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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第12章 見よ、この人こそ
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「ハァ……ハァ……」

 光のない空間で、湿っぽいカビの匂いを嗅ぎながら、悠太は呼吸を整える。

「ハァ……ハァ……」

 少年は、膝に両手をついた。ここなら誰にも見つからない。彼には、その自信があった。小学生の頃、鬼ごっこやかくれんぼで秘策として使っていたのが、この開かずの男子更衣室なのだ。一見すると厳重に閉鎖されており、中へ入ることはできないように思えるのだが、実はちょっとした工夫で鍵が外れてしまうのである。そのことを発見した悠太は、何か重要なものを賭けているときにだけ、ここに隠れることにしていた。卒業するまで、一度も見つかったことはない。

「……」

 耳を澄ませる。足音は聞こえてこない。あまりの疲労に、悠太は衣服が汚れるのも厭わないで、姿の見えぬ壁へともたれかかった。落ち着きを取戻し始めた息遣いに混じって、どこからか流水の音が聞こえてくる。配水管か何かだろうか。少年は、ぼんやりとそんなことを思った。

 

 ピリリリ ピリリリ

 

「⁉」

 しまった、この手があったか。悠太は、マナーモードに切り替えていなかったことを悔やみながら、携帯を取り出す。急いで電源を切ろうとした悠太の目に、見知らぬ番号が飛び込んできた。

 瑠香ではない。未登録の番号だ。悠太は、震える指で通話ボタンを押す。

「……もしもし?」

 電話が繋がったのを確認しているのか、妙な間が空いた。微かな雑音に混じり、相手の吐息が聞こえてくる。少年がもう一度尋ねようとしたところで、ふいに音声が入った。

《仮屋くんかね?》

 悠太は、そのしわがれた声に、うっすらと聞き覚えがあった。

「只居さん?」

《やれやれ、生きとるとは思ったが……よかったわい》

 嬉しそうに、老人はそう呟いた。自分が瑠香に襲われていることを察知したのだろうか。だが、そんなことはありえないように思われた。老人ホームから、いったいどうやってこの惨劇を透視するというのだ……。

 そこで悠太は、小さな悲鳴を発する。

「只居さん……まさか、あなたがカミサマ……?」

 その途端、通話口の向こうから、乾いた笑い声が聞こえてきた。

《ワシはただの老いぼれじゃよ……一介の使徒に過ぎんけん……》

 使徒。その言葉に、悠太は安堵と憤怒の入り交じった声で答える。

「やっぱりあなたがタダイなんですね? どうして黙ってたんですか? 他のみんなは、無理矢理にでも連絡を取ってきたのに……今日だって、フィリポさんとマタイさんが……」

《そのふたりなら、もう死んどるよ》

「……え?」

《ワシの部屋でな》

 少年の脳裏を、瑠香の幻影が掠めた。自分は、とんでもない思い違いをしていたのではないか。悠太は、携帯を両手で支えながら、言葉を継ごうとする。

「只居さん……それじゃあなたが……あなたが裏切り者……」

《それも誤解じゃよ……ワシは殺しておらん……》

 容疑の否認。自白した容疑者が一転して手のひらを返したような、そんな状況に、悠太は困惑してしまう。

「じゃあ、なぜあなたの部屋に……死体があるんです……?」

 弁解不可能だ。言い逃れできるはずがない。悠太は、釈明を期待していなかった。

 ところがそこへ、只居は全く予期せぬ答えを提示してみせた。

《それはの……君に正体がバレたからじゃよ》

 何を言ってるんだ……この老人も自分を疑っているのか……悠太は、目下の危難も忘れて、自身の無実を訴える。

「違う! 僕は殺してなんかいない!」

 更衣室にこだまする声を、老人の一言が打ち消す。

《そう、君は殺しておらん……無実じゃ……》

「だったら……だったらさっきの発言はいったい……?」

《悠太くん、君は使徒ではないんだよ……》

 沈黙。暗闇を背景にして、これまでの出来事がフラッシュバックする。少年の脳は限界を超え、一瞬の推理の中に、流れ星のごとく全ての事象を垣間みた。

 悠太が結論を口にする前に、只居はそれを代弁し始めた。

《裏切り者は……ユダは他におるんじゃ……君は、気付かんかったかね? シモンもヨハネも、それにペトロとマルコも、死ぬ六時間前に、君に正体を喋っとったことにな……バルトロマイの身に何があったのかは知らんが……大方、事故の前に、君に正体を掴まれたんじゃろうて……まあ、彼女も死ぬと決まっとったんじゃが……》

「嘘だ……僕は……僕は……」

 膝の震えが止まらない。七人は、自分に正体を掴まれ、そして死んで行ったというのだろうか。理性ではなく良心が、その事実を拒もうとしていた。

《七年前の五月五日、基地で何があったと思う?》

 老人の穏やかな声が、少年を現実へと引き戻す。悠太は、自分が死の契機となったことを忘れるため、その問いに意識を沈めた。

「爆発事故……ですか……?」

 悠太は、そう答えた。だが、老人が尋ねているのは、もっと別のことではないかと、少年はそんな気がしてならない。

 案の定、只居は次の質問へと移る。

《そのとき何人死んだかを、君は覚えとるかね?》

「……死者の……数?」

 悠太は、新聞の記事を網膜に再生する。二〇〇六年五月五日の記事。只居の名前をそこに見つけたことは覚えている。そして、意識不明になった少年が、マリアの弟クリスであることも。

