達した。

「……集団自殺したってこと?」

「ちょっと違うかな……その使徒はね、自分が死ぬ前にこう願ったの……私の娘を使徒にしてくださいって……そして、みんなを巻き込んで死んじゃった……」

 須賀真理奈。悠太は、その使徒の名前を悟った。

 そして、新たに使徒となった少女の名も。

「なんで……そんなことを……」

「ユウタ、お話しはちゃんと順番通りに聞かなきゃダメだよ?」

 先を急ぐ少年を、マリアはそう諭した。

 悠太は少女の紡ぐ言葉に、黙って耳を傾け始める。

「事故の後、その使徒の家族は、アメリカに帰ったの。そこで半分幸せに、半分不幸せに暮らしていた……少女は、自分が使徒になったことに気付かなかったんだよ。だって、彼女は事故のとき、自分のお家にいたから……カミサマも、どこかへ行っちゃったし……」

 マリアはそこに幕間を求め、しばし息を継いだ。

 物語のターニングポイントが近付いていることを、悠太も薄々は察している。だが、使徒の無軌道な自殺がどこへ向かおうとしているのか、それはまだ深い霧の中にあった。

 人工呼吸器のシリンダーが下がり始めたところで、マリアは唇を動かす。

「ところがね、女の子が十二歳を迎える前の日に、それは起こったの……彼女は、事故で眠ったままの弟に、冗談でこうお願いしたんだ……明日は雪が降るといいな、そうすればパパは早く帰って来れるのに……って。そしたらね、十月のサクラメントで、本当に雪が降ったんだよ……女の子は不思議に思って、いろいろなお願いをしてみた……ケーキを食べたいとか、そんなちっぽけなことだったけど……」

 結末が見えてきた。そう考えた悠太は、そっと話に割り込む。

「そして、君は気付いたんだね……クリスくんが、カミサマになったって……」

 その誤解を予期していたのか、マリアは首を左右に振る。

「使徒とカミサマが死んだとき、女の子はお家で寝ていた……女の子が気付づたのは、弟に不思議な力があることだけ……」

「じゃあ、どうやって使徒とカミサマの存在を……?」

 マリアはポケットから、一枚の紙切れを取り出した。暗闇の中でもそうと分かるほどに、何度も読み込まれた形跡のある古びた紙片。少女はそれを押し開き、文面に視線を落とす。その瞳の奥で、喜怒哀楽の全てが、柔らかく絡み合っているように思われた。

「みんなを裏切った使徒はね、娘に手紙を書いてたの。それは、少女が十六歳になるときに届けられた……多分、子供が見たら意味が分からなくて捨てちゃうと思ったんだろうね。もう確かめようがないけど……」

 カミサマに訊けばいいのに。悠太は、ふとそう思った。しかし、少女がそれを問わなかった理由も、少年には朧げながらに見え始めている。

 何か、恐ろしい悪意がある。その中心へと向かって、マリアは話を再開した。

「そこには、使徒とカミサマのこと、そして女の子が使徒になったことが書かれていたんだけど……それはユウタも知ってるから飛ばすね……大切なのは、最後の文章だから……」

 マリアは一息吐くと、その美しい声で、歌うように朗読を始めた。

「『以上で、お母さんは筆を置きます。マリアちゃんが十六歳になったとき、世界はあなたとクリスくんのものになるのです。たったふたりの全能の姉弟が、キセキを独り占めできるのですから。お母さんは、あなたとクリスくんが幸せになることを、この世界の誰よりも、この世界の何よりも深く願っています。さようなら。あなたの真理奈より』」

 手紙は、そこで終わっていた。無論、少年の位置から文面を読み取ることはできない。けれどもマリアの目は、物語を紡ぎ終えた語り手のように、遠くを見つめている。

 一方、悠太はこの手紙に、得体の知れぬ違和感を覚えていた。

 そして、その正体に気が付く。

「ちょっと待って……カミサマは、この町でしかキセキを起こせないんだろう……? そんなちっぽけなことのために……なぜ……?」

「それはね……使徒心得の中に、ひとつだけ嘘が書かれているからだよ……」

 嘘。悠太は、その言葉に衝撃を受けた。絶対と信じていたものの崩壊。だがその絶対性の中に綻びがあることを、少年は即座に見て取った。使徒心得の送り主がクリスでないこと、これは火を見るよりも明らかである。彼は手紙を投函するどころか、プリンターを使うことすらできないのだ。

