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「ハァ……ハァ……」
光のない空間で、湿っぽいカビの匂いを嗅ぎながら、悠太は呼吸を整える。
「ハァ……ハァ……」
少年は、膝に両手をついた。ここなら誰にも見つからない。彼には、その自信があった。小学生の頃、鬼ごっこやかくれんぼで秘策として使っていたのが、この開かずの男子更衣室なのだ。一見すると厳重に閉鎖されており、中へ入ることはできないように思えるのだが、実はちょっとした工夫で鍵が外れてしまうのである。そのことを発見した悠太は、何か重要なものを賭けているときにだけ、ここに隠れることにしていた。卒業するまで、一度も見つかったことはない。
「……」
耳を澄ませる。足音は聞こえてこない。あまりの疲労に、悠太は衣服が汚れるのも厭わないで、姿の見えぬ壁へともたれかかった。落ち着きを取戻し始めた息遣いに混じって、どこからか流水の音が聞こえてくる。配水管か何かだろうか。少年は、ぼんやりとそんなことを思った。
ピリリリ ピリリリ
「⁉」
しまった、この手があったか。悠太は、マナーモードに切り替えていなかったことを悔やみながら、携帯を取り出す。急いで電源を切ろうとした悠太の目に、見知らぬ番号が飛び込んできた。
瑠香ではない。未登録の番号だ。悠太は、震える指で通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
電話が繋がったのを確認しているのか、妙な間が空いた。微かな雑音に混じり、相手の吐息が聞こえてくる。少年がもう一度尋ねようとしたところで、ふいに音声が入った。
《仮屋くんかね?》
悠太は、そのしわがれた声に、うっすらと聞き覚えがあった。
「只居さん?」
《やれやれ、生きとるとは思ったが……よかったわい》
嬉しそうに、老人はそう呟いた。自分が瑠香に襲われていることを察知したのだろうか。だが、そんなことはありえないように思われた。老人ホームから、いったいどうやってこの惨劇を透視するというのだ……。
そこで悠太は、小さな悲鳴を発する。
「只居さん……まさか、あなたがカミサマ……?」
その途端、通話口の向こうから、乾いた笑い声が聞こえてきた。
《ワシはただの老いぼれじゃよ……一介の使徒に過ぎんけん……》
使徒。その言葉に、悠太は安堵と憤怒の入り交じった声で答える。
「やっぱりあなたがタダイなんですね? どうして黙ってたんですか? 他のみんなは、無理矢理にでも連絡を取ってきたのに……今日だって、フィリポさんとマタイさんが……」
《そのふたりなら、もう死んどるよ》
「……え?」
《ワシの部屋でな》
少年の脳裏を、瑠香の幻影が掠めた。自分は、とんでもない思い違いをしていたのではないか。悠太は、携帯を両手で支えながら、言葉を継ごうとする。
「只居さん……それじゃあなたが……あなたが裏切り者……」
《それも誤解じゃよ……ワシは殺しておらん……》
容疑の否認。自白した容疑者が一転して手のひらを返したような、そんな状況に、悠太は困惑してしまう。
「じゃあ、なぜあなたの部屋に……死体があるんです……?」
弁解不可能だ。言い逃れできるはずがない。悠太は、釈明を期待していなかった。
ところがそこへ、只居は全く予期せぬ答えを提示してみせた。
《それはの……君に正体がバレたからじゃよ》
何を言ってるんだ……この老人も自分を疑っているのか……悠太は、目下の危難も忘れて、自身の無実を訴える。
「違う! 僕は殺してなんかいない!」
更衣室にこだまする声を、老人の一言が打ち消す。
《そう、君は殺しておらん……無実じゃ……》
「だったら……だったらさっきの発言はいったい……?」
《悠太くん、君は使徒ではないんだよ……》
沈黙。暗闇を背景にして、これまでの出来事がフラッシュバックする。少年の脳は限界を超え、一瞬の推理の中に、流れ星のごとく全ての事象を垣間みた。
悠太が結論を口にする前に、只居はそれを代弁し始めた。
《裏切り者は……ユダは他におるんじゃ……君は、気付かんかったかね? シモンもヨハネも、それにペトロとマルコも、死ぬ六時間前に、君に正体を喋っとったことにな……バルトロマイの身に何があったのかは知らんが……大方、事故の前に、君に正体を掴まれたんじゃろうて……まあ、彼女も死ぬと決まっとったんじゃが……》
「嘘だ……僕は……僕は……」
膝の震えが止まらない。七人は、自分に正体を掴まれ、そして死んで行ったというのだろうか。理性ではなく良心が、その事実を拒もうとしていた。
《七年前の五月五日、基地で何があったと思う?》
老人の穏やかな声が、少年を現実へと引き戻す。悠太は、自分が死の契機となったことを忘れるため、その問いに意識を沈めた。
「爆発事故……ですか……?」
悠太は、そう答えた。だが、老人が尋ねているのは、もっと別のことではないかと、少年はそんな気がしてならない。
案の定、只居は次の質問へと移る。
《そのとき何人死んだかを、君は覚えとるかね?》
「……死者の……数?」
悠太は、新聞の記事を網膜に再生する。二〇〇六年五月五日の記事。只居の名前をそこに見つけたことは覚えている。そして、意識不明になった少年が、マリアの弟クリスであることも。
しかし、他の犠牲者については、同情以外の念を抱いたことはない。悠太は、回答欄を埋められぬまま、老人の答えを待った。
《覚えてないかね……十三人じゃよ……》