 しかし、他の犠牲者については、同情以外の念を抱いたことはない。悠太は、回答欄を埋められぬまま、老人の答えを待った。

《覚えてないかね……十三人じゃよ……》

「十三人……?」

 それがどうしたと言うのだ。そう言いかけたところで、悠太は全身の毛が逆立つのを感じた。その素数が意味するものは、ひとつしかない。少年は、乾いた唇を動かす。

「まさか……あのとき集まっていたのは……」

《そう、そのまさかなんよ……あれはな、海兵隊の打ち上げなどではなかった……カミサマを含めた、最後の晩餐だったんじゃよ……そして、使徒もカミサマも、みんな死んでしもうた……ワシはあの晩、たまたま基地のゴミ収集をしとってな、ふと子供が建物の中に入って行ったんで、様子を見ようとしたんじゃ……するとな、いきなりあの爆発が起こって……ワシは、助け出した使徒のひとりから、全てを聞いたんじゃよ……名前はアンドリューとか言ったか……結局彼は死んでしもうたが、あのときも、裏切り者はユダじゃったな……》

「あのときも? いったいそこで何があったんです? ユダは誰なんですか⁉」

《知りたいかね?》

 老人は、静かにそう尋ねた。それが、死よりも深い決心を要求していることに、少年は本能で気が付く。

 ぽたりと天井から水漏れの音がした後、悠太は口を開いた。

「はい……」

《そうか……》

 老人は、ユダの正体を告げた。少年が携帯を取り落とさなかったこと自体が、既にひとつのキセキのように思われた。

「嘘だ……」

 それは、最後の心理的抵抗だったのかもしれない。だがその名前は、迷宮と化したこの町の出口を、ぴたりと指し示していた。動機を除いて、全ての辻褄が合う。少年は、そう認めざるをえなかった。

 言葉を失った少年に、只居は問いを放つ。

《君は好きな子がおると言ったな……まだ、その子を愛しとるかね?》

 悠太は答えない。ただ呆然と、更衣室の闇を見据えている。

《愛しとるかね?》

「……愛してます」

 それは、無意識のうちに発せられた、少年の永遠の想いだった。悠太は、己の愛に絶望したまま、その問いの意味を尋ねることすらできないでいる。

 ……どれほどの時間が流れたのだろうか。ふと、通話口から溜め息が聞こえてくる。

《そうか……ならば、目を閉じなさい……》

「はい?」

《目を閉じなさい》

 少年は瞼を下ろす。全てを忘れるために。

 

 マリア・・・

 

「!」

 少年は瞼を上げた。

《声が聞こえたかね? カミサマの声が……》

「……カミサマの声?」

 悠太は、辺りを見回す。人の気配はない。いや、カミサマの気配はない。それとも、一般人である自分には分からないのだろうか。

 少年が不可視の恐怖に襲われ始めたとき、只居が言葉を継いだ。

《それが、君の使徒名じゃよ》

 悠太は、老人の矛盾に首を傾げた。聞き間違えではないのか。携帯を耳に押し当てるが、只居がその台詞を繰り返すことはなかった。

 悠太は、混乱気味に口を開く。

「い、いったい、何がどうなって……⁉」

 そのとき少年は、使徒心得のある条文を思い出した。使徒は、自分の命と引き換えに、他人を使徒にすることができる……自分の命と引き換えに……。

「只居さん……あなたは最初から死ぬつもりで……」

 悠太の震える声に、老人は寂然と言葉を返す。

《ワシの出番は、もう終わりじゃけん……ワシはあの日からずっと、カミサマがお戻りになるのを待っておったんじゃ……先代のカミサマは死んでしもうたが、ワシにはそれが信じられんでの……金を貯め、施設を作り、賄賂を渡して基地に会議場も設けた……そしたらの、ついに復活されたんじゃよ……全く別のお姿でな……》

 老人は、そこで言葉を切った。

 悠太は汗ばんだ手で携帯を握り締め、最後の教えを請う。

「やっぱりカミサマを知ってるんですね? 何者なんです、カミサマは? なぜ僕らにこんなことをするんです? 教えてください!」

 悠太の懇願を無視して、老人は話題を転じる。

《今すぐ、病院のクリスくんを尋ねなさい。クリスくんのいる第三病棟の裏手に、ゴミ集積所がある。そこは、夜間でも施錠されておらん。中に入れるはずじゃ》

「クリスくんを? なぜです? そこに何があるんですか?」

《行けば分かる……急ぎなさい。ただその前に、真飛くんと連絡を取るがええ》

 唐突に漏らされた友人の名に、悠太は動揺した。

「真飛と? 真飛がどうかしたんですか?」

《彼がヤコブBじゃけん……彼と相談しなさい……君たちの未来をな……》

「!」

 その名前の組み合わせを、悠太は一度も考えたことがなかった。しかし、春園の転売を最初に指摘したのが真飛であることを、少年は瞬時に思い出す。

《それと、ルカくんもな……》

 最後の、そして最も謎めいた使徒の名に、悠太の聴覚が反応する。

「ルカ? ルカは誰なんです? まだ生きてるんですか?」

 只居は、その使徒の名を明かした。悠太は息を呑み、再び口を噤む。

《三人おれば何とかなるじゃろう……ワシはもう疲れたけん……悠太くん……》

 全ての使徒は明らかになった。それを置き土産にして、只居は最後の言葉を呟く。

《全てを捨てなさい……道は、そこにある……》

 老人の声は薄れ、電波越しに奇妙な衝突音が聞こえた。カラカラというプラスチックの音に、悠太は思わず叫んだ。

「只居さん? 只居さん⁉」

 そのとき悠太は、背後に現れた人の気配に気が付く。振り返ると、開かずの扉が、ひとりの少女を迎え入れていた。

「こんなところにいたんだ……」

 室内の闇と屋外の闇とのコントラストを背景に、瑠香が佇んでいた。その手には、あの鋭い刃が握られている。

 少年は携帯を下ろし、この錯綜した負の遊戯を終わらせにかかった。

「瑠香……やっぱり君が……」

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