 では、だれが……答えは、ひとつしかなかった。手紙の執筆者は、カミサマではなく、ユダだったのである。ユダは、使徒心得の中にひとつだけ、偽の条文を挿入したのだ。そのことに気が付いた悠太は、全身から血の気が引くのを感じた。

「ねえユウタ、使徒とカミサマは、これまでずっとずっと存在し続けてきたんだよ……それがこの町でしかキセキを起こせないって、おかしいと思わないかな? イリホさんはそれに気付いて、全国デビューしたいって言ってたけど……彼女もまさか、カミサマが何でもできるとは思わなかったんだね……でも、本当になんでもできるんだよ、カミサマは……世界を滅ぼすことも、作り替えることも……なんでもね……使徒を十二人にもどすようにお願いしたのも、私なの……」

 人智を超えたカミサマの力に誘われ、悠太は迷いの森へと彷徨い込んでいた。それと同時に、マリアの人間離れした意志の強さにも、少年は驚嘆せざるをえない。

 唖然とする悠太に向かい、少女はひとつの問いを放つ。

「ユウタのお父さん……アリマさんだっけ……アリマさんは、お仕事のとき、泥棒に刺されて死んじゃったんだよね……?」

「そうだよ……でも、どうしてそれを?」

 有間。それが、少年の父姓であった。父が死んでから母方の姓を名乗り始めたことは、真飛ですら知らない。悠太は、マリアの答えを待つ。

「私は、ユウタのことを全部調べたから……」

 マリアは、当たり前のようにそう答えた。

「調べた? 僕のことを? なぜ?」

 少年の矢継ぎ早な質問に、少女はひとつの、全てを解く鍵を与える。

「ユウタはね、カミサマ候補だったんだよ……六番目のルールを覚えてる……?」

 悠太は、曖昧に頷き返す。適用されないはずの条文が、曙光のように輝き始めていた。

「これはね……ユウタへの試練だったの……ユウタがカミサマになれるかどうか、それを確かめるための……そして、ユウタに相応しい使徒を選ぶための……だから、このゲームを思いついたの……私はそのヒントを、聖書から得た……」

 聞き慣れぬ言葉に、悠太は眉をひそめた。

「セイショ? ……なんだいそれは?」

「そっか……その記憶は、マリアがこの星から全部消したんだ。でも、ヒントなしでやらないと、チャレンジにならないから。カミサマは、最初から死んでたんだよ」

 悠太は、少女の話を理解しなかった。

 触れてはならないものに触れたような、そんな気がした。

「どうして、僕を選んだんだい? 僕は……僕は普通の人間だよ!」

 悠太は声を荒げた。少女のしなやかな指が、緋色のくちびるにそえられた。

 いつか図書館で見た絵のようだと、少年はその仕草に魅入った。

 だが、彼の言葉は、彼の問いは、沈黙をこばんだ。

「ちがう、だって……だって、世界にはもっとすばらしいひとが、たくさんいるじゃないか。紛争地帯で活躍するひととか、おおぜいの病人を助けてる医師とか、それから……」

 マリアはほほえんだ。

 いつもの、あの笑顔で、くったくなく、なにもかも諦めたように。

「ひとを信じるって、むずかしいね。私っていうちっぽけな世界のなかから、ただひとりのひとを選ぶなんて」

 そんなのはまちがっている。少年は、そう答えようとした。

 だが、舌が石のようにへばりつき、もはや体の一部ではないかのようだった。

 マリアは、これまで一度も見せたことのない、おだやかな表情で、悠太に語りかけた。

「ユウタは、すべての誘惑に克った。だから、カミサマになれる」

 そんなことは知らない。少年は、そう答えようとした。

「君は……君はたったひとりきりのときも、キセキを悪用しなかったんだろう? だったら、君がカミサマになればいいじゃないか!」

 それがじぶんの本心なのか、悠太にはわからなかった。

 ただひたすらに、マリアの一方的な贈り物を拒みたかった。

「私はカミサマにならない」

「だったら……だったらクリスくんを目覚めさせよう! それが一番いい!」

 熱にうかされたように、悠太はそう叫んだ。マリアは、首を横に振る。

「人間はクリスみたいになっても、筆談はできるんだよ……YesとNoくらいは答えられるの……私はもう何度もその質問をした……弟の答えは、いつも同じだった。クリスは、大人になりたくないんだろうね」