「十三人……?」
それがどうしたと言うのだ。そう言いかけたところで、悠太は全身の毛が逆立つのを感じた。その素数が意味するものは、ひとつしかない。少年は、乾いた唇を動かす。
「まさか……あのとき集まっていたのは……」
《そう、そのまさかなんよ……あれはな、海兵隊の打ち上げなどではなかった……カミサマを含めた、最後の晩餐だったんじゃよ……そして、使徒もカミサマも、みんな死んでしもうた……ワシはあの晩、たまたま基地のゴミ収集をしとってな、ふと子供が建物の中に入って行ったんで、様子を見ようとしたんじゃ……するとな、いきなりあの爆発が起こって……ワシは、助け出した使徒のひとりから、全てを聞いたんじゃよ……名前はアンドリューとか言ったか……結局彼は死んでしもうたが、あのときも、裏切り者はユダじゃったな……》
「あのときも? いったいそこで何があったんです? ユダは誰なんですか⁉」
《知りたいかね?》
老人は、静かにそう尋ねた。それが、死よりも深い決心を要求していることに、少年は本能で気が付く。
ぽたりと天井から水漏れの音がした後、悠太は口を開いた。
「はい……」
《そうか……》
老人は、ユダの正体を告げた。少年が携帯を取り落とさなかったこと自体が、既にひとつのキセキのように思われた。
「嘘だ……」
それは、最後の心理的抵抗だったのかもしれない。だがその名前は、迷宮と化したこの町の出口を、ぴたりと指し示していた。動機を除いて、全ての辻褄が合う。少年は、そう認めざるをえなかった。
言葉を失った少年に、只居は問いを放つ。
《君は好きな子がおると言ったな……まだ、その子を愛しとるかね?》
悠太は答えない。ただ呆然と、更衣室の闇を見据えている。
《愛しとるかね?》
「……愛してます」
それは、無意識のうちに発せられた、少年の永遠の想いだった。悠太は、己の愛に絶望したまま、その問いの意味を尋ねることすらできないでいる。
……どれほどの時間が流れたのだろうか。ふと、通話口から溜め息が聞こえてくる。
《そうか……ならば、目を閉じなさい……》
「はい?」
《目を閉じなさい》
少年は瞼を下ろす。全てを忘れるために。
マリア・・・
「!」
少年は瞼を上げた。
《声が聞こえたかね? カミサマの声が……》
「……カミサマの声?」
悠太は、辺りを見回す。人の気配はない。いや、カミサマの気配はない。それとも、一般人である自分には分からないのだろうか。
少年が不可視の恐怖に襲われ始めたとき、只居が言葉を継いだ。
《それが、君の使徒名じゃよ》
悠太は、老人の矛盾に首を傾げた。聞き間違えではないのか。携帯を耳に押し当てるが、只居がその台詞を繰り返すことはなかった。
悠太は、混乱気味に口を開く。
「い、いったい、何がどうなって……⁉」
そのとき少年は、使徒心得のある条文を思い出した。使徒は、自分の命と引き換えに、他人を使徒にすることができる……自分の命と引き換えに……。
「只居さん……あなたは最初から死ぬつもりで……」
悠太の震える声に、老人は寂然と言葉を返す。
《ワシの出番は、もう終わりじゃけん……ワシはあの日からずっと、カミサマがお戻りになるのを待っておったんじゃ……先代のカミサマは死んでしもうたが、ワシにはそれが信じられんでの……金を貯め、施設を作り、賄賂を渡して基地に会議場も設けた……そしたらの、ついに復活されたんじゃよ……全く別のお姿でな……》
老人は、そこで言葉を切った。
悠太は汗ばんだ手で携帯を握り締め、最後の教えを請う。
「やっぱりカミサマを知ってるんですね? 何者なんです、カミサマは? なぜ僕らにこんなことをするんです? 教えてください!」
悠太の懇願を無視して、老人は話題を転じる。
《今すぐ、病院のクリスくんを尋ねなさい。クリスくんのいる第三病棟の裏手に、ゴミ集積所がある。そこは、夜間でも施錠されておらん。中に入れるはずじゃ》
「クリスくんを? なぜです? そこに何があるんですか?」
《行けば分かる……急ぎなさい。ただその前に、真飛くんと連絡を取るがええ》
唐突に漏らされた友人の名に、悠太は動揺した。
「真飛と? 真飛がどうかしたんですか?」
《彼がヤコブBじゃけん……彼と相談しなさい……君たちの未来をな……》
「!」
その名前の組み合わせを、悠太は一度も考えたことがなかった。しかし、春園の転売を最初に指摘したのが真飛であることを、少年は瞬時に思い出す。
《それと、ルカくんもな……》
最後の、そして最も謎めいた使徒の名に、悠太の聴覚が反応する。
「ルカ? ルカは誰なんです? まだ生きてるんですか?」
只居は、その使徒の名を明かした。悠太は息を呑み、再び口を噤む。
《三人おれば何とかなるじゃろう……ワシはもう疲れたけん……悠太くん……》
全ての使徒は明らかになった。それを置き土産にして、只居は最後の言葉を呟く。
《全てを捨てなさい……道は、そこにある……》
老人の声は薄れ、電波越しに奇妙な衝突音が聞こえた。カラカラというプラスチックの音に、悠太は思わず叫んだ。
「只居さん? 只居さん⁉」
そのとき悠太は、背後に現れた人の気配に気が付く。振り返ると、開かずの扉が、ひとりの少女を迎え入れていた。
「こんなところにいたんだ……」
室内の闇と屋外の闇とのコントラストを背景に、瑠香が佇んでいた。その手には、あの鋭い刃が握られている。
少年は携帯を下ろし、この錯綜した負の遊戯を終わらせにかかった。
「瑠香……やっぱり君が……」