 あまりにも無責任だ。

 そう言おうとした悠太を制して、マリアは先を続けた。

「ねえ悠太、このカミサマの力は、私たちに相応しいものなのかな? ううん、答えなくてもいい。すこししゃべらせて……私は思ったの。もしカミサマの力が、ひとを傷つけ、ひとを悲しませるなら、そんなものは要らないんじゃないかって……ちょっと違うかな……要らないんじゃなくて、相応しくないのかもしれない……カミサマの力に、私たち人間が……キセキでひとを救おうとしても、ひとがそれに値しないとしたら……それは、最初からできないことをしようとしてるのかも……だから、私はカミサマにはならない。ママを裏切って、カミサマになったクリスも裏切ることにする。私は、私がこのキセキに値しないことを、身をもって証明したかった……ただ、それだけ」

 マリアは、そこで瞳を閉じた。

 過去を思い返すように。

 しばらく瞑想したあと、少女はその可憐なまぶたをあげ、少年をまなざした。

「私には、もうなにもわからない」

 それは僕の台詞だと、悠太の心はつぶいやいた。

「それの……それのどこに、救いがあるんだい? だれが君を救うの?」

「救いなんかないよ。だから私も……ほら、死刑執行人が来る」

 少女の指摘に、悠太は耳を澄ませた。

 カツンカツンと、小さな足音が聞こえてきた。

 看護士のものではない。

 もっと重厚な、死を予感させる響きで、病室へ近づいてきた。

 気を取られた少年の背中に、マリアがささやいた。

「今日の夕方六時、私はある人に、正体を明かした……だから、彼は来た……」

 悠太は時計を見た。十一時五十五分。

 少年はあわてて、ベッドに駆け寄った。

「クリスくん! マリアさんの死を回避するんだ! 早く!」

 悠太の叫び声に、マリアは悲し気な顔を浮かべる。

「クリスはもう意識がないの」

 悠太は、初めてクリスを見舞ったときの、彼女の言葉遣いを思い出した。

「そんな……」

 絶句する悠太の胸に、マリアは身をゆだねた。

 はじめて触れ合った肌と肌の温もりが、少年の耳から、足音をかきけした。

「メール、返さなくてごめんね。遅くなったけど、これが私の答え」

 やわらかな情熱が、少年のくちびるにふれた。一瞬とも永遠とも思えるその仕草のなかで、少女の瞳からあふれる、光の雫を見たような、そんな気がした。

「……」

 少女はくちびるをはなした。

 そして、悠太のそでを引いた。

「さあ、クリスのそばにいてあげて……」

 長針が時を刻む。もうすぐ十二時だ。シンデレラの魔法が解ける時間。

 二度と履けないガラスの靴を残して、少女は立ち去ろうとしていた。

 廊下の足音は、扉のまえで止まっていた。

 少年の願いを無視して、ドアノブが回り始めた。

 とびらがひらく。緑色の光を背負った男が、ドア枠に姿をあらわした。

 悠太の目と死刑執行人のそれが、暗闇のなかでかちあった。

「平戸さん……」

「仮屋くん……」

 男たちは、おたがいに息をのんだ。

「君も、ユダさんに呼ばれ……」

 そのとき、マリアの存在に気づいた平戸は、少年から視線を逸らした。

 針は五十九分を回っていた。

 なにも思い浮かばない。

 悠太は、すべてを見届けようと思った。

「君が、ユダさん?」

 平戸の呼びかけに、マリアは一歩前に出た。月明かりを背負った少女の姿は、あまりにも美しく、あまりにも幻想的であった。これが夢ならいいのに。少年は、そう思った。

 マリアは軽くあごを引き、右手をその胸にそえた。

「私の名前はユダ……そして……」

 マリアは右手を宙にかかげ、ベッドのうえの少年へとふりあおいだ。

 長針の針が落ちる。

 少女はそのくちびるをひらき、最後の言葉を告げた。

見よ(ビホールド)この人こそ(ザ・マン)……」

